7章 炎

『生意気な口を叩くなよ、出来損ない』

 四年前、ウルネス地方に位置するウルズの村。

 すなわち僕の住む村に老婦人と孫娘がやってきてから、既に十日ほどの日数が経過していた。


 昼間は何かと外出していることが多かったが、二人は僕の家で寝泊まりをしていたので、食事の際には毎日、顔を合わせていた。

 とはいえ、僕があの子と話すことは皆無に近かった。

 彼女にはいつも、兄さんがべったりだったからだ。



 休日の昼下がり。剣を抱えつつ、手持ち無沙汰に村をぶらついていた僕は、兄さんとあの子の姿を見つけてふと立ち止まる。

 石段に腰掛けながら、二人は分厚い本を覗き込んでいた。図書館の隣だったので、借りてきた本を読んでいるのだろう。小さな村の図書館に閲覧室はないのだ。もっとも僕は、そもそも滅多にそんな場所へ行かないのだけれども。


 あの子は兄と同様、知識欲が旺盛なようで、村に来てからというものそれを貪欲に吸収し続けていた。村人と話をするばかりでなく、時間が空いた時にはこうして本も読み漁っている。

 最近は見慣れた光景だった。



 家で過ごしているときだけでなく、外に出かける時にも、よほどの事情がない限り兄は彼女に随行した。それはまるで長年連れ添った恋人のようにも見えたし、何かから彼女を守る騎士のようにも見えた。

 村で一番の精霊遣いかつ未来の長である兄が着いていることで、結果としてあの子も単なる客人としてではなく、兄に認められた賓客ひんきゃくとして扱われた。音楽術師という物珍しさや、彼女の能力と物怖じしない気質もあり、若者や子どもを中心に、とりわけ好意的に受け入れられている。


 これが僕だったら、村人の対応も雲泥の差だっただろう。あの子がとやかく言われることはないだろうが、僕と一緒にいることで憐憫の言葉を投げかけられているに違いなかった。

 年が近いからと、最初は僕があの子の面倒を見るように言われていた。僕にとってはとんだ厄介話だったが、僕が拒絶するより先にそれを遮り、彼女の世話役を申し出たのは兄だ。

