「呪いが解けるその日まで」

 空が暗い。


 否。

 その空は、闇そのものだった。


 輝く星も辺りを照らす月もなく、ただただぽっかりと開けた虚無きょむのような闇。

 それが、まるで地上を飲み込もうとしているかのように広がっている。


 辺りには嵐が吹き荒れ、次々と降り注ぐ雪はつぶてのようだった。空の黒さと比べ、地面はどこまでも目が覚めるような純白である。

 ともすれば幻想的な光景だが、そこから立ち上る気配は絶望以外のなにものでもない。


 更にそれを増幅しているのが、白い雪の至る所に累々るいるいと垂れる、紅。

 毒々しいまでに鮮やかな、血の跡だった。


 遠くに見える山は崩れ、足元に入った亀裂は大地を分かち、音のない空間で静かに世界が崩壊していく。


 と。

 不意に風も吹雪も止み。


 彼の目の前には、一人の人間が立っていた。


 厚いマントにフードを被っており、顔は見えない。手には剣を携え、切っ先からは血が滴り落ちている。

 その人物はこちらに顔を向け、口を開いた。


『ねえ』


 フードの人物は彼に向かって手を伸ばし。

 そっと、頬に触れる。




『呪わしい運命を抱いて生きるのと、

 呪いを消すため自分ごと死ぬの。

 どっちがいい?』




+++++




 ヘゼルははっと目を見開き、覚醒した。

 息が荒い。全速力で走り続けた後のような呼吸をしながら、彼は呆然と天井を見つめる。体中にはびっしょりと寝汗をかいていた。

 現実に戻ったことに安堵して彼は深く息をつく。少し痛む頭に手をやりながら、横に寝返りをうった。


 窓からは朝日が微かに差し込んでいる。まだ日が昇って間もないようだった。

 呪いを受けて以来、この手の悪夢に苛まれるのは珍しいことではない。だがここ数日は、夢すらあまり見ることはなかった。ナシカの音楽術のお陰であろう。

 悪夢を見たのは久々だったが、それにしてもさっきの夢は、今までより遥かに鮮明だった。普段であれば、絶望的な光景への恐怖を記憶しているのみで、目覚めて後にどんな内容だったか詳細ははっきりと思い出せない。


 夢の所為だろうか。どことなく全身の鈍痛と寒気を覚え、ヘゼルはひたひたと自分の体を触る。そして何気なく自分の掌を眺めたヘゼルは、瞠目してがばりと身を起こした。

 毛布をはねのけ、自分の全身を確かめる。今も悪夢の続きなのではと腕に爪を立ててみるが、その感触は紛れもなく現実のものだった。変わり果てた自分の身体に戦慄し、今度は確かに鳥肌を立てた。


 刺青が、濃くなっている。

 それだけではない。

 腕だけだった筈の刺青が、胴体を通り抜け爪先に至るまで、ヘゼルの全身に広がっていた。






 ナシカの部屋の前に立ったヘゼルは、遠慮がちに扉を叩いた。

 小さい帆船ながら意外に広い船内は、物置となっていた場所を含めれば、狭いとはいえ一人一部屋が確保できた。

 豪華とはいかないまでも十分上等な船である。あの娘も、よくもまあ見ず知らずのロタに帆船を与えたものだ、とヘゼルは呆れを通り越し感心する。


 先ほどのノックに返事はない。一瞬、躊躇した後で、ヘゼルは静かに部屋の扉を開けた。寝ている少女の部屋に無断で入るのは気が引けたが、彼にとっては今の状況を報告する方が何より火急だったのだ。

 ナシカはぐっすりと眠りこけている。いつもの三つ編みは解いており、柔らかい栗毛の髪がふんわりと枕の上に広がっていた。眠る表情はいかにも幸せそうだ。

 起こすのは少し可哀相な気もしたが、ヘゼルは静かにナシカを揺さぶる。何度か繰り返した後で、ようやくナシカは微かに目を開けた。


「起きたか?」


 ヘゼルの問いにナシカは寝ぼけたままで呻き声を上げると、再び目を閉じる。


「…………」


 ヘゼルはナシカの枕を引きはがす。


「あうっ」


 小さい叫びを上げ、ナシカは驚いたようにきょろきょろと辺りを見回した。やがて横にいるヘゼルに気付き、ようやく彼と目が合う。


「あ、ヘゼル」

「今気付いたのか」


 少し疲れた表情でヘゼルは肩をすくめる。


「どうしたの、こんな朝早くから?」


 目をこすりながらナシカは上半身を起こした。


「悪かった。ただ、どうしても言っておかなければと思って」


 また真顔に戻ったヘゼルは、上着を脱いで件の呪いの痕を示した。腕は勿論、背中から足まで刻み込まれた刺青を。

 彼女は何も言わない。黙ったまま枕元の笛に手を伸ばす。


 ナシカが口を付けた笛から流れ出る音色は、驚くぐらい穏やかだった。今までに聞いたことのない、儚くて、それでいて一本芯の通った強さの残る調べがヘゼルの全身に染みこむ。

