「本当に、ふざけてらぁ」

「見られちまった、な」


 ロタはヒルドの姿を見つけ、上半身だけ振り返って口元へ笑みを浮かべた。


 ロタの体には、至る所に無惨な傷が刻み込まれていた。

 一種類や二種類ではない。

 裂傷や火傷、鞭の痕に打撲痕。あらゆる者からあらゆる手段で、容赦なく傷付けられたのだということが見て取れた。

 それも、幼少期からつい最近に至るまで、長年に渡って付けられたものだった。随分昔のものと思われる伸び切った白い古傷は、しかし現在でも消えていない。


「悪いな。無様で気持ち悪ィだろ」


 軽い口調で言ったロタの言葉に我に返り、ヒルドは慌てて首を振る。

 しかしやはり傷から目が離せずに、数秒の後に、ようやく彼女は掠れた声を絞り出した。


「どうして。今まで、こんな、傷は」


 ロタが肌を晒したのは、今回が初めてではない。彼が変身した際、それから船旅の途中で作業をする際、何度か上半身を露わにすることはあった。

 けれどもその時に、彼の傷を目にした記憶はない。目にしていたら、決して忘れることはなかった筈だ。

 同性のヘゼルやティールからも、話を聞いたことはなかった。


「隠してたんだよ」


 そう答えると、ロタはおもむろに目を閉じる。

 すると。

 彼の肌から、すっと傷が消えた。


 彼の背中は滑らかで、さっきの深い傷跡はおろか、日常生活でできるだろう些細なかき傷などさえ見当たらない。思わずヒルドは、あの傷は月の光が見せた幻だったのかと勘ぐった。


 しかし次の瞬間。

 ロタが目を開くと、じわり、と、再び皮膚には無残な傷が次々に浮かび上がってきた。

 まるで、劣化した壁に塗り込めたペンキを、無理矢理に剥いででもいるようだった。


「普段、気を張っていれば傷は隠すことができる。お得意の『変身』の応用だ。

 けど気を抜いてる時は、どうしても傷が見えちまうからな」

「……お前は。今まで、ずっと、こんな扱いを」

「言っただろ。今まで、ずっと、最低で底辺な居所に落ちてたんだ、俺ァな」


 半ば彼女の台詞を遮るように言い、ロタは両腕を広げ、芝居がかった口調で続ける。


「俺は見せ物だ。化け物だ。異形だ。

 人間なんかじゃ、ないんだよ。人間らしい扱いをされるはずもねぇんだ」


 ヒルドは何も言うことが出来ない。

 肯定も否定も慰めも、何の役にもたたないということが、彼の自嘲気味な台詞の端々から分かった。その場でぱっと口に出せるような言葉など、何年にも及んだ彼の悲惨な半生を前に、とても並べることはできなかった。

 知らないうちに手で覆っていたヒルドの口から、無意識に言葉が漏れる。


「……酷い」

「酷い、か。……そりゃ酷ぇよなぁ。この醜い傷も、醜い背中も、あいつ等も、この世界も、──俺様も」


 唇を歪ませて、ロタは背中の皮膚をがり、とひっかいた。


「どうせだったら徹底的にやりゃあいいってのに、俺はあくまで商売道具だから客から見える所には傷は付けないでおいてやるんだと。

 美しい俺様の顔は無傷って訳さ。ありがたすぎて涙が出るね」


 ヒルドは唇を噛み、俯く。


「すまない。私は、……何も、言うことができない」

「分かってるさ。下手に情けをかけてもらわなくったって構わない。

 世の中には、もう今からじゃどーにもならないことが山とあるんだよ。これだってそうだ。ヒルドねーさんが気に病む必要はない。

 ヘゼルくんだって体中大変な点じゃ、俺と似たようなもんだ」


 いつものように、ロタはへらりと笑う。

 口元にだけ形ばかりの笑みを浮かべながら、けれどもその表情には、その目には、いつものように気楽な色はない。

 覗き込めばこちらまで引きずり込まれてしまいそうな、くらい沼のような光を湛えていた。


「それに、この傷なんて大したことじゃねぇよ。隠してりゃ、他の連中にはばれねぇからな。

 表に見えない部分のほうが、ずっと非道ひどくてむごい」


 さり気なく付け加えた最後の台詞に、ヒルドは鳥肌を立たせる。

 それが意味するぞっとするような想像に、今まで決して見せることのなかったあまりに昏い彼の表情に、思わず彼女は怖気づく。

 決して、それ以上は聞くことを許さないといった含みがそこにはあった。


 彼女の反応に気付いていないのか、気付かないふりをしたか。

 先ほどとは一転、いつものように明るい調子で、ロタは軽口を叩く。


「ヒルドねえさんさ。俺が、黒幕か何かと繋がっているとでも思っただろ」


 先程の余韻から切り替えができず、一瞬、言葉を詰まらせたが、ヒルドはややあって素直に答える。


「ああ。でなければ、こんな所まで付いてこない」

「だぁな」


 からからとロタは笑う。

 その表情に、もう先程の深淵のように昏い光は、ない。


「残念だったな。黒幕の正体が知れるどころか、嫌なもの見せられちまって。

 俺は。単純に、純粋に、温泉に浸かりに来ただけなんだ。だけど昼間に、あいつらと来るわけにはいかなかったからな。バレちまう。

 たとえ一時でも、癒えるのならば癒えて欲しいと願うのは、当たり前のことだろう?」


 ようやくロタは腰を沈め、音を立てて肩まで湯につかった。

 岩に肘をつき、深い息を吐き出しながら、彼はヒルドに頼む。


「……あいつらには、黙っててくれねぇか?