 だからむしろこの状況は、僕にとってもあの子にとっても願ったり叶ったりなんだろうと言える。おかげさまで、こうして僕も好きなようにのうのうと過ごせているわけだ。



 一つだけ気にかかっていたのは、初めて出会ったあの日のことだった。

 あの子がやって来た日、兄のみせた不思議な反応。


 既知の友人か念願の再会を果たしたような感極まった表情と、あの言葉。

 けれども二人は初対面だった。あの子が来る前の兄もそう話していたし、親たちに確認しても、やはり僕らがあの子と出会ったことはこれまでにない。


 だとすれば、あの兄さんの反応はなんだったのだろうか。


 僕は聞いていなかった。

 聞けなかった。




「おい、ヘゼル」


 考え込みながら兄さんたちをぼんやり眺めていたら、後ろから覚えのある声に話しかけられた。

 それに思い切り顔をしかめて振り返る。僕の表情に、相手もまた顔をしかめた。


「何だその顔は」

「どうせろくでもないことを言うんだろ」

「生意気な口を叩くなよ、出来損ない」


 そこに立っていたのは、僕と同い年の子どもだった。

 僕を小馬鹿にしたような口ぶりで、彼は鼻を鳴らす。


「ちょうどいいところにいたな、暇人め。

 さっき仕事から帰ってきたんだ。沼地だったから、服が汚れちまってよ。お前、洗っとけよ。

 どうせお前は、ろくに村の役に立ちゃしないんだから」


 そう言って、彼は泥だらけのローブを投げてよこす。

 咄嗟にそれを受け取ってしまい、僕は鼻をつく匂いに舌を出した。よどんだ沼だったのだろう、生臭さがひどい。



 ウルズの民は、十五歳で精霊遣いとして独り立ちする。けれども才に秀でたものは、それより早く実践に出る者も少なくない。こいつもその一人だった。

 僕と同じ十三だが、奴は既に大人に混じって仕事の手伝いをしている。その場合には学校の授業すら特別に免除されていた。


 ウルズの民だからといって、村人全員が精霊遣いを生業なりわいとしている訳ではなかった。それでは村の生活が成り立たない。小さいながらも学校はあったし、店だってある。

 だから精霊遣いでないからといって、皆が皆、邪険な扱いを受けている訳ではない。

 僕の扱いがぞんざいだったのは、ひとえに僕の生まれがよりにもよって族長の孫だったことと。

 他ならぬ祖父が僕のことをそう扱っていたからだった。

 それに普段は全く関係のない職種の村人とて、炉に火をくべたり、水を汲む時など、さりげない場面で呼吸をするように精霊術はたしなむものだ。それすら僕にはできない。


 小さい頃なら多少はできたが、今やほとんど一般人と等しいくらいにまで、僕の力は落ちぶれてしまっていた。できるのは、精霊の存在を見たり声を聞いたりする程度だ。本来の精霊遣いは、そこから精霊と対話し彼らの力を借りるが、どうやっても精霊たちは僕の言うことをさっぱり聞いちゃくれなかった。


 それを祖父は、僕の怠惰のせいだと決めつけているらしかった。

 鍛錬を怠っているつもりはないが、趣味半分、ヤケ半分に剣ばかり振り回しているのも事実なので、あながち否定もできない。


 村人全員が精霊遣いとして身を立てているわけではない。

 だが、村で一番尊敬される憧れの職業であることは事実であり、そうでなくとも村人は精霊と共存しているのが普通だった。

 それが出来ない僕は、村の人間からしてみたら、あまりに異質な劣等生であることは、火を見るより明らかだった。


 だから僕は、こうしていきがった奴らから、ていのいい標的にされている。

 無能、出来損ない、役立たず、と。

 とはいえ。素直に応じるほど、僕は気が弱くなかった。




「嫌だね。てめーでやれよ」


 汚れたローブを投げ返し、相手の視界が奪われた隙に身をかがめる。

 すかさず足払いをかけると、間抜けに奴は転び、沼臭いローブに顔から突っ込んだ。いい気味だ。

 ごほっと不快そうに咳をして、彼は怒りに顔を歪めて振り返る。


「ヘゼルてんめぇ!」

「相変わらずどんくせえの」


 舌を出してきびすを返すと、案の定、奴が追いかけてくる。

 わざと追いつかれる速度で走り、すぐ側まで奴が迫ったところで、僕は近くの木の枝に飛びついた。そのままくるりと枝を軸に回転して、逆に僕が背後に回り、後ろから蹴りを入れる。

 軽い一撃だったが、驚きが勝ってか、盛大に彼はつんのめって転がった。


「精霊遣いどうこうの前に、ちょっとは身体を鍛えやがれ、ばーか」


 言い捨てて、今度こそ僕は逃げ出した。彼はまだ地面にうずくまっている。この様子だと、追いかけてくることはないだろう。




 先ほど、いきがった連中が僕を標的にすると言ったが、こうして返り討ちにしているので、最近は滅多に直接は手を出してこない。

 いまだに僕に突っかかってくるのはこいつぐらいだ。


 僕だって、単なる酔狂で剣を握ったわけではない。最初は精霊術のために、身体を鍛えるのが目的だった。全ての資本となる身体を鍛えることが、遠回りでも精霊術を身につける一助になると、僕が悩んでいるところに大伯父のオッドから聞いたからだった。

