「……仕方ないな」

 日が沈み、静かに闇が降りた広場。

 にわかに舞台に灯る火が落ちた。

 それを合図に、綱にかけられた明かりは次々と消されていく。屋台ですらも周りに合わせ、店主は客寄せの火を消していった。楽劇の間だけは一時休業するようだった。


「間もなく、始まりますよ」


 暗がりの中から、聞き覚えのある声がする。いつの間にか傍らに佇んでいたのは、ナシカを楽劇へ誘った張本人のラギである。

 彼はロタの横に立ったまま、じっと舞台を見つめた。ヘゼル達の座る席は最前列でも一番端であったため、立ち見でも後ろの客への支障はなさそうだった。


「お前、こっちにいていいのか?」

「僕は楽劇とは無関係なので」


 彼は舞台から目を離すことなく、ティールの問いへ淀みなく答える。


「最初に舞台に立つ筈だったのが僕の知人でしてね。それで代役探しを頼まれていたんです。僕の本来の役目は舞台の設営。楽劇自体はただの観客です」


 そこまで言って、ラギは口を閉ざした。まだ暗いままの舞台の上へ、密かに人影が移動したのが分かったからだった。

 やがて、舞台の上手側へぼうっと火が灯される。

 炎に照らされ舞台に浮かび上がったのは、白一色の衣に袖を通したナシカであった。

 白を基調としている分には普段の服装と変わりなかったが、それより幾分簡素で、ひだのある布地は彼女の爪先までをすっかり覆っていた。巫女の装束である。どこか神がかったようにうつろな瞳の彼女は、確かに普段と似ても似つかない姿だった。


『すべての尊い氏族、ヘイムダルの子供たちよ。

 あなたたちによく聴いてもらいたい』


 朗々とナシカが台詞を読み上げると、聴衆は静まりかえった。役者の登場だけでは止んでいなかったざわめきも、今や完全に消え去っている。

 この広い劇場の人々の喧噪の中で、それでも空間を切り裂くように力強く響き渡った彼女の声には、聴く者をせいする力があるようだった。まだ楽劇が始まったばかりの一言目だというのに、皆が舞台をくいいるように見つめている。幕内にいる全ての人間の視線がナシカに注がれているようだった。

 ヘゼルもまた舞台上の彼女に圧倒されて、ナシカを見つめた。


『大いなる戦士の父は、物語を望んでおられる。廃れゆく古の物語を。没落した神々の物語を。思い出せる限りにそれを語ってみせよと。

 さすれば語ろう。

 全ての滅びの、始まりの物語を。

 神々の黄昏ラグナレクを予兆する、全ての不幸の始まりを』


 口上を延べ終えると、瞬間、待ちかまえていた楽団が曲を奏で始める。舞台に立ったままで演奏を始めたナシカの笛を主旋律に、壮麗でいてどこか悲壮な響きをもつ音色が響き渡った。

 その曲は楽劇の最初を飾る重要なテーマであると同時に、幕開けの準備が整うまでの時間を繋ぐ役割を持つようだった。黒子によって舞台上には次々と火が灯されていき、全体が明るくなる。

 舞台が、始まろうとしていた。


「……悪趣味だぁな」


 整えられていく舞台を見つめながら、ぼそりとロタが漏らした。

 きょとんとしてティールは聞き返す。


「どういうことだよ?」

「演目が、だよ。あの口上で気付かねぇかティールくん」

「神話が題材だろ。授業でさわりを習ったくらいだから詳しくは知らないけど、それのどこが悪趣味なんだ」


 足を組み直し、後ろ手に体重をかけながらロタは投げやりに答える。


「前口上からして、これから語られる話は『バルドルの死』だ」


 死、という穏やかでない単語に、ティールは怪訝な表情を浮かべる。しかし具体的な内容まではぴんと来ていないようだ。ロタは「見てりゃ分かるさ、一度や二度聞いたことはあるだろうよ」とだけ告げてから、ちらりと横目でラギを見遣る。


「もっと明るくて楽しい、いかにも祭り向きの話はいくらでもあるんじゃねーのか」

「毎年、演目は異なるのです」


 ラギは何食わぬ口調で答えた。


「神への楽劇ですから、題材が神話からとられること、そして巫女の口上から物語が始まるという点はいつも変わりません。

 ですが内容はその年によって異なる。今年の演目がこれだった、というだけのことですよ。

 酒の宴で語られるような話だけが神々の物語じゃない」


 静かに言ったラギの言葉に、納得したのかしないのか、ロタはそれ以上何も言わない。

 間もなく音楽が止み、舞台上に役者が現れる。全員が再び舞台に注目した。


 果たして、ロタの推測は当たっていた。舞台で繰り広げられる物語は紛うことなく『バルドルの死』。巫女役であるナシカの語りにより、物語は暗い方向へと突き進んでいく。




 舞台の筋書きはこうだ。


 皆から愛された神、バルドルは、ある日不吉な夢を見る。彼の命に関わる悪夢を心配した神々は、生き物から無機物に至るまで、この世のあらゆるものから『バルドルに指一本触れない』ことを約束させた。

