◇ウルズの追憶:3
兄さんが僕に全てをくれた。
それはなにも、名前や居場所や食べ物や、そういったものだけではない。
兄さんから救い出されたばかりの僕は、外界から遮断され言われたことをこなすだけの、図体ばかりでかい赤子も同然だった。そんな今までの僕に徹底的に欠けていた、世間の常識やあらゆる分野の知識、教養といったものも、全部兄さんが教えてくれた。
とりわけ僕の心を惹いたのは、僕たち兄弟や『彼女』のこと。
僕らの『昔』に関わる話だった。
「――こうして、バルドルは、弟のヘズに殺され死んでしまった」
「なんで! どうして兄さんが死ななきゃいけなかったの!」
「どうして、と問われてもな」
毎度毎度、同じところで同じように噛みつく僕に、同じように兄さんは苦笑する。
何度も聞いたその昔話の結末は、いつも同じ。だから当然、兄さんが話す前から、僕は結末を分かりきっているはずだった。
けれども、まるでそれが運命によって定められ、生まれつき体に組み込まれた反射のように、僕はいつも尋ねずにはいられない。
「どうして兄さんが殺されなきゃならなかったの。兄さんが殺されていいはずがない。兄さんが死んでいいはずがない」
「お前がそう言ってくれるのは嬉しいけどね。だけど、それでも、バルドルは死んだ」
変わらないその返答に、僕は不満を隠しもせずに口を曲げる。
いつもいつも繰り返されるこの問答に、兄さんはさぞかし困っていただろう。だって、誰よりもその理由を聞きたいのは、他ならぬ兄さんの方だったろうから。
だってそうじゃないか。
誰よりも尊く、誰よりも完璧な兄さんが。
誰からも愛され、誰からも崇拝される兄さんが。
兄さんに仇なそうとする奴なんて、存在するはずがない。
兄さんに仇なそうとする奴なんて、存在していいはずがない。
「だけどね、ヴァーリ」
そして毎度毎度。
聞き慣れた声で、聞き飽きない話をし、兄さんは宥めるのだった。
「お前が、仇をとってくれた。バルドルを殺した弟は、バルドルを愛する者によって復讐された」
「そうして生まれたのが、ヴァーリ」
そう。僕だ。
昔の、僕。
だけれども、なによりも僕らしい、僕。
「バルドルに復讐するために、バルドルの父であり万物の神オーディンは、それを成すと予言された子を作った。
それが、ヴァーリ。
一夜にしてヴァーリは成人し、兄のヘズを殺し、復讐した」
「さすがに暗誦したね。飽きないかい?」
「全然」
飽きるはずがない。だって、このくだりがなかったら、兄さんは救われないのだから。
ヴァーリが復讐を成したことが。
僕と同じ名の僕が成したことが。
むしろ、誇らしくすらあった。
「ヴァーリ」
穏やかな声で、兄さんは口を開く。
「もし。この世界でも、私が殺されたら。その時、お前は」
「殺すよ」
最後まで聞かず、遮って。
僕は、真っ直ぐに兄さんを見つめる。
「僕は。どこまでもどこまでも兄さんを殺した奴を追いかけ、追い詰め、復讐する。
だって。僕は、そういうふうに、作られたんだから。
僕は、『復讐者』なのだから。
そうでしょう?」
僕の返答に、そうか、と、兄さんは口元に声を微笑を浮かべた。
震えるほどに美しい、完璧すぎるほどに整った、その美貌で。
兄さんが僕に全てをくれた。
僕の、生きるすべも。
僕の、生きる理由も。
僕の、存在理由さえも。
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