「理解不能だから……嬉しいんだ」

「よくもまあ、こんな所で熟睡出来るな……」


 ヘゼルは夕食の後、完全に眠りこけているナシカとティールを見て、半ば感心したように、半ば呆れたように言った。


「音楽術は、多少なりとも体力を消耗する。ゆっくり寝かせてやれ。見た目より二人は疲弊しているよ。ただでさえ二人は、お前程は体力がないんだから。お前は一日歩き詰めでも全く疲れてはいないだろう」


 ヘゼルは彼女の言葉に顔を上げた。もの言いたげな表情を浮かべるヘゼルと目を合わせると、彼女はふっと微笑む。


「ティールはああ控えめに言ってくれていたが。私は所謂、『超感覚ちょうかんかく』とやらの持ち主だよ。何故かは知らんが、生まれたときからこの異常な感覚と一緒に生きている。

 よく見えるよく聞こえるどころの話じゃない。肉眼で山の上の木も見分けられれば、隣の家の会話も聞こえる。

 嗅覚も尋常じゃない。息切れの差だって分かるし、筋肉量や心拍数でも体力の差異はだいたい当たりは着くさ」


 たき火からは、ぱちぱちと火のはぜる音がする。どこか遠くから、低くフクロウの鳴く声が聞こえた。後は、何も音なうものはない。静かな森だった。


「あんたは、何者だ?」


 ヘゼルはぼそりと尋ねた。ヒルドは真顔でヘゼルをのぞき込む。


「それは私に言っているのか。それとも自分に言っているのか?」


 不意な問いかけに彼は言葉を失った。彼の動揺を見て取ると、ヒルドは緊張を解いてにやりと笑う。


「お前は同じ疑問を自分自身にも抱いているだろう。分かる。何となく。

 私達は、自分の存在を自分で許していないんだ。そういう点で、同じ。

 呪いの事以上に、ヘゼルは何か事情ありげだからな。

 気にするな、詮索はしないし二人には言わない。後ろめたいのはお互い様だ」


 夜の闇に、たき火の火で憂いをたたえたヒルドの顔が照らされる。おそらく彼女から見たヘゼルも似たような表情を浮かべているに相違ない。


「人は成長すれば、誰しも自分の存在について問いかける。しかし私達が感じているのは、そういう事とはまた違う。

 自分ははっきりと、他と、普通と異なっている。自分の存在価値に悩んでいるのではない。根本的に自分の存在そのものが……分からないんだ」


 ヘゼルの沈黙は、容認だった。

 薪をいくつか追加すると、唐突にヒルドは身の上話を始める。


「私は捨て子だった。今でもそうだが、ウィエルにはよく子供が捨てられている。ああいう村だから何とかしてくれるとでも思うんだろう。ナシカたち二人にはちゃんと親がいるが、とにかく私は赤ん坊の頃拾われた」


 ヘゼルは少し戸惑いながらも、黙って話を聞いた。


「それから私は孤児院で育った。ウィエルの村で他の子供達と一緒に。ナシカやティールとも友達として遊び、親がいなくとも毎日がそれなりに幸せで平和だった。

 が、……十歳の時、私は家出して村を出た」

「十歳?」

「そうだ」


 ヒルドは火にかけていたミルクをカップに注ぎ、ヘゼルに手渡した。


「何故、家出したと思う?」

「僕に問うのは愚問じゃないか?」


 一口飲み物をすすってから、ヘゼルは淡々と告げる。


「自分が異質だと分かったから」

「正解、だ」


 ヒルドは自分も飲み物を口にしてから、なお続けた。


「しかし一年後、いなくなった孤児はぼろぼろになってまた逃げ帰ってきた」

「結局分からなかったんだな」

「その通りだ」


 ヒルドは自嘲の笑みを浮かべる。炎に照らされたその表情は、どこか妖艶に揺らいだ。


「分からないから逃げた。だけど結局分からなかったから逃げて、また逃げた。逃げ続けたあげく、疲れて逃げ帰る。自分でも馬鹿だと思う」

「一年間考えただけ、良いじゃないか。僕なんか、一週間と保たなかった」

「長さが全てじゃない」


 ヒルドはふっと口元を緩める。


「私だって小さい頃からこんなにひねくれていた訳ではない。あの一年があったからこそ、今のような私がいるんだ。酸いも甘いも知って、一番心地よい場所に逃げ帰ってきたんだ。

 それでもこの私を、村の人はまた受け入れてくれた」

「痛い、な」


 かたりと石の上にカップを置くと、ヒルドはほとんど中身の入っていない鍋をかき回す。なめらかな白い波の隙間からは、黒く焦げた鍋の底が見えた。


「その後すぐ、懲りずにまた村を出ようとした。その時は私が帰ってきて単純に喜んでいたナシカに、頑固につっぱねた記憶がある。そしたら次の日、当時八歳のナシカが家出した」

「……何でだ」


 ヘゼルは怪訝に眉を寄せた。


「探しに行ったら、森で木のうろに入ってふてくされていたよ。ティールと私が幾ら説得しても戻ろうとしなかった。私が金輪際、勝手にどこかに行かないと約束するまではね」

「……何でだ」

「分からない。ナシカの行動、ティールの単純さは私達には理解不能なんだよ。理解不能だから……嬉しいんだ」


 ヒルドは眠っている二人の方を見て、笑みを浮かべた。


「それから八年が経った。今でも二人には助けられてばかりだ。特に、ナシカには。二人は全然気付いていないけど、な」


 ヘゼルもつられて二人を振り返った。相変わらず緊張感のない彼女の寝顔には、村の存続がかかった重要な人物たる雰囲気は微塵も感じられない。先ほどの荘厳な音楽の奏者であったとも、にわかには信じ難かった。


「あちこち放浪した先で、私のこの力は疎まれた。村にいた頃はあまり意識はしなかったが、何度こんなものなければと思ったかしれない。けど、それがナシカの役に、村の人たちの役に立つのなら、私はこの力を持てて嬉しいと思う。

 ……昨日の言葉を覚えているか?」


 ヘゼルが頷くと、ヒルドは満足そうに微笑んだ。


「私が自分で自分を認められない代わりに、ナシカ達が私に私の存在を与えてくれた。だから、何があろうと二人だけは不幸にしたくないんだ。

 だが、……村を出た時点で、胸騒ぎがしてしょうがないんだ。何かある、そんな気がして」

「僕の存在もその一つ、か」

「ああ。……だが、あのカラスが喋っていたように、もう始まってしまったんだ。どこかで、何かが」


 ヘゼルは黙って二杯目の飲み物を口にすると、眉を寄せる。


「……甘いな、これ」

「蜂蜜が入っているからな。糖分は力になる。旅には必要だ」


 遠くではまたフクロウの鳴き声が聞こえてくる。側では、何も知らない二人が静かに眠り続けていた。

 静かな森の空気にさらされながら、目の前で薪がかたりと音を立てて折れた。

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