 しかし、唯一その誓いをたてなかったものがいる。まだ若いから、という理由で宿り木だけは誓いを免れていたのだ。


 誓いを立てさせ安堵した神々は、こぞってバルドルへ石や矢を投げつけた。しかし誓いがある為、バルドルの身には傷一つ付くことはない。

 その光景を面白くないと感じた神、ロキは、誓いを立てていない宿り木で矢を作り、バルドルの弟である盲目の神ヘズにバルドルを射るよう唆す。


 ロキの言う方角へ向けヘズが放った矢は、バルドルを射抜き。

 バルドルは、あっさりと死んだ。




「…………」


 ヘゼルは顔をしかめながら、それでも目を逸らせずにいた。

 気持ちの良い話ではなかった。胸元からこみ上げる不快感を抑えるように、彼は刺青の刻まれた腕へ爪を立てる。


 隣に座るティールも、鬼気迫る舞台に鳥肌を立てているようだった。なまじ、ナシカを除いても役者の演技が殊の外に上手いので、余計なのだろう。加えて要の部分で奏でられる音楽が不安感を煽り、より一層舞台の絶望をいや増しているようであった。




 舞台の上で、バルドルの妻ナンナが悲しみのあまり死ぬ。

 冥界にまで赴き神々はバルドルの再生を嘆願するが、結局それは叶わない。


 バルドルを殺したヘズとロキには、神々から報復が行われた。

 ヘズは、自分の弟――ヘズを殺すために生み出された弟、ヴァーリにより殺され。

 ロキは、自分の息子の腸で岩へ縛り付けられ、蛇の毒を受け続ける。




 バルドルが殺された後のこれらの話は足早に展開され、長く語られることはなかった。どちらにとっても救いのなさが際だつからだろうか。

 事実、完成度の高い舞台に観客の心は逃さず捉えているものの、ちらと辺りに目を配れば、いたたまれない筋書きに観客が悲壮な面持ちでいるのが分かる。




 やがて。一連の世界は神々の黄昏と呼ばれる戦の時代に突入し、世界が滅ぶことになる、と巫女の口から顛末が淡々と語られていく。

 他の役者ははけてしまい、舞台にはナシカしかいない。




 幕切れの気配に、やっと終わるのか、とヘゼルはそっと息を吐き出した。重苦しい舞台に潰され、上手く呼吸すら出来ずにいたようだった。

 楽劇に不満があった訳ではない。だが、彼にとってこの舞台は、あまりに苦しかった。

 解放されるという安心感から、ようやくヘゼルは肩の力を抜いて、舞台のナシカをまっすぐに見つめた。


 彼女はまだ、巫女の役割を纏ったままそこにいる。だが終末を語り終え、最後に残された彼女の役割もまた、まもなく終わろうとしているように見えた。

 けれども。彼女が次に告げたのは、終焉の言葉ではなかった。


しかし』


 またしても広場に響いたのは。

 目を覚ますような、凛としたナシカの台詞だった。


『神々が滅び、世界が滅んだ然る後。

 悲劇に倒れた若き神々は蘇り、世界は再生した』


 途端、神々の退場とともに沈黙を保っていた楽団が、一斉に楽器を奏で始める。

 これまでに幾度となく流れた、悲壮と絶望を伴う曲ではない。

 その主旋律は生かしながらも、雰囲気は一転して変わった、明るく陽気な舞曲であった。


「この、筋書きは……!?」


 立ち見のままラギが驚いたように声をあげた。


「そういえば」


 舞台が始まってからは一言も口を開かなかったヒルドが、独り言のように呟く。


「ナシカの意見で一つ、昨日まではなかった演出が加えられてな」


 広場へ、一斉に火が灯る。暗闇に沈んでいた広場は、楽劇が始まる前の明るさを取り戻した。

 それと同時、客席の通路に立った者の姿が複数、浮かび上がった。彼らは、さっきまで舞台に立っていた役者たちだ。早々に退場したバルドル役を始め、彼を殺したヘズ役もロキ役も、全ての役者が今度は客席側で揃い踏みして、ナシカの最後の口上を待っている。


