「その時の、ままなんだ」
アルクレールを経って、翌日の早朝。
ヘゼルはベッドを抜け出し、一人外に出ていた。
空は微かに白んでいたが、まだ人々が眠りから覚めぬ時間。
彼らがこの日に宿を得ていたのは、小さな集落だ。旅人が出歩いていれば否応なしに目立つだろうが、それを目にする村人の姿もまだなかった。
路地には街と違い、案内の類は立っていない。だが彼は迷う素振りを見せず、村の外へ向けて一直線に進む。
フィヨルドが近かった。
ふわりと鼻孔をくすぐるのは、そう遠くない場所にある入江の匂いだ。さあっと涼やかに吹き抜けた風が、それと一緒に咲きそう花々の香りを届ける。
風にそよぐ草木のさざめきと、小気味よく土を踏むヘゼルの足音の他、おとなうものはない。静かな朝だった。
やがて集落の外れまでやってくると、ヘゼルは小高い丘の上で足を止める。
丘の上には一面、スズランの群生が広がっていた。
緑で埋め尽くされた隙間から、ちらちらと覗く白い花。大きな葉に隠れるようにして、指の先ほどの小さな花が並んで控えめに咲いていた。吹き抜ける風に揺れる小振りな花に、鈴の音が鳴らされているような錯覚を覚える。
そんなことを考えていると。
「わあ、綺麗」
背後から、鈴の転がるような声が聞こえて、ヘゼルは驚き振り返った。
「……ナシカ」
いつの間にか、彼の背後にはナシカが立っていた。いつもと同じ白い服で、けれども髪の毛はいつもの三つ編みを結っておらず、そのまま長い髪を風に遊ばせている。
一瞬、彼は見とれて動きを止めた。スズランの群生の中に立って微笑む彼女が、まるで、花畑の中から生まれ出た精霊のように見えたからだった。
ややあってようやく目を反らすと、ヘゼルは強張った表情で息を吐き出す。
「ヒルドかと思った」
「……どうして?」
「物音を聞きつけるのは、彼女の得意分野だろう」
「そうだけど」
しゃがみこんで、ナシカはスズランの花に触れる。そのままそっと顔を近づけて、目を閉じ香をかいだ。
「ヒルドも起きたよ。けど、そのまま部屋に居てもらった。なんだか疲れているみたいだったし」
「だから、代わりにお前が目付役として来たのか」
「目付役?」
「僕が、目前で逃げ出さないように」
違うのか、と尋ねると、ナシカは不満げに口を尖らせる。
「そういう言い方はないでしょう」
「……違うのか?」
「二度も聞かないでよ」
立ち上がると、ナシカはヘゼルの横をすり抜ける。花を踏まぬよう注意しながら、両手を広げてスズランの群生へ分け入った。
慎ましやかな花ながらも壮観なその景色に、彼女は嬉しそうに目を細める。
「私も。目が、覚めちゃったの」
後ろ手に手を組み、ナシカは肩越しに振り返る。
「だから、散歩がてら外に出て、追いかけてきたの。いけない?」
「……いけないとは、言ってない」
回答に
何故か息苦しくなって、ついでにヘゼルはその場にしゃがみ込む。
「花を」
呟きながら、ヘゼルは手近なスズランの茎をつまんだ。
「花を、摘みに来たんだ。この場所はこの時期、毎年スズランが咲く」
彼の言葉に、僅かにナシカは目を伏せる。
が、深く言及することはなく、続きを待った。
ヘゼルしばらく考え込んでから。固い口調で、告げる。
「この先に。花を、届けに行きたいだけだ。皆が起き出す頃までには戻る。
決して勧めはしないが。……ついてくるなら、止めはしない。けど、少し歩くぞ」
「大丈夫だよ」
ナシカもしゃがみ込み、ぷつりとスズランを手折る。
「言ったでしょう。あなたを見失いさせやしない。だから少しくらい遠くても、私はついていくよ」
「……とんだ目付役だな」
「だから、言い方!」
「はいはい。似たようなものだろう」
「違うってば!」
むきになるナシカの言い草に、少し笑い。
ようやくヘゼルは、強張った表情を緩めた。
集落を出て、薄暗い木立の中へ分け入る。
彼らの歩の進みと共に、空は段々と明るさを増していった。けれども入り組んだ森の中は、夜明け前の弱々しい光をあまり通さない。頭上に広がる空の色だけが、彼らに日の出の到来を知らせていた。
「着いたぞ」
やがて鬱蒼とした木々が途切れ、前方が大きく開ける。少しばかり高台になっていた彼らの居場所からは、そこが一望できた。
ちょうど東を向いていたようで、昇った朝日がさあっと差し込み、思わずナシカは目を細める。
「僕の、村だ」
ヘゼルの言葉に、ナシカは目を見開き。
広がっていた光景に、息を呑む。
眩い朝日が照らし出していたのは、黒く崩れ落ちた、かつての村の廃墟だった。
