「悪気があったわけじゃ、ないんだ」
「何をしてた」
宿に帰ったヘゼルを待ち受けていたのは、腕組みして部屋の前に立ったティールだった。
何って、とヘゼルは平然と答える。
「散歩」
「んなこた分かってるよ! そういう! ことじゃ! ないんだよ!!」
「どういうことだよ」
「こんな朝早くから! ナシカと二人で! どこで何してたかって聞いてんだよ!!」
「最初からそう言え」
「汲めよ」
「無茶か」
血気盛んなティールの言に、一つため息を吐き出した。ティールの問にヘゼルは少しだけ考えて、また答える。
「散歩」
「最初に戻ったじゃねーか!?」
「それ以外に答えようがないからな」
「そういう! ことじゃ! ないんだよ!!」
「どういうことだよ」
「最初に! 戻ってるだろうが!!」
今度はティールの方がため息をつく番だった。
「まあいい。今日は勘弁してやろう」
「何をどう勘弁されたんだ僕は」
「汲めよ」
「言えよ」
また似たようなやり取りをしてから、ティールは気を取り直すように咳払いすると、親指で肩越しに廊下の先を指し示した。
「朝食、できてるぞ。先に俺は頂いてきた。お前も行ってこいよ」
「分かった。……ゆっくり味わってくるとしよう。最後の食事かもしれないからな」
「あのなぁ」
ティールは顔をしかめて首を横に振る。
「冗談じゃあなく本気なんだろうが。冗談でもそういうの、やめろよ。お前がそんなんじゃ、ナシカがいたたまれないだろう」
「分かっている。責任を感じる立場じゃあないが、いくら言ってもあいつは気にするだろうからな。
どうにか持ちこたえられるよう、祈っておく」
今日の出来事に思いを馳せてか、どこか沈んだ声でそう言うと。ヘゼルは踵を返し、ティールの指した方へ歩いていった。
ヘゼルの姿が廊下の向こうに消えてしまってから、ティールは口を引くつかせる。
「あんの朴念仁が」
舌打ちしてティールは口の中で呟いた。ほとんどくぐもった声だったので、今ヘゼルがいる場所からはおろか、さっきまでの位置にいたとしても、ヘゼルには聞こえなかったに違いない。
既に姿の見えない人物に、じとりとした眼差しを向けていたティールだったが。やがて、彼は諦めたように、がりがりと頭をかいた。
「仕方ねぇか。待ち望んでた救世主なんだ」
彼もまた、出立に向け荷物をまとめるべく、部屋の戸に手をかける。
しかし取っ手を引くより前にもう一度、ヘゼルの消えた方を振り返った。
「無事でいろよ、ヘゼル」
静かに告げたその言葉は、とうに立ち去った本人には、届かない。
+++++
連絡船で対岸へ渡る。
目視ではっきり山影が確認できる対岸へは、しかし住人も旅人も皆、船を利用した。この辺りはフィヨルドで地形が入り組んでおり、陸路では相当な遠回りをしなければ辿り着けない。おまけに山を超えなければならなかったので、そのルートを選択する者はまずいなかった。
船を使えば、対岸へは一時間足らずで到着する。そこからヘゼルに導かれるままに黙々と山道を登ると、やがて開けた丘の上に出た。
彼らの目の前に広がるのは、緑に覆われる山々に囲まれたフィヨルド。
崖の上からは、空と水との透き通るような青と、初夏の気配に活気を増し始めている木々の濃い緑とが織りなす、鮮烈なまでに美しい景色が一望できる。彼らが昨晩泊まった集落も遠くに見渡せた。
丘の上にぽつりと建っていたのは、木造の黒い建物だ。
ウロコ状に組み上げられた三角屋根は、上の屋根が下の屋根を飲み込むようにして三重に重なり、一番上の屋根にそそり立つ尖塔は天を指している。
周りの民家が茶や白の外壁なのに比べて、異質に佇む黒の建造物は、生命力あふれるフィヨルドを背景に一際映えた。
「ここが、目的地か?」
「そうだ」
ヒルドの問いかけに頷き、ヘゼルは建物の前に立つ。
入り口には、蔓のような装飾が施されていた。よくよく目を凝らしてみれば、蔓とみられる装飾の中には、長い首と足をもった細長い動物と蛇が紛れている。それらは互いに互いを噛み、円形状に絡まっていた。
その装飾にそっと触れ、懐かしそうにヘゼルは目を細める。
