『死にたくないんだったら、生きろよ』
途端に鳥肌が立って、僕は身を堅くする。彼らの声に耳を澄まさずとも、直感で分かった。
誰かが、近付いている。
姿は隠れているはずだが、念のために彼女を引き寄せ、壁と自分との間に挟み覆い隠す。身を縮めて、そのままじっと息を潜めた。
次第次第に近くなる足音。
通りに姿を現したのは、やはり兄だった。
ゆっくりした足取りで、兄は物陰や細い路地を入念にうかがう。彼女を探しているようだった。
兄は、僕らの潜む物陰にも目を配らせ、僕らのいる場所へじっと目を凝らす。
けれども僕らには気付くことなく、そのまま通り過ぎた。
兄の姿が消え、たっぷり兄が来たときの倍以上の時間が経ってから、ようやく僕は息を吐き出し、彼女を解放する。
しかしいつまでもこうしている訳にはいかない。僕の集中力が途切れれば、術の力が弱まり、兄に見つかってしまうだろう。僕が術を使うのはこれが初めてなのだ。過信しない方がいいだろう。
「早くした方が良い。兄さんに見つかったら厄介なことになる」
「……どうして?」
焦って彼女に囁いたが、返ってきた言葉は、どこか投げやりだった。
彼女の発した台詞の意味が分からず、僕は困惑して彼女を見つめる。僕の腕をつかみ、彼女はまっすぐ僕を見返してきた。
「どうして、私だけ逃げられるというの」
悲しみを覆い隠したその強い口調に、最後まで気丈に孫娘のことを案じていた老婦人の姿がよぎる。
「何が起きているのかは分からない。
けど、確かに私がおばちゃんを巻き込んで死なせてしまった。なのに、どうして私一人、のうのうと帰れるというの」
声ははっきりとしていた。
けれどもその目には、立ち上がる力を宿していない。
無理も、ないだろう。
言葉を選びながら、僕はたどたどしく声をかける。
「気持ちが、分かるとは言わない。突然のことで、整理がつかないだろうし。
けど、おばあさんは君に託したんだろう。その為にも、君だけでも逃げないと」
「託す?」
吐き捨てるような声で、彼女は呟いた。
まるで彼女に似つかわしくない物言いだった。
「そんなもののために、おばあちゃんは死んだの?」
彼女は夜空を仰ぐ。僕の目には空中にふよふよと漂う夜の精霊たちの姿が見えたが、彼女の目にそれは映っていないのだろう。
おそらく、彼女は、深い闇の広がる空に頼りなく浮かぶ、細い月を見上げていた。
「音楽術なんて、精霊なんて、もうどうでもいい。
目の前の家族一人助けられないのに、何が神童よ。何が音楽術師よ。
どうせ私にそんなこと、できっこなかったのに。こんなことなら、一生、村から出なければよかった。
行き着く先がこんな呪われた運命なら、生まれてなんか来なければよかった」
その月を、彼女は睨みつけるようにして、彼女は言い放った。
敵のようにその月を見つめているのは、涙が溢れないようにしているからかもしれなかった。
殴られたような衝撃に、僕は押し黙る。
ひどく強い言葉だった。けれども、ひどく悲しい言葉だった。
悲惨な現実を前に、自分自身に絶望して放った、呪いにも似た独白だった。
ずっと、僕と彼女とは対極なのだと思っていた。
優等生と劣等生、期待された人間と落胆された人間。
きっとこの子は僕より遥かに恵まれて、幸せな人間なのだと思っていた。
ある側面では確かにそうなのだろう。
兄が、そうであったように。
けれども、周りの意識と自分の意識との
自分の力が信じられずにいる、という点においては。
僕らは兄よりもずっと、近いところにいたのかもしれない。
口元に諦めの笑みを浮かべ、彼女は訥々と語る。
「あの人を見たでしょう。私への、恐ろしいまでの執着を。
どうせ逃げたって、いずれ見つかる。いくらおばあちゃんの術を教わったからって、永遠にそれが続く保証はない」
彼女の言うことは、正しい。
僕が死ねば、身代わりの影がなくなれば、彼女はまた見つけられてしまう。
それこそ兄が死なない限り、彼女が逃げ切れる保証はない。
けれど。
「呪わしい運命を抱いて生きるのと、死ぬの、どっちがいい」
「……え?」
唐突な問いに、彼女は驚いたように僕を見た。
僕はまっすぐ彼女の目を見つめる。
「そう絶望するのも、そう諦めてしまうのも、無理はないのかもしれない。
だけど、本心じゃあないだろう。
震えているのは、逃れたいからじゃないのか。
隠れていたのは、死にたくないからじゃないのか」
死ぬ、というのは語弊があるだろう。おそらく兄は、邪魔をする人間こそ躊躇なく手を下すだろうが、彼女を殺す気などない。
けれども目の前で祖母を殺され。
あの異常な執念を燃やす兄を見て。
それを連想しない方が、難しいというものだ。