ずらりと建ち並んでいただろう木造の建物は原型を留めておらず、一見するとそれとは分からない。壁が崩れ、屋根は落ち、残った僅かな部分も黒く墨になっている。炎で焼けてしまったのだろう。石造りの壁や水路も、風化してほとんど崩れている。
秩序だって並ぶ建物の基礎、一本だけ倒れずに残っている
しかし建物は全て例外なく崩壊してしまい、動く人の姿は、ない。
「安心しろ。死体はもうない。全部、埋葬してある」
無感情な声音で言いながら、ヘゼルは緩やかな傾斜を下り、村へ踏み入った。ナシカも無言でヘゼルの後に続く。
黒く焦げた木片や変色した鉄くずが転がっていても、その下から現れた歩きやすい石畳が、かつて丁寧に整備されていた道だということを語る。
崩壊しきっている村に、人々が生活していた痕跡はほとんど感じ取れない。それがかつて村に起こった惨状を示しており、悲壮感を助長すると共に、しかし今の彼らにとっては救いでもあった。
やがて、村の中心にあるとりわけ大きな建物の跡地へ辿り着くと、やはり崩れた祭壇の前でヘゼルは座り込んだ。そこへ、先程摘んだスズランの花束をそっと置く。
そして、無言のまま目を閉じ、静かに手を組み合わせた。
隣にナシカも並び、そっと手を組み合わせ、祈る。
どれくらいの時間が経ったのか、二人には分からなかった。
かなり長いことそうしていた気がした。とうに日は高く昇ってしまったのではないかと、ヘゼルは焦り半分に勘ぐる。
けれども横目で窺った太陽は、幸いにして未だに地上ぎりぎりのところにある。まだ、仲間たちは目覚めてはいないだろう。
ようやく顔を上げたヘゼルは、視線は目の前の花束に注いだまま、ぽつりとナシカに尋ねる。
「……聞かないのか」
「話せないんでしょう?」
「そう、だけど」
拍子抜けした様子で、しかし少し安堵して。
ヘゼルは、独り言のように呟く。
「その時の、ままなんだ」
何が、とは聞かない。
前方にも、背後にも、彼らを取り囲むようにして広がる廃墟が、じっと二人を見下ろしている気がした。
風に吹かれて、どこかに落ちていたがらくたが、からりと転がる音がした。
「僕一人では。この広さだ、どうにもできなかった。
皆を弔うのが、精一杯、で」
「充分でしょう」
彼の台詞を遮るように、ナシカは穏やかに、しかしきっぱりと言う。
「きっと。いつか、森が飲み込んでくれる。悲しいことも、辛いことも。
無理に、片を付けようとしなくていいよ」
「……そう、だな」
うわ言のようにそう答え、ヘゼルはのろのろと立ち上がった。足が痺れて、上手く動かない。それでも何とか、彼は祭壇からようやく背を向けた。
ナシカも立ち上がり、改めて静かに辺りを見回す。
「さっきの村の人は、これを? 何も、話に出なかったけれど」
「気付かない。気付いていない。……この村の存在を、知らないから」
そこまで告げると、ヘゼルは続く言葉を飲み込むように黙り込んだ。手の甲まで侵食している刺青を見つめながら、ぎりりと右腕を握りしめる。喉の奥から溢れ出しそうになるものを、無理矢理に押し留めてでもいるかのようだった。
「本当に。大丈夫?」
「ああ。大丈夫、だ」
手を放し、ヘゼルは元来た方角を振り返った。そよぐ風が、朝露に濡れた森の香を運ぶ。
森の中までは、フィヨルドの風が届かない。
彼らが泊まった集落の対岸、フィヨルドを見下ろす断崖の上に、彼の目的地はあるはずだった。
「今日、全てを話せる。そうしたら、きっとナシカたちなら、打開策が見つけられるだろう。……その結果、僕がどうなってしまったとしても」
「大丈夫だよ」
力強くナシカは頷いて、微笑む。
「きっと、ヘゼルのことも合わせて、私がなんとかするから。
呪いを本当に呪いたらしめてしまうのか、祈りに変えることが出来るかは、私次第だもの」
その言葉に。
ヘゼルはにわかに、ふっと破顔した。
「どうしたの? 何か、気になった?」
「いや。そうじゃ、ないんだが」
ふふ、と息を漏らして、ヘゼルは笑みを浮かべる。
「お前の実力からして、もっともではあるんだけどな。そう、ナシカから自信満々に言われると、妙におかしくてな」
「……ふうん」
ナシカは、低い声でそう呟くと。
くるりと背を向けて、すたすたと元来た道を戻り始めた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。早く帰らないと、みんな起きてきちゃうし」
「……どうして怒ってるんだ」
「怒ってませんー」
「いや、怒ってるだろう」
「くどいですー」
訳が分からず、困惑したまま。
しかし何故か清々しい気持ちで、ヘゼルは帰路についた。
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