6章 葬

「お前だと思ったよ」

 ジーラルの家で一日休んだ後、彼らは白夜の街・アルクレールへ向かうべく北へ歩を進めていた。


 内陸とはいえ、この辺りの地形は氷河の影響で海が深くまで複雑に入り組んでおり、しばしば入り江フィヨルドへと突き当たってしまう。

 それを避けるように地図と睨み合いながら道を行けば、やがて勾配こうばいの多い岩場の土地になった。

 今までの土地とは明らかに地質が違う。元は溶岩だったものが固まったものだ。


 周囲には高木が少なくなり、代わりにごつごつとした無骨な岩がそそり立つ。切り立った岩の立ち並ぶ先にはテーブル状になった岩棚もあり、そこからは滝が流れ落ちていた。今でこそ殺風景にも映るが、冬にはさぞかし美しい一面の雪景色になるのだろう。

 近くに間欠泉があるためか、辺りには到るところで霧のように白くなった水蒸気が漂っている。


 黙って歩きながら周囲の景色ばかり観察していたヘゼルは、目的地が近付いてきたことを悟り、密かに深く息を吐き出した。

 彼の目的地はアルクレールではなかったが、その手前の街だ。否応なしに時が迫っていることを感じ、心なしか足どりが重くなる。

 逃げ出したいわけではないが、先に待ち受けているものを考えると、晴れやかな気持ちでいるわけにもいかないのだった。


 ジーラルの解呪を受けたティールとヒルドは、目を覚ました後に事情を知り、愕然がくぜんとするやら呆然とするやら、大変な騒ぎだった。ナシカに対しても、感謝以上にラギへの怒りや彼女に全てを負わせてしまったことへの自己嫌悪まで様々な感情が入り混じり、特にティールの狼狽うろたえようは簡単には収集がつかない有様だった。