それに、兄の先ほどの言いぐさが本当だとするのならば。
兄に囚われたが最後、結局、人として死んでいるのと同じことだ。
「未来は知らない。けど、『今』逃げられる可能性があるのなら、逃げろよ。
確かに永遠に守れる保証はないさ。けど、その後のことはその時また考えればいいだろう。どうして今すぐ絶望する必要があるんだ。その先には、別の道があるかもしれないじゃないか。
それまでは、僕が守ってやるって言ってるんだ」
僕を助けてくれたあの人のために。
今度は、僕がこの子を助けなければならないと思っていた。
だけど、それだけじゃない。
彼女の肩を掴み、まるで何かに突き動かされたかのように、僕は告げる。
「呪いを本当に呪いたらしめてしまうのか、祈りに変えることが出来るかは、お前次第だろう。
優秀な音楽術師なら、やってみせろよ。
死にたくないんだったら、生きろよ」
きっと、半分以上。
僕は自分自身に言っていたのだと思う。
「あの人は、あんたなら大丈夫だと思ったから託したんだろう!」
今よりも、その先の未来に希望があると。
自分の力を、自分ができることを。
呪いさえ祈りに変えられると、誰よりも信じたかったのは。
僕自身だったのだ。
小さく、息をのんだ気配がした。
一瞬だけ、沈黙が流れてから。
彼女は腕を上げ、一切のためらいなくナイフを引き、自身の髪を切った。髪の結び目のところで切られた髪が、はらりと肩に降りる。
「お願い」
切り取られた髪を差し出し、彼女は強い口調で言った。
けれども今度は、ちゃんと次へ向かう気持ちを秘めた、力強い声だった。
黙って頷きナイフと共に受け取ってから、僕も一房、自分の髪を切った。彼女のそれと混ざらないように注意しながら、手のひらの上に乗せた髪にそっと囁く。
「影よ、守れ」
ふわり、と生ぬるい風が吹く。宙を漂っていた精霊のいくつかが寄り集まり、人の形をとった。今度は彼女にもそれが見えているようで、少しだけ警戒しながらじっとその影を見つめる。
「不安だっていうなら、もう一つ守りをつけてやる。これから村に帰る道中、兄以外の危険からも守ってくれるはずだ。
万一あんたの影が消されたときにも、そいつがそれを知らせてくれるだろう」
夜の暗闇の中でも、いっとう闇の濃い僕の影は、次第次第により人間らしい姿を形作っていく。
それと反比例するように、僕らを隠している精霊たちは少しずつ離れていった。まだ不慣れな所為か、同時に一定の術の精度を保つのは難しいらしい。
左右に視線を巡らせ、兄の姿が見えないことを確認してから、僕は彼女の背中を押した。
「……ありがとう。あの、私」
「いいから、行け。後のことはきっと、大人たちがどうにかしてくれる。おばあさんのことも、必ず送り届けるよ。
今は行け。生きろよ」
彼女は迷ったように視線を泳がせてから、しかし頷き。
一目散に、村の外へ駆けていった。
彼女を見送った後。
僕は兄を探すことなく家に戻り、大人たちに事の次第を報告した。
老婦人の言葉が頭をよぎりながらも、僕は兄から身を隠すようにして、逃げ帰ったのだ。
僕もまた、兄から逃げたのだ。
彼女を逃した直後、兄と正面から対峙する勇気が僕にはなかった。
それから、僕らがどうなってしまうのかも含めて。
だからその後のことには、僕はほとんど関与していない。
爺さまたち大人が成したことを、後から聞くばかりだった。
彼女はどうにか無事に自分の村に帰り着いたらしかった。
老婦人の亡骸は丁重に扱われ、彼女の村に返された。
そして、兄は村を追放された。
けれど、実際は追放という体とは少々異なっていた。
彼女の後を追うようにして、大人たちの沙汰を待つことなく、兄はそのまま姿を消してしまったのだから。
けれども僕の術が効いているのか、幸いにして彼女からも他の人々からも、兄の姿を見たという報告はないらしかった。
しばらくは僕も大人たちも、そして彼女の周囲の人たちも、兄のことを警戒し続けていた。
けれども長らく風の噂ですら音沙汰ない状態が続き、平穏な時間ばかりが流れ。
やがて、あの忌まわしい出来事も兄の凶行も、時間の経過とともに、多くの人々の記憶から、その警戒心と一緒に薄れていった。
僕はといえば、関係のなかった村人ほど油断してはいなかったし、決してあの日の光景を忘れることはなかったけれども。
逃げ延びた彼女を案じつつも、やはり前より兄のことを思って神経をすり減らす時間は少なくなっていった。
四年後。
僕の村が、業火に包まれるまでは。
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