『蘇った若き神々は互いを許し合い、再び手を取り合った。

 その後の世界については、おまえたちもよくよく知るとおり。

 私に語れることは、ここまでだ。

 後は踊ろう、ヘイムダルの子供らよ。

 新しき神々と、我らの世界に、祝福あらんことを!』


 ナシカが幕切れの台詞を言い終えたのを合図に、一層音楽が勢い良く走り出す。

 舞台の灯りは消えたが、代わりに明るくなった客席の灯りが広場全体を照らし出していた。客席に紛れ込んだ役者たちは、側にいた観客を巻き込んで手を取り、音楽に合わせて踊り始める。それを見た他の客たちも次々に立ち上がり、役者と観客、露店の店主もないまぜになって、広場中で人々が踊り出した。


「らしい、な」

「ああ。非常に、らしい」


 ティールとヒルドは、にっと笑みを浮かべて互いに顔を見合わせた。

 ロタに至っては、堪えきれないといった様子でけたけたと笑い声を立てている。


「いいねぇ。面白い。面白いよ、ナシカちゃん」


 目尻の涙を拭い、ロタは満足げに手を叩いた。

 ヘゼルは一人呆然として辺りを見回しながら、急変した場の空気に気圧されるばかりだったが、目の前にふっと影が差したのに気付いて前へ向き直る。

 そこには、舞台から駆け下りてきたナシカが立っていた。

 衣装は舞台に立っていた時のままだ。けれども目の前にいるのは巫女ではない。ヘゼルの知っているナシカその人だ。

 思わず瞬きして、ヘゼルはまじまじと彼女を見つめた。


「踊ろう?」


 手を差し伸べて、ナシカは唐突に言う。面食らったヘゼルは、どうすればいいか分からず咄嗟に目を逸らした。


「そう、言われても。踊り方が、分からない」

「分からなくてもいいんだよ」


 彼女は強引にヘゼルの手を取った。そのまま彼を立ち上がらせると、ナシカは踊る人々の輪の中へ飛び込む。


「旋律を聞いて、律動を感じて、呼応した体が勝手に動き出す。それが、その人にとっての踊りになるの。絶対の正解なんかない」


 振り回されるようにして旋回したヘゼルは、バランスを崩してよろける。慌ててナシカはもう片方の彼の手を掴んで助けると、珍しくおずおずといった口調でヘゼルに微笑んだ。


「だから。今を、楽しんで。

 過去は変わらない。でも、今を見失いさえしなければ、未来にきっと希望はあるはずだから」


 息を飲んで、ヘゼルは立ち止まる。

 今の言葉は巫女の言葉ではない。ナシカの言葉だ。けれどもやはり彼女の言葉には、人を惹き付ける不思議な力があるのかもしれなかった。


「……仕方ないな」


 ヘゼルはナシカに支えてもらったその手を離し、代わりに握ったもう片方の手を、強く握り直した。


「どうせ僕は、帰るところもない根無し草だからな。気の済むまで、お前の筋書く行き先に付き合ってやるよ」

「ありがとう。きっと、きっと大丈夫だから!」


 心底ほっとした様子で、ナシカは屈託のない笑みを浮かべる。途端、急にヘゼルは言葉に詰まり。彼はナシカからふっと目を逸らすと、小声でぼそりと付け加える。


「お前の大丈夫は、今一つ信憑性がないんだ」

「ひどい! でも、今までだって大丈夫だったでしょう?」

「大丈夫に至る過程が、いい加減心臓に悪いんだよ」


 軽口を叩きながら、ぎこちなくヘゼルは踊る。足がもつれてしまいそうだったが、ナシカの先導でどうにか転ばずにそれらしく出来ている。

 見れば、席に座っていた他の三人の姿もない。きっと彼らもどこかで踊っているのだろう。

 沈み込んでいた空気が、熱に浮かされたような人々の活気で膨れ上がる。思わず彼も頬を緩め、音楽に身を任せた。

 その時である。


「……できるわけがない」


 不意に背後から、誰かの声が聞こえた。

 聞き覚えがあるような気がしたが、低くくぐもった声は誰のものか判別できない。

 後ろを振り向いても、人が入り乱れて踊るこの状況では到底特定できず、声の持ち主はついぞ分からなかった。




 音楽が止み。少し収まった熱気の後で、遅れてやってきた拍手が広場中を包み込んだ。

 客席に紛れ込んでいた役者たちは、誰にともなく一礼する。

 役者の一人としてナシカもまた、ヘゼルを巻き込みながら観客へ礼をした。

 一緒に頭を下げてしまってから彼は事態に気付くが、途中で離れては余計に目立つので、顔を上げるに上げられない。

 戸惑うヘゼルの横顔を眺め、ナシカは悪戯っぽく笑った。

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