『残酷なことを言っているのは、分かっている』

 夕食の後、僕はすぐさま老婦人の部屋に向かおうとした。

 が、それはできなかった。当の彼女が、孫娘を連れて夜の散歩に出てしまったからだ。


 いくら気がはやっても、本人がいないのではしょうがない。仕方なく、僕は老婦人を連れ出した(のだとこの時の僕は思っていた)あの子のことを少々恨みながら、窓辺に陣取って帰宅を待った。

 けれども。


「……遅すぎる」


 ぽつりと、思わず独り言が漏れた。

 夜はすっかり更けている。普段であれば皆が寝静まる時間帯だ。街の灯りもそろそろ消えてしまう。散歩をするような時間ではない。

 もしや僕が見逃しただけで、既に二人は帰ってきているのかもしれないと、そろりと音を立てないよう廊下に出た。


 家族は既に自室にこもっており、物音一つしない。家族を起こさないよう、慎重に忍び足で歩く。

 が、廊下の角から突然、音もなく人の姿が現れて、驚いた僕は声を上げそうになった。反射的に口を手で押さえ、なんとかそれを押し止める。


 やって来たのは兄だった。いつものように美しい銀髪を背に遊ばせ、すっと伸ばした背筋で歩く姿は、弟の僕から見ても美しい。

 けれども何故か、今夜は少しその美貌が精彩を欠いているように見えた。いつもの満月のような輝きに暗い闇が差し込み、丸かった月が細く欠けていって、弓なりになってでもいるかのようだった。

 まるで、不気味な笑みの形のように。


 驚きが去ってから、一呼吸して僕は小声で尋ねる。


「兄さん?」

「ああ、ヘゼルか」


 話しかけられて、ようやく兄は僕に気付いたように、視線を合わせた。


「ちょうどよかった。あの子を見なかったか?」


 あの子、というのは、すなわち僕の探し人の孫娘だろう。

 こんな夜更けに何の用事だろう、と思いながらも、特に深くは考えず答える。


「いや、見てないけど。部屋にはいないの?」

「ああ、いなかった」

「夕飯の後に二人で散歩に行ったみたいだけど、まだ帰ってないのかな」

「そうかもしれないな。……知らないならいいんだ、ありがとう。

 ならば、まだ外だな」


 最後の方はほとんど独り言のように呟いて、兄は立ち去った。

 不思議に思いつつ、僕は兄とすれ違い、老婦人の部屋に向かう。


 その時、つんと鼻につく香りがあった。

 なんだろうと一瞬首を傾げたが、特に気に留めることはなく、僕は先へ進む。


 後から思えば、それが一番最初に僕が気付けた瞬間だった。

 もっとも。その香りが何かに気付いたとて、僕が結論に辿り着いていたとは、到底思えないけれども。




 孫娘がいないなら、老婦人もおそらく帰宅していないだろうという懸念はあったが、念の為に僕は彼女の部屋を訪れる。

 扉にノックをするが、やはり返事はなかった。

 いつもだったら、まだ帰らないのかと不審に思いつつも、そのまま自室に引き返しただろう。けれどもこの日は、妙に気になって。

 僕は部屋のドアに手をかけ、すっと扉を押し開ける。


 部屋の中は、もぬけの殻だった。

 けれどもそこには、老婦人に替わり、いつもは存在しない異質なものがあった。

 


 老婦人の部屋に残っていたのは、血痕だった。



「な……!?」


 上げそうになる悲鳴を、飲み込む。

 軽く怪我をしてついてしまった、という量ではない。

 素人目にも致命傷となるだろうことが分かる、おびただしい量の血が、部屋の床にどろりと広がっていた。



 椅子の回りを中心に生まれた血溜まりは、すっと線を引いて扉の方に向かっている。

 ぱっと足元に目をやれば、それはドアをくぐり抜け、廊下に点々と続いていた。入った時には気付かなかったが、どうやら彼女は怪我をしたまま、外に出たらしい。

 考えるより先に、その血の跡を追って僕は部屋を出る。


 走りながら、僕は気付いた。

 兄とすれ違った時に感じた香りが、老婦人の部屋でかいだものと同じであることに。


 けれどもその事実は、そうと認識しただけでとどまり。

 僕はただ外に飛び出した。






 血の跡は、外に出ると途端に見つけづらくなる。

 けれども幸いにして自宅のすぐ側、通りから隠れるように壁の影にうずくまっている老婦人を見つけた。


「大丈夫ですか!?」


 駆け寄って、側にしゃがみ込む。月の光の頼りない明かりの下でもそれと分かる、青い顔。腹部はどす黒い色で染まっており、やはりぷんと鼻につく匂いから、それが血であることを再確認する。

 僕の姿を認め、老婦人は苦しげに歪めた顔を少しばかり緩めた。

 

「あぁ、よかった。あなたに見つけてもらえて……」

「一体どうして、こんなことに……!

