『迎えに行くのさ、花嫁を』
「ヘゼル」
背後からその声がしたのは、老婦人が
いつもは、僕にとって、唯一の救いであるはずのそれ。
「……兄さん」
震えてしまいそうになる声を必死に抑え、振り返れば。
そこには、僕のたった一人の兄が立っていた。
月明かりに照らされ、すっと佇む兄の姿は、病的なまでに美しい。
だけど。
さっきは、どうして気が付かなかったのだろう。
兄の頬からは、おそらく老婦人のものだろう血が滴っているというのに。
もっともここは戸外、『夜』の満ちている場所だ。夜の精霊が僕に、兄の本当の姿を見せてくれているから見えるのかもしれなかった。
「そこにいたのか」
それは果たして僕のことか、老婦人のことか。
問うことは出来ず、僕は返事はせずに押し黙る。
兄は事切れた彼女を一瞥すると、すぐに興味を失ったように目を反らし。今度は、まっすぐに僕を見据える。
「あの子は、どこだ?」
「知らない」
これは本当だった。
老婦人に孫娘のことを託されはしたが、僕は彼女の居場所を知らない。彼女は彼女の意志と選択に従って、村を逃げ回っているか、どこかに隠れているのだろう。
この、兄から逃れるために。
けれど、今はどうだろう。
さっきまでは夜の精霊の加護で、彼女は村を熟知する兄の目から逃れることができていた。けれども今、こうして老婦人が兄に発見されてしまったように、既に術は解けている。
見つかるのは時間の問題だ。
「なら、いい。邪魔してくれるなよ」
孫娘の居場所を追求されるかと思ったが、兄はそれを信じたようだった。意外に思った後で、確かにそうかと思い直す。
よく考えてみれば。僕は、兄に嘘がつけない。
つけないというより、嘘をついたとして、すぐに兄には見破られてしまうのだ。
僕が分かりやすいというのもあっただろうけど。お互いに、お互いのくせは承知していたから。
仲の良い兄弟、だった、から。
逆に言えば、これから僕のする言動の真偽だって。
兄には、既にお見通しというわけなのだ。
それでも兄が今の時点で僕を止めようとしないのは。
僕が兄にとって、たいした障害とならないと見なされているからなのだろう。
「何を、する気なの」
「決まっているだろう」
僕の問いかけに、兄はさも当然のように言ってのける。
「迎えに行くのさ、花嫁を」
「……花嫁?」
目を瞬かせる。
何を言っているのか、よく意味が分からなかった。
「彼女は、僕のものだ。
二人を分かつものがあってはいけない。今生は二度と、離れちゃあいけないんだ。
けれども、そこの御婦人は僕らの邪魔をした。僕らは今後ずっと一切合切、共に寄り添っていなければならないというのに、予定通りに村を発つと言って聞かないからね。
だから僕らの障りになる彼女のことは排除させてもらったんだ」
「……排除、って」
事も無げに言った、その言いぐさに。
僕は、ぐっと拳を握る。
けれど兄は、僕の反応などお構いなしに。
まるで詩でも編んでいるかのように、朗々と語る。
「僕らは共に手を取るさだめなんだ。
全ての滅びを退け、全てを光で満たすため。
もう二度とこの村から、この家から、彼女は出さない。
永遠に、彼女は僕の手元に置いておかなくてはならないのだ。
逃げ出さないよう、盗られないよう、厳重に、厳重に」
ぞくりとして、僕は思わず身をよじらせる。
正気じゃ、ない。
目の前にいる人間は、確かに僕の兄だった。
けれども、僕が良く知る兄じゃない。
異様なまでにあの子に執着する兄の姿は。
「……どうかしている」
「邪魔するなよ、ヘゼル」
妖しい笑みを口元に浮かべ、兄は躊躇なく言い放つ。
「僕たちを邪魔する者は、弟だろうと家族だろうと、全て葬り去る。
僕には、彼女さえいればよいのだ。
彼女さえいれば、全てが全て、昔のように上手くいく!」
そう告げて両手を広げた兄の姿は。たとえ身内を手に掛けたとしても、それすら運命づけられているとでも言いたげだった。
今度こそ、僕は悟る。
兄は僕を殺すことすら躊躇しない。
あの子以外の物事は、全てもう彼にとって、取るに足らないことなのだろう。
そして。
あの子すらも、ただそう運命づけられた駒としてしか、見ていないのだ。
ぎゅっと目を閉じると。
僕は、小声で彼らに囁く。
途端、
「……ヘゼル?」
すっと、兄の視界から僕が消えた。
ちゃんと夜の精霊が、僕に味方してくれたことに安堵しつつ。
兄に背を向け、彼と反対方向へ走り出した。
手のひらに収まった、老婦人より託されたそれを強く握る。
堅いけれども優しい手触りのそれは手にしっくり馴染んで、こんな時だというのに僕を少し安心させた。
見つけなくちゃいけない。
あの子を、逃がさなくちゃいけない!