 この世界には、あいつらみたいな連中は知らなくても良いことがあるんだ」

「ああ、分かった。……誰にも、言わない」


 ヒルドの返事に、満足げに頷くと。

 ロタは、右手を月にかざした。

 その右手は、みるみるうちに灰色の毛で覆われていき、指先には鋭い爪が生える。

 その爪先に月の光が宿り、まるで火を灯しているようだった。



「なぁ。知ってるか。

 みたいな力のことを――世間の一部の連中は、『神々の贈り物』『神々の落とし物』って呼ぶそうだぜ」


「神々の贈り物?」


「あぁ。滅んだはずの神々の力を継承しているから、だとよ。

 ふざけてるよな。

 何が『贈り物』だ。――呪い以外の何物でもねぇじゃねぇか」



 爪の生えた手を、力任せにぎゅっと握りしめると。

 やがてまた、ロタの腕は人の手に戻った。


「だから。邪神ロキの力を継いだ俺様は、元の神が死んでも、その罪は許されねぇらしい」

「ロキの力を継いだ?」


 唐突な彼の発言に、目を見開いてヒルドは聞き返す。


「シーラルから聞いたろう。ルーネ魔術は、『神の力を継承した者が使える魔術』。

 そして『変身者』『超感覚者』と能力を冠した名で呼ばれる。

 あいつははっきり言わなかったが。つまり俺たちは、


 戸惑うヒルドの顔をのぞき見ながら、どこか楽しげにロタは語る。


「『変身』という特異な魔術は、明らかに同じ魔術を使用したロキのことを示している。

 俺様のこの力は、邪神ロキの『変身』の力を継いだものだ。

 そしてヒルドねーさんのそれは、世界の番人であり、『超感覚』を持っていたヘイムダルの力を継いだものなんだろう」

「流石に、生まれ変わりとは……邪推じゃすいしすぎじゃないのか」

「ま。そうかもしれねぇな。ともあれ、こいつが神代の厄介なシロモノであることには違ぇねぇ。

 そしてケッタイな力の割、それを持つ人間を別に幸福にはしてくれねぇらしい」


 怪訝な表情のヒルドへ、にやりと笑ってみせると、ロタは両腕を投げ出し、頭を後ろの岩へもたれさせる。


「なぁ。お前は、……ヒルドねーさんは、上手く生きろよ。

 俺に言われなくともとっくにやってるだろうが、一度目をつけられたら、後は蟻地獄だ」


 まるで独り言のようなロタの言葉に、顔をしかめると。

 ヒルドは、何事かをぽつりと呟いた。

 ロタはそれを聞きとがめて、顔だけ彼女の方へ向ける。


「何か言ったか? ねーさん」

「……ティールとヘゼルが、お前を助けていて、良かった」


 今度はロタが目を見開く番だった。

 ロタが顔を上げると、ヒルドは真っ直ぐに彼を見つめ返す。


「昔のことは取り返しがつかない。

 けど、今はお前も自由だ。

 これからの時間なら、十分に今からでも取り返しはつくだろう?」

「……行く場所もないし身よりもない。学や教養だって、一般人が持ってるのとは違う。どうせ、ろくな人生が待ってやしねぇさ」

「そんなことは、まだ決まっていない」


 ヒルドは、自分の頭に固く巻き付けていた布を剥ぎ取った。

 今度こそ、ロタは目を丸くする。


 ヒルドの耳には、彼のと同じような痛々しい古傷が残っていた。

 少し離れたロタのいる場所からでも分かるその赤い傷は、上から下へぎざぎざとした線を描き毒々しく刻み込まれている。

 まるで、その耳を切り落とそうでもしたかのように。


「全部が終わったら、ウィエルに来い。あそこは力を隠しもしなかった私を、一時はボロ雑巾のようになっていた私をも、受け入れてくれた村だ。

 確かにお前の力は目立ちすぎる。だがこれからは、きっと、上手く生きていくことだってできるはずだ」

「……ねーさんたちの村は、音楽と癒やしの村なんだっけか」

「そうだ。ナシカやティールのような、底抜けにお人好しで、真っ直ぐな連中が育つ村だ」

「けど。一時の滞在ならともかく、俺みたいなモンが、その生活に入り込む隙はあるのかね」

「あるさ。なんだって、どうにだって、生きていかれる」


 彼女の言葉に、ロタはしばし黙り込み。

 やがて、頭の後ろで腕組みしながら、ぽつりと呟く。


「悪く、ねぇな」


 にやり、といつもの笑みで彼は笑った。






+++++



 ヒルドが立ち去った後。

 ロタは一つ、ため息をつき、肩まで温泉に沈み込んだ。背に刻まれた傷跡は、白濁した湯の中に沈み込んで、見えない。


「……カマをかけても一切動じねえか。ありゃ完全に、


 彼女の去っていった方角を眺めながら、なおもロタは続ける。


「まさか。お前が女になっていたとはな、

 ……この期に及んで、お仲間に出会えるだなんて思わなかった」


 彼は頭の上に載せた布を片手で押さえながら、全身が沈み込むほどに更に深く、顎まで湯に浸かる。



「本当に、ふざけてらぁ」



 ロタは、独りごちる。



「本当に祈りが通じているのなら。俺達は、全てを忘れて全てを失って、只人ただびとでいられた筈だ。

 そうは思わねぇか……ヒルドよ」



 聞き手のいないその場所で、ロタは静かに空を見上げた。

 明るすぎる月だった。いつも快晴ならばそこここで瞬いているは筈の星々の姿は、眩い月の光に気圧されて、ほとんど見えない。

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