8章 空
「言わないでいてもらえるかな」
長い話を全て語り終えると、ヘゼルはその場で崩れ落ち、倒れ込んだ。一番近くにいたティールが慌てて助け起こすが、ヘゼルは揺さぶられても固く目を閉じたままだ。既に意識はないようだった。
話し始めた際に伸びだした刺青は、右頬に刻まれた状態のままで侵食は止まっている。しかし服に隠れた部分がどうなっているかまでは外から見えない。顔以外の部分は、既にほとんど蝕まれているのかもしれなかった。
ヘゼルの頬を何度か叩くが反応はない。
焦って、ティールが助けを求めようと顔を上げた時。大きな音をさせて、扉が開いた。にわかに外からやってきた人物は、ヘゼルを一瞥すると、深く息をつく。
「間に合ったな」
「姉ちゃん」
唐突に現れたジーラルに、ティールは目を見開いた。
「どうしてここに?」
「準備に手間取ってな。はなから同行できればよかったんだが」
答えにならない答えを返しながら、テーブルの上に鞄を放り出し、彼女はヘゼルの上にかがみ込む。顔の前に手をかざして、呼吸や刺青の状態を確認すると、彼女は小さく頷いた。
「まだ大丈夫だ」
「これ、どうにかできるのか?」
「完全に呪いを取り去ることはできない。だが付け焼き刃で、一時的に力を抑え込むことならできるはずだ。
隣の部屋を借りられるかな」
早口で告げたジーラルの言葉に、事情を知らないながらに、オッドは深く頷いた。
+++++
別室に消えたジーラルとヘゼル、それから付き添いのオッドは、太陽が空の頂点を過ぎても出てこなかった。彼らがここに来たのは朝だ。だいぶ長いことヘゼルは話をしていたが、それでも彼が倒れた時、まだそれは東の空にいた。
部屋に通された際に出された茶は、すっかり冷え切っている。昼食は摂っていないが、誰も腹は空かなかった。
ナシカもまた、未だに曲を奏で続けていた。隣室の彼らの苦しみや疲労を取り去ろうとしているのだろう。だがナシカこそ、ヘゼルが話す間中もずっと演奏し続けているのだ。ティールやヒルドは少し休むように告げたが、彼女は聞き入れなかった。
残された者たちは、無言で彼らが戻ってくるのを待った。重苦しい雰囲気の中、ナシカの奏じる軽快な舞曲が響き渡り、その音色だけが明るい。
やがて沈黙を破り、ロタが口火を切る。
「なあ。さっきの話に出てきた、音楽術師の女の子ってのは」
「……ナシカだ」
ヒルドは渋面で、しかしはっきり認めた。
「当時。あの事件は、かなり騒ぎになった。その時分は私も子どもだったが、よく覚えているよ。……ナシカのおばあさんには、私も世話になったからな」
言葉少なに告げ、ヒルドは自分の手を握った。その部分については深入りせずに、ロタは重ねて問いかける。
「ヘゼルくんは、そこんとこ分かって話してたのか? それにしちゃ、随分とその子について他人行儀な話しぶりだったが」
「分かってたら、もっと前から別の態度をとってただろうよ。あんの朴念仁めが」
ティールは舌を出して顔をしかめる。
「ナシカはあいつが村に来た最初っから気付いてたよ。だけどヘゼルの野郎は一向に気付かなかった。あんの朴念仁めが」
二度悪態を吐いて、ティールは頬杖を付いた。それで気が抜けたのか、ようやく固くなっていた表情が少しだけ和らぐ。
なるほどねぇ、とロタもまた頬杖を付いて、ちらりと隣の部屋に続く扉を眺めた。
「ま、そうだろうな。あの時の子が目の前にいるって分かってりゃ、多少なりとも水を向けるだろうし、あんなに深いところまで話せやしないか」
「とりあえず1つはっきりしたことは」
いきなり背後からナシカの声が聞こえて、ロタはぎょっとして振り返る。いつの間にか、演奏を終えていたらしい。
フィドルを肩からおろし額の汗を拭うと、ナシカは晴れやかに顔を上げる。
「ヘゼルは。完全に私のことを忘れてるね」