この村のことは、兄が熟知している。
けれどもそれは僕だって一緒だった。
それに。昔から、家族や村人の口さがない陰口から逃げ回っていた僕の方が、うってつけの隠れ場所や逃げ道は、よく知っているんだ。
兄が困惑している今が好機だ。
兄が、どうしてああなってしまったのか。
兄が、どうしてそこまで彼女を求めるのか。
何も分からない。
けれども、このままでは全てが危ういのだということだけは、はっきりと分かった。
絶望と背中合わせの希望だったけれども。
居場所のなかった僕に、ひとかけらの光を見いだしてくれた、老婦人の遺志を繋げるため。
あの子を見つけるため、僕は全速力で走り出した。
「見つけた」
孫娘は、昼間いた階段と図書館の建物との間にできている隙間、そこに身を小さくして隠れていた。
声をかけると、彼女の肩がびくりと盛大に震える。
無理もないだろう。あの状態の兄から、逃げ隠れているのだ。
それに。どういう状況で彼女が逃げ出したのか分からなかったけれども、下手をすれば、老婦人が兄に手をかけているところをも彼女は目撃しているのかもしれない。
いや。この脅えようをみれば、きっとそうなのだろう。
恐怖を目一杯に貼り付けた表情で振り返った彼女は、しかしそこに居たのが僕だったため、今度は困惑の面持ちに変わる。僕が敵か味方か、全く関係のない第三者なのか、図りかねているのだろう。
けれども僕は、弟だ。このままでは警戒される可能性の方が高かった。
「夜よ、隠せ」
急いで告げると、そっと彼らは僕らの周りを取り囲む。これで僕と彼女の姿は、他の者から見えなくなったはずだ。
僕の目には、まるで夜の霧のもやみたいな精霊たちが、手を繋いで僕らを丸く取り囲んでいるのが見える。けれどもこの姿は、僕しか見えていない。
けれども
今までの無視され続けた日々が、嘘のようだった。まるで
けれど、今は感慨に耽る時間はない。
「大丈夫。僕は、君の味方だ」
なるべく彼女を刺激しないよう、穏やかな声音で告げた。その言葉に、わずかに彼女の目へ安堵の色が浮かぶが、緊張の糸は解けないままだ。
左右に意識を配らせる。兄はまだ、来ない。
「おばあさんから話は聞いた。
僕は、君のおばあさんと同じ精霊の力を使えるんだ。
今から、君を逃がす」
「おばあちゃんは!?」
はっとしたような彼女の問いかけに、僕は言葉を詰まらせる。
けれど、その反応で。彼女は全てを悟ったようだった。
脱力して、彼女は石畳の上にへたり込む。
「どうして。……なんでなの、どうしてこんな、ことに」
呆けたように呟いた。涙は、出ない。悲しみに浸るよりも前に、まだ現実を受け入れられていないのだろう。自分の身に起きていることが、未だに信じられないようだった。
僕は手のひらを開き、老婦人から受け取っていたものを彼女の手に握らせる。
それは木製の小さな笛だった。まだ大人になりきれていない自分の手に収まってしまうくらいの大きさだ。月明かりがちょうどそれを照らしてくれなかったら、笛だとは分からなかっただろう。
「これを、預かってきた。魔除けの力のあるお守りだそうだ。困ったときにこれを吹けば、きっと精霊たちが助けてくれると。
『精霊遣いではないが、音楽術で人を癒すことのできるお前に。人と精霊とを繋ぎ、その祈りを繋げるために、これを託したい』と、言っていた」
老婦人の言葉を伝えると、彼女は息をのみ、じっとその小さな笛を見つめた。
思う気持ちは山とあるのだろう。しかし今は、事態が事態だ。彼女が我に返るまで待たず、周囲に気を配りながら、僕は急いた気持ちでナイフを取り出す。
「それから。髪を、切ってくれないか」
「髪?」
「半永続的に、兄から君を隠すんだ」
顔を上げた彼女へ、早口で説明する。
「髪を君の身代わりにして、視線を逸らす。
君の髪を、君の影にする術をかけて、村に隠しておく。そうすると、いくら兄が君を探したところで、君の影が邪魔をして、見つけることはできなくなるのだそうだ。
君を見つけたとしても、それは全て影が惑わし隠してしまい、兄はどうしたって君を見つけられない。身代わりの影がなくなるか、術者の僕が死なない限り、効果は続く。
さっき、おばあさんに教わった。即席だけれど、成功させてみせる」
一息に言って、僕は彼女の手に、今度はナイフの柄を握らせた。
その時。
僕らを取り巻く夜の精霊たちが、ざわりと震えた。
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