「ここは、僕の第二の故郷みたいなものなんだ。昔、僕はここに住んでいた。
……いや。住んでいた、というよりは。ちょくちょく逃げ込んでいた、という表現のほうが正しいな」
「ヘゼルは不良だったからな。村よりこちらにいる時の方が長かったやもしれんのう」
突然、聞き慣れぬ声が聞こえて、彼らは振り向いた。
「爺様」
驚いて、ヘゼルはぽかんと口を開いた。
五人の背後に立っていたのは、群青の簡素な衣をまとった一人の老人だった。
からかうような口調で、老人はヘゼルの背負う剣を指し示す。
「何かあればすぐこっちにやって来おって。お前ときたら、それを振り回してばかりだった」
「やめてくれよ、昔の話だろう」
「今もじゃろうが
「息子じゃない」
二人は軽口を叩いていたが、四人の視線に気づき、ヘゼルは皆に老人を紹介する。
「大伯父のオッドだ。ここのほど近くに存在したウルズの村の、前族長だった。僕の祖父にその座を譲ってからは、この場所で隠遁生活を送っていたんだ」
簡単な説明だったが、そこに含まれた情報に彼らは息を呑んだ。
おずおずとティールは尋ねる。
「……じゃあ、やっぱり」
「悪気があったわけじゃ、ないんだ」
最後まで問われるより前に、ヘゼルは珍しく頼りない声音で続ける。
「だけど外の世界だと、それと知れることは厄介なことの方が多いから。それに」
少しだけ、ヘゼルは目を閉じる。
ややあって彼が次に目を開けた、瞬間。
さあっ、と彼の髪が、風もないのに静かになびいた。
それと同時。
新月の夜闇のように黒かったヘゼルの髪が、月明かりの如く
「ウルズの民が、呪いを解く方法を探している、だなんて。どこに行ったって、まともにとりあっちゃくれないだろう」
諦めと自嘲混じりに、ヘゼルは苦笑いを浮かべた。
唖然とする四人をぐるりと見回して。居住まいを正し、ヘゼルは改めて名乗った。
「黙っていて申し訳なかった。
僕の本名は、ヘゼルティ・ウルズ・ディーンソン。
この近隣に存在した、ウルネス地方に住まうウルズの民の
室内に通され、ひと心地ついた後。
彼らと老オッドを見回し、ヘゼルは覚悟したように告げる。
「最初に一つ、結論だけ伝えておこう」
ヘゼルは自分の背負っていた両手剣をテーブルに置いた。
これまでの旅路で、ほとんど使われることのなかった剣だ。鞘から抜かれたことは一度もない。盗賊などを
しかしヘゼルはそれを眠る時以外、決して肌身から離すことはなかった。
「この剣の中には。おそらくラギの言ところの『バルドル』が封印されている」
彼の発言に、誰もが目を見張った。思わずティールは立ち上がる。
だが、ティールも、他の誰かも、その続きをヘゼルに問うことは出来なかった。
ヘゼルの顔が苦悶に歪み、片膝を付く。荒い息を吐き出して、ヘゼルは胸元をぎりりと握り込んだ。
無理矢理に体勢を立て直そうと顔を上げたところで、その異変に気付いて、彼らは遂に言葉を失った。
ヘゼルの右頬へ、蛇が大地を舐めるように、するりと刺青が伸びる。
「……ヘゼル、お前。その顔」
「やはり、話すということは……そういう、ことなんだな」
気遣うようなティールの言葉には答えず、脂汗を拭いながらヘゼルは笑う。
とめどなく襲う激痛に、どうやらティールの言葉も届いてはいないようだった。刺青の侵食に、本人が気付いているのかどうかも分からなかった。
が。
彼を苛む痛みが、ふっと和らいだ。
その後で彼の耳に届いたのは、フィドルの場違いに弾むような音色。
「話して」
いつの間にか、ナシカは立ち上がってフィドルを構えていた。
今にも踊りだしそうな、軽やかなテンポで曲をかき鳴らしながら、ナシカはヘゼルに語りかける。
「ヘゼルが話し続ける間、私は奏で続けるから。
あなたが、あなたの物語りを、全うできるように」
一瞬、彼はナシカの横顔に気を取られる。
そしてヘゼルは黙って頷き、立ち上がった。
「ならば語ろう。
これまでの悪夢の、始まりの物語を。
平和の終わりを物語る、全ての最悪の始まりを」
そう言い置き。
ヘゼルは、語りだした。
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