にこりと笑顔を浮かべてナシカは言った。
しかし何故か威圧感を覚えて、ロタは黙り込む。
「けど。さっきの話で、全部、納得した。何が起きていたのか。何を狙っていたのか。
あの人が、バルドルが復活しようとしていること。……それから、多分」
独り言のように呟いてから、その先の言葉は飲み込むと。
ナシカは毅然とした表情をロタに目を向ける。
「もう、二人にはお願いしてあったんだけどね。ロタにもお願いしたいことがあるの」
「なんだいナシカちゃん」
「ヘゼルには。彼女が私だってこと、言わないでいてもらえるかな」
目を二、三度瞬かせてから、ロタは軽く首を傾げる。
「別に、構やしねぇが。今更、なんだってまた」
「過去のことを話すと、呪いは進んだ」
ナシカは隣室の扉をちらと横目でうかがう。
「私をその子と認識してしまうことで。ヘゼルの呪いは、完遂してしまうような気がするの。
だからこそラギは、ヘゼルをウィエルに
憶測に過ぎないけど、ヘゼルの呪いの最後のピースが、私なんじゃないかなって思う」
ラギは最初にナシカに接触し、バルドルの解放か、ヘゼルの精神面での死を望んできた。もしただ純粋にそれらを望むだけならば、ナシカに固執する必要はない。他に適任を探すことはできただろうし、ティールとヒルドに呪いをかけてまでナシカを追い込む必要はなかった。
この件をナシカに持ちかけたことにこそ意味があったしても、不思議ではない。
「それに、そこまで意図した呪いじゃなかったとしても。これ以上は、刺激を与えない方がいいと思うの。
ジーラ姉さんの処置で、一旦は収まるだろうけど。それも一時的なものだろうから。どう作用するかは分からない」
「……確かにな。今のヘゼルくんにゃ、それだけでも危なそうだ」
ロタは肩をすくめた。
「それにしても、はなからティールくんとねーさんに口封じしてたってことは。ナシカちゃんは、前からその可能性に気付いてたのか?」
「ううん。ちっとも気付かなかったよ」
ナシカはうつむき加減で、ぶんぶんと首を横に振る。
「最初はね。忘れられて、ちょっとムキになってただけなんだ。なにがなんでも向こうが思い出すまで私も他人のふりしようって、ティールとヒルドには言わないよう頼んでたの。半分意地だね。
……けど、今は後悔してる。結構、ヒントをばらまいちゃったから。まあ、それでもあの人は気付きませんでしたけどね」
一息に告げられた彼女の弁に圧され、一瞬、黙り込んでから。
ややあって、ロタは尋ねる。
「……ナシカちゃん?」
「なぁに?」
朗らかな笑みでナシカは顔を上げた。
だが、やはり有無言わせぬ圧を感じて、ロタは言葉を飲み込む。
「……いいえ、なんでもないです」
そのまま彼は、おとなしく引き下がった。
フィドルを手入れしてしまうため、ナシカが部屋を後にした隙に、ロタはこっそりとティールを小突く。
「なぁ。……もしかしてあれは、怒ってるのか」
「今更、気付いたのか。かなり初期の段階から、ずっとナシカはヘゼルにキレてるぞ。表に出さなかっただけで」
事もなげにティールが答えた。隣でヒルドも頷く。
「まあ気付かないだろう。ナシカのあれは、外からじゃ分かりにくい」
「俺とヒルドの呪いのことは隠せてたのにな」
「全くだ。もっとも、途中から割り切って、多少は飲み込んだみたいだけどな」
二人は当たり前のようにそう言い合ってから。ヒルドは真顔でロタに忠告する。
「覚えておけ。本当に怒ってる時、ナシカは笑う」
「……よくよく肝に命じておこう」
小さく両手を挙げ、ナシカ本人には聞こえない程度の小声でロタは頷いた。
輪生エッダ 佐久良 明兎 @akito39
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