◇ノルニルの回顧:2

 地上から、神々の住まう土地・アースガルズを繋ぐ虹の橋、ビフレストのたもと。

 そこが、いつもの居場所だった。


 人間の住む地上を見下ろすその場所で、いつも彼は、じっと来る日も来る日も待ち続けていた。

 定められた運命の日。

 神々の黄昏ラグナレクが来る、その日を。



 いつものように彼が橋の側へ腰掛け、不埒な侵入者がいないか目を配らせていると、不意に背後に誰かの気配を感じた。

 肩のところで切りそろえたはしばみ色の髪をさらりと鳴らし、彼は振り返る。


「また来たのか、ロキ」


 予想違わぬ人物の登場に、顔色一つ変えないまま言葉を投げれば、へらへらと笑いながらその神は彼の隣にやって来る。


「相変わらずつれないねぇ、ヘイムダル。

 せっかく俺様が、お前のしけた面を拝んでやろうと顔を出してやったってぇのに」

「頼んでない」

「頼まれたらやらねぇよ」


 現れるなり軽口を叩いた神、ロキは、ヘイムダルが迷惑そうに眉をひそめるのもお構いなしに、あぐらをかいて彼の隣に座り込んだ。

 頬杖をつき、ロキは早速、退屈そうに地上を見下ろす。


「相変わらず退屈極まりない仕事を、ご苦労なこって」

「退屈ではない。私に課せられた、極めて重要な仕事だ」

「いつまで続くか分からない、終わりのみえない仕事なんざ、拷問以外の何ものでもないじゃないか。

 ひどい仕打ちだ。そして、ここはひどく退屈だよ」

「なら、そのひどく退屈な場所に何故しょっちゅう顔を出す」

「俺様が顔でも出してやらねぇと、あんたは石にでもなっちまうかと思ってねぇ」


 言って、ロキは後ろ手に手をつき、空を見上げた。



 ヘイムダルの仕事は、このビフレストにて敵が来ないか見張りを続けることだった。

 神々の宿敵である巨人族が、この美しき神の国へ侵入しないように。

 そして来るべき滅びの時、神々の黄昏ラグナレクにて巨人族が軍勢を率いて攻めてきた時には、角笛ギャラルホルンを吹き鳴らし、アースガルド中の神々にそれを知らせるために。


 そのために、彼はずっとここで見張りを続けている。

 雨の日も嵐の日も雷の日も、どんな日もひたすらに、ずっと。



「なぁ。お前は、もっと上手く生きろよ、ヘイムダル」


 唐突に言ったロキの言葉に、ヘイムダルは怪訝に眉をひそめる。


「どういう意味だ」

「そのまんまの意味よー」


 けらけらと笑い声を立てたかと思うと、ロキは不意にすっと目を細め。

 ヘイムダルの心中を探るように、彼をじっと見据えた。


「いつまでここでじっとしている気だ。君は世界の終わりまで、ここに縛られている気か」

「考えるべくもない。これが、私の仕事だ」

「お硬いねぇ。

 なあ、見ろよ。どこを見渡したって、不穏さの欠片もないだろうよ」

「片時たりとも油断はできないさ。どこかの変身者が首飾りを盗み出し、それを追いかける羽目になったこともあったように」

「さぁて、いつの話だったかな」


 にやりと笑い混じりにそう言うと、ロキは立ち上がった。

 にわかに吹いた風に、闇を閉じ込めたようなロキの短い黒髪が、ぶわりとなびく。


「もったいないじゃないか。

 だって世界は、こんなにも広く、美しく、むごい」


 両手を虚空に広げ、ロキは朗々と歌うように言った。

 ロキの黒髪を、飛んだ枯れ葉がかすめる。吹き上げられた枯れ葉は、ヘイムダルの住む館を越え、やがて更に遠くへと飛んでいった。

 彼の言葉に、少しだけヘイムダルは表情をほぐす。

 

むごい世界を、楽しめと?」

「美しさだけの美しさなど、まやかしさ。

 美しさの裏に醜さがあり、むごさの裏に救いがある。

 そんな世界だからこそ、謳歌するにゃうってつけなのさ。

 それを見ずして、何が楽しい?」


 ヘイムダルは答えない。

 ただ、じっとロキの横顔を見つめるばかりだった。


 やがて彼は視線をまたビフレストに移し、眼下に広がる地上を眺める。


「それでも私は、ここから動けんよ。仕事を捨ててここを離れて、のうのうと生きていく方法など、到底ありはしないだろう」

「あるさ。なんだって、どうにだって、生きていかれる。

 それをしないのは、あんたが生きていこうとしていないからだろう」


 たやすく言ってのけるロキに、ヘイムダルは僅かな苛立ちの色を込めて吐き捨てる。


「私はお前とは違うんだ」

「そうともさ。俺様はお前とは違う。元をたどれば俺様は、あんたたちの敵で、アースガルドじゃ異質も異質な巨人族なんだからな。

 そして俺様はどこまで行っても、あんたたちの仲間にゃなれやしないのさ」


 ロキは踵を返し、ヘイムダルに背を向けた。


「じきに、それこそこの場所から、あんたが片時も目を離せない時が来る。

 だからそれまでに、ちったぁ世界を楽しんでおけと言うんだ」


 いつもと同じ軽い口調だった。

 しかしロキの台詞に含有された不穏な気配に機敏に反応し。

 ヘイムダルは、静かに尋ねる。


「ロキ。お前は、何をしようとしている?」

「何もしちゃいないさ。まだ、なぁんにもね」


 振り返ると、ロキはまたいつものふざけたようなにやにや笑いを顔に貼り付けていた。

 珍しく焦ったような、ヘイムダルのその反応に満足したのか。

 ロキは、更に続ける。


「俺様は、悩める哀れな若い神の背中を押そうとしているだけだよ、ヘイムダル」


 彼はただ、淡々と事実を述べるように、そう言った。

 ロキの真意は、いかな100マイル先まで見通すことのできるヘイムダルであっても、うかがい知ることは出来なかった。


「忘れるな」


 ロキの立ち去る気配を感じ、ヘイムダルは声を投げる。


「お前がそちら側に回ったら。私はそれを、躊躇しない」

「おうともさ。俺様だって、おんなじだ。ラグナレクが来た、その時には」

「私がお前を」

「俺様があんたを」


 二人は目を反らし、互いに背を向け。

 示し合わせていないにも関わらず、ほとんど同時に、こう告げる。




「殺して屠って解放してやろう」




 ロキとヘイムダル。

 彼らはやがて起こる、神々の黄昏ラグナレクにて――。

 一騎打ちを行い、相討ちとなって死する運命にある。

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