 待ってて、今、人を呼んで」


 慌てて立ち上がろうとした僕の手首を掴み、老婦人は引き止める。


「悪いね。ゆっくり教える時間は、あまりなさそうだ。いいから話をお聞き」

「だけど、その前に怪我の手当をしないと」

「あたしはもう、助からない。それくらい自分で分かるさ。

 それよりも、あなたに伝えなくちゃ。時間がない。ようくお聞き」


 有無言わさぬ口調でそう言われ、僕は手首を掴まれたままその場に立ち尽くした。

 間を置かず、老婦人は告げる。


「ヘゼル。あなたは、夜の精霊に好かれた精霊遣いだ」

「夜の精霊」


 反芻した僕の言葉に、老婦人はゆっくりと頷く。


「またの名を、闇の精霊、影の精霊とも呼ぶ。どれも同じ存在だが、あたしは夜の精霊と呼んでいる。

 精霊遣いにとっても馴染みの薄い精霊だよ。彼らのことを忌む者もいるが、付き合い方を間違えなければ、決して恐ろしい存在じゃあない。このことはよく覚えておいで」


 僕の腕を強く握りながら、言い含めるように彼女は言った。

 闇の精霊、と呼ばれるものの存在については、噂程度の話で聞いたことはあった。けれども彼らは精霊遣いでも扱うことのできない、気難しい存在だと思っていた。

 彼らは他の精霊より遥かに恐ろしい力を内包するものだから、人が手を出してはいけない存在なのだ――と。


 目の前で老婦人が死にかけているという事実、唐突に告げられた思いもよらない言葉とに、混乱して声が震える。


「どうして、僕がそうだって分かるのさ」

「あたしには彼らの声が聞こえるからさ。

 あたしも、影と懇意にしたウルドの民だからね。それが分かった」


 するり、と老婦人の手の力が抜け、僕の手を離した。そのまま彼女の手は、無造作に地面に落ちる。

 思わず彼女の手を取り、握りしめた。


「けれども、彼らは。他の精霊とねんごろにする術者には近寄らない。

 だから、普通の精霊遣いには、声が聞けないのさ。

 同じように、他の精霊も夜の精霊に好かれた者には近付かない。だからあなたには、他の精霊が、近寄らないんだ」


「……本当に? 本当に僕が、そんな精霊を?」


「ああ。あたしのことを見つけられたのがその証拠だ。

 今は彼らに頼んで、私の姿を人から隠している。それが見つけられるのは、同じ夜の精霊に好かれた人間だけなのさ」


 老婦人は、再び気力を振り絞って手に力を込めた。祈るような仕草で、彼女は次第に弱々しくなっていく声音で僕に告げる。


「頼む。ヘゼル、あなたの術で、夜の精霊の力で、あの子を隠してやっておくれ。

 そうしてあの子を、あいつに見つからないように、逃してやっておくれ」


 言われてようやく、僕は孫娘の姿が見当たらないことに気が付いた。

 二人は一緒にいたはずだった。知っていれば、この状態の老婦人を放っておくはずがない。

 普通の状態であるならば。


「今は私が、あの子の姿をあいつから隠している。

 けれども私が死ねば、術は解ける。あの子は、あの男に見つけられてしまうだろう。

 どうか、どうか、あの子を助けてやっておくれ」

「あいつって、誰なんだよ。誰が、こんなことをしたんだ!」

「……残酷なことを言っているのは、分かっている」


 ぽつりと言い、老婦人は目を伏せる。


「けれども、どうやら。あなたは、あの男を殺さねばならない運命のようだ。彼らが教えてくれた」


 意を決したように老婦人は顔を上げた。

 僕を覗き込み、じっと強い光をたたえた瞳で僕を見つめる。



「ヘゼル。あたしを殺そうとしたのは、あなたの兄、ヴィンセントだ。

 今は、あの子を探している」



 息が止まった。

 にわかに呼吸の仕方を、忘れてしまったようだった。

 言われたことを理解できないまま、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「……どう、して。兄さんが、そんなこと」

「あたしたちが、まもなく村を去ると聞いて、あたしの存在が邪魔だったんだ。

 あいつは、あの子を、手に入れようとして」


 そこまで言って、老婦人は咳き込んだ。

 彼女の口から吐き出された血だまりが、まもなく彼女の時間が終わろうとしていることを物語る。


「……これ、を、あの子に」


 老婦人は懐から小さなものを取り出し、僕の手にそれを握らせた。それが何か確認することもせず、僕はただ老婦人の顔を見つめることしかできない。


「ようく、耳を澄ませるんだ。そうすれば、彼らの囁きが聞ける。この子たちが、力を貸してくれる。

 お願いだ。あの子を、―――を、守ってやってくれ。そして」


 もはや、老婦人の言葉は囁きに近いものになっていた。

 けれども僕は、一字一句聞き逃さずにそれを覚えている。

 聞き逃がせるはずもなかった。聞き逃すことが、できなかった。


「これが、どんなに酷いことか、分かっているつもりだ。

 けれども、このまま放っておいてはいけない。

 あいつは、滅びと災いを呼ぶ。

 どうか、その夜の精霊たちの力を借りて」


 祈るようにして、老婦人は静かに告げる。



「ヘゼル。あなたは兄を、殺さなければならない」



 彼女の言葉に。

 僕は一体どんな返事をしたのか、覚えていない。

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