 曲が終わり、笛から口を離すと、ナシカは少し気落ちした様子で言った。


「ごめんね、こんな事しか出来なくて」

「何故謝るんだ」


 困惑してヘゼルは眉を寄せる。早朝に起こされたことを怒ってもいいぐらいで、彼女が謝る理由はどこにもない。


「私のは、かりそめのものだから。ただの気休めにしかならない」

「気休めなものか。ナシカは僕の痛みと心労を軽減してくれる。それだけで、ありがたい」


 ヘゼルはナシカの言葉を否定した。現に彼の全身を襲っていた寒気と鈍痛は、もうない。

 しかしナシカはゆるゆると首を振った。


「でも、ヘゼルの呪いを解くことは出来ないもの」


 彼女は胸元で笛を握りしめる。


 呪いは本来、音楽術の専門外だ。あくまで音楽術は、自然界との関わりで生れた心体の負担を取り除く術である。

 通常であれば『自然界』に人の感情や関係性というものも含まれるのだが、人に害を与えるほどあまりに強い感情は、その時点で別の存在へと変貌を遂げてしまっている。その為、情念や怨念から端を発する呪術が相手では、それこそ気休め程度にしか効果がない。

 だからいくら優秀な音楽術師といっても、呪術に歯が立たないのは普通の事なのである。


 けれど目の前に患者がいるのに、自分の力で相手を救えないのは、彼女からしてみれば歯痒くて仕方がないのだろう。


「呪いは畑違いなんだから仕方がないだろう。そもそも無理難題を承知でナシカのところに持って来たのは僕の方なんだ。ウィエルに来た時点で門前払いを食らっても文句を言える立場じゃなかった。ナシカが気に病むことはない。むしろ感謝される側じゃないか」


 しばらくナシカは黙っていたが、ふと思い出したように彼女は再び枕元を探り始めた。目的のものを探し当てると、ナシカはそれをヘゼルに手渡す。


「はい、これ。ヘゼルにあげる」


 掌に置かれたものを見れば、それは普段ナシカが身に着けているネックレスだった。ネックレスとはいってもただの装飾品ではなく、先端にさがるのは木製の小笛である。だがへゼルは、その笛でナシカが演奏しているところは見たことがなかった。


「ナシカの笛じゃないか。何で、これを」

「お守り! お祖母ちゃんのね、形見なんだ」


 事もなげに言うのを聞いて、慌ててヘゼルはネックレスを押し返す。


「そんな大切なものを貰う訳にはいかない!」

「いいの。ヘゼルが持ってて。お守りの加護が必要なのは、私よりヘゼルの方だと思うから」


 ナシカも譲らない。しばらく二人は押し問答を続けるが、やがてナシカは提案する。


「じゃあ、こうしよう。あげるんじゃなく、預かってて。しばらくの間、ってことで」

「それだって、僕なんかが持ってていい品じゃないだろう!」

「いいの。ヘゼルが持ってるべきなの!」


 やはり引き下がる気配のないナシカに、とうとうヘゼルが折れた。預かるだけだからな、と念を押し、仕方なくヘゼルは了承する。彼女はぱっと顔を輝かせ、そっとヘゼルの手にそれを握らせた。


「呪いが解けるその日まで、ヘゼルに預けるね」


 まるで真夏に咲き誇るひまわりのように、ナシカは眩しく微笑んだ。何故か直視するのが憚られて、ヘゼルはそっと目を逸らす。

 代わりにヘゼルはじっと笛を見つめた。彼の手のひらにすっぽりと収まる白塗りの小笛は、だいぶ年季が入っており、何故か既視感を覚える。礼を言うと、ヘゼルは自分のポケットにそれを仕舞い込んだ。


 と、部屋の外で物音がして、ヘゼルとナシカは振り返る。見れば、部屋の扉が開き、ティールが覗き込んでいた。ナシカは朗らかに挨拶をし、ヘゼルも声をかけるが、彼は返事をしない。

 ティールは一瞬硬直した後で、口を引くつかせると、ずかずかと部屋に入り思いっきり拳でヘゼルを殴りつける。


「くたばれ変態!」

「……っ! 何をするんだ!」


 ヘゼルは頭を押さえて抗議した。結構、今の一撃は効いたらしい。


「何してんだはこっちの台詞だこの変態! 朝っぱらからナシカの部屋で何やってんだお前!」

「仕方ないだろう、緊急事態だったんだ!」

「何がどう緊急事態だってんだよ変態!」

「変態変態言うな!」

「その格好のどこが変態じゃないんだ弁明しろ変態!」

「そこに気付いてるならもっとよく見てみろ! 話はひとまずそこからだ!」


 勢い込んでまくし立てていたティールだが、言われてはたと状況に気付いたようだった。彼は息を呑んで、ヘゼルの全身に刻まれた毒々しい刺青を見つめる。


「どうやら、呪いの度合いが進んだらしい」


 改めて、ヘゼルは自分の掌を眺める。

 これまで服の下に隠れていたヘゼルの呪いは、常に彼の目につくところまで浸食してきてしまっていた。

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