 いつのまにか、手段と目的が逆転していただけなのだ。

 いくらやっても応えてくれない精霊と違い、剣は応えてくれたから。




 小走りで奴の元から離れ、角を曲がり元いた場所まで戻ると。

 上の方から、鷹揚おうような声がする。


「あらあら、元気だねぇ」


 すっと血の気が引いた。

 にこにこと人のいい笑みを浮かべて、小高い丘の上へ続く石段の上に立っていたのは、あの子と一緒に滞在している老婦人だ。


 高台になっているその場所からは、さっきの僕の立ち回りがよく見渡せたはずだった。今の言葉からして、おそらく目撃している。

 祖父は、僕が精霊術でなく力で相手を負かすことにいい顔をしない。最初に絡まれていたのは僕でも、返り討ちにすると何故かいつも僕がどやされるのだ。

 彼女から祖父にばれたら厄介だった。


「あ、の。……これは、その」

「大丈夫だよ。爺さんに言いつけたりしないから。

 あの子だって、ああも綺麗にやられたんちゃ、みっともなくてばらしたりはしないだろうさ」


 しかし彼女は、僕の予想に反してそう言った。

 意外だった。祖父と仲がいいという老婦人だ、考え方も似ているものだと思っていた。


 あっけに取られながらも安堵した様子の僕から視線をそらし、老婦人は目を細めて反対側の方角を見やった。

 その先にいるのは、兄さんと彼女の孫娘だ。


「意外だねぇ。てっきり、あの子は年の近いあなたと仲良くなると思っていたんだけどねぇ」

「そうかな」


 仮に、兄さんが彼女の世話役を引き受けていなかったとて、僕があの子と仲良くなれたとは思えない。

 あの子は優等生で、僕は劣等生だ。

 ろくに気が合わないだろうし、まともな話が提供できるとも思わない。


「僕じゃ役に立たないよ。聞いてるでしょ、僕は出来損ないだ」

「自分のことを、そういうふうに言うものじゃないよ」


 たしなめるように言って、老婦人は石段を降りた。

 僕の目の前にやってきてから、彼女は内緒話をするようにひそひそ声で語りかける。


「あなたは、決して出来損ないなんかじゃないよ」

「でも、全然僕は術が使えない。むしろどんどん使えなくなっていく」

「そういうものなんだよ。分かるさ。あなたは、あたしと同類だからね」

「同類?」


 老婦人の言っている意味が分からず、僕は目を見開いた。

 過去の実績からしても、老婦人は優秀な精霊遣いだ。食事の時に話される昔話は、精霊遣いの仕事を今やひねくれて見ている僕からしても、華々しく素晴らしいものだった。僕と同類のわけがない。

 けれども僕がそう言い返す前に、彼女は悪戯っ子のような表情を浮かべてみせる。


「あたしたちに、普通の精霊は扱えない。

 代わりに、とある内気な精霊とだけ、交流することが許されているんだ」


 今度こそ驚いて、僕は息をのんで老婦人を見つめる。


「けど。爺様も父さんも、そんなこと言ってなかった」

「精霊遣いでも、普通は分からないものなのさ。あたしたちを好いてくれる精霊の声はとてもとても小さいから、あたしたちのような同類にしか聞こえないんだ。

 あまり人に話すようなものじゃないから隠していたけれど。それであなたが苦しんでいるようじゃ、あいつにも言っておくべきだったねぇ」


 申し訳無さそうな面持ちで、老婦人は後半から独り言のように呟いた。

 勢い込んで僕は老婦人に続きを促したが、しかし間が悪く、村人の一人が彼女を呼ぶ声が聞こえる。

 残念そうに老婦人は顔を上げた。


「続きはまた後でね。他人にあまり聞かれたくはない。

 今夜、こっそりあたしの部屋に来な。あたしたちの精霊について教えてあげよう。爺さんにもとりなしておくさ」


 そう言い残すと、老婦人は年齢の割、颯爽とその場を後にした。

 残された僕は一人、静かに拳を握る。

 隠しきれない笑みが、自然と顔から溢れていた。


 僕にも、できるかもしれない。

 僕にだって、精霊遣いができるかもしれない――!


 諦めて腐っていた筈でも、幼少期から精霊はずっと身近にあった存在だった。彼らから無視され続けるのは、人間から馬鹿にされるより余程もこたえた。

 今の話は、無能な僕の前にようやく現れた希望だった。

 老婦人の示してくれた可能性は、とんでもなく僕を高揚させた。




 けれども。

 その希望が、別の要素を孕んで絶望に変わるまでに、そう間はなかった。

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