 ヘゼルは、それを遠巻きにじっと眺めていた。ロタのように三人に絡む勇気はなく、ただ黙って事の成り行きを見守るばかりだった。

 他の人間も、ヘゼルのことには触れてこない。彼にとってはそれがありがたくもあり、苦しくもあった。




 言葉少なく先へ進む一行であったが、道すがら、おもむろにヒルドが口火を切る。


「少し。相手のことを整理しておきたい」


 彼女の声に、前を歩いていたティールが真顔で振り返る。


「相手って。ナシカに脅しも色目も使ったあの変態クソ野郎のことか」

「ああそうだ。あの性悪最低ろくでなしことラギのことだ」


 同じく真顔で悪態をついてから、ヒルドは続ける。


「ナシカにこんなことをさせてまで、あいつが何をたくらんでいるのか。情報は少ないが、共通する事柄はある。

 ――バルドル、だ。

 奴の目的であるという『バルドルの復活』と、ナシカに演らせた『バルドルの死』。

 真意は不明だが、おそらく何らかの関係があるとみていいだろう。憶測の域は出ないが、バルドル関連の話をさらい直せば、何かヒントを掴めるかもしれない」

「つってもなぁ」


 頭の後ろで手を組んで、ティールは口を尖らせた。


「バルドルって。そんなに活躍してる神様でもなかったろ。それこそ、俺はナシカの演った『バルドルの死』の話しか知らないぜ」

「他に全く出てこないわけじゃないけど、そうだね」


 ナシカが相槌を打った。


「オーディンやトールにロキ、他の神様に比べて、バルドルの出番は確かに少ないかもしれない」

「……まあ、それも俺はちょっと思い出せはしないんだけどな」


 ナシカの同意に、しかしティールはばつが悪そうに口ごもった。

 すらすらとヒルドは簡単に説明する。


「オーディンは最高神。トールは雷神で、つちのミョルニルを所持していることで有名だな。

 そしてロキは、神話におけるトリックスターであり、ときに邪神とも呼ばれる神だ。

 舞台のバルドルの話でも出てきたろう。

 ――バルドルを殺す矢を放った、ヘズをけしかけたのが、ロキだ。

 ……それにしても」


 呆れ顔でヒルドはため息をついた。


「これくらいは学校で習ったはずだろう、ティール」

「知ってるだろ。こういう話は堅苦しくて苦手なんだ。ほとんど寝てたよ」

「おいおいティールくん」


 ロタが話に割って入る。ティールの肩に肘を乗せ、にやにや笑いで彼を覗き込んだ。


「俺だってそれくらいは頭に入ってるぜ」

「やばい。勉強しときゃよかった」

「どういう意味だいティールくん」

「そういう意味だよ」


 ずしりと体重をかけてくるロタを鬱陶うっとうしげに引き剥がしてから、ティールは不満げに言う。


「じゃあロタが説明してくれよ。他に何があるんだ、バルドルの話」

「別に構わないが、残念ながら」


 両手を広げて、ロタは首を横に振った。


「さっきティールくんも言ったように、関係なさそうなお気楽なエピソードを除けば、バルドル絡みは、それこそ楽劇の内容そのままだ。

 邪神ロキがヘズをそそのかし、バルドルが死ぬ。周りの人間もてんやわんやで動き回るが、結局バルドルは生き返らずに妻のナンナと冥界行きだ。

 ただ。バルドルの死が意味するものは、それだけじゃない」

「意味するもの?」

「『神々の黄昏』『神々の運命』――ラグナレク、滅びの予兆だ」


 何故か鼻で笑ってから、ロタは淡々と語った。


「バルドルの死を皮切りに、神々の世界は暗い方へと突き進んでいく。

 太陽と月は飲み込まれ、あらゆる命は死に絶える。

 そして神の国の見張り番であったヘイムダルの角笛が世界の終焉を告げ、罪人の戒めは消し飛び、彼らは神の国へと攻め込んで戦争が始まる。

 ……とまあ、こんなところだな。詳しくつつけばいくらでもあるだろうが、流石にそこからアタリをつけるのは無理があるでしょうよ」


 腕組みして必死に話を飲み込もうとしながら、ティールは首を捻る。


「じゃあ。バルドルが死ななければ、滅びは避けられたのか?」

「さあねぇ。ま、少なくとも戦いで戦力が減ったのは否めねぇだろう。けどな」


 そこで言葉を切ってから、ロタはにやりと口を歪める。



「それ以前に、意図はどうあれ――バルドルに向け、弓を引いた奴がいたのは確かだ。

 どうあったって神の世界は、滅ぶべくして滅んだんだろうさ」



 彼の言葉に、ヘゼルは一瞬、目を閉じた。

 固く閉じられたそれが再び開いた時、ヘゼルの眼差しは前を歩く彼らを捉えてはいなかった。

 

 ひゅうと吹きぬけた風に、焼いた肉の香りが交じる。

 街が、近付いているようだった。







+++++



 アルクレールは、まるで箱庭のように美しく整った街だった。道は綺麗に整備され、三角屋根のずらりと並んだ木造の建物郡が目を惹く。

 白夜の町と銘打つアルクレールは、同時に冬はオーロラの名所でもあった。温泉地であることもあいまって観光客が多く、特に夏と冬は賑わっている。

 しかし今の季節は春。日はだいぶ長くなっていたが、夜は訪れた。街は嵐の前の静けさのようにひっそりしていて、旅人の数はさほど多くはない。


 難なく宿を得ることができた彼らは、夕食後に街の郊外に位置する温泉に向かった。溶岩の岩をそのまま利用した露天風呂は、街に来る途中で見かけた切り立った岩や滝なども見渡せるらしい。療養にも観光にも人気があるようだったが、元々の客が少ないことと、郊外で少しばかり遠い場所であることから、ほとんど独占状態だった。

 温泉は女湯と男湯に分かれていた。中に入る前に、ヒルドは振り返ってロタへ指を差すと、厳しい声で忠告する。


「念の為に言っておくが。もしも覗いたりしたら承知しないぞ」

「何言ってるのよ、私も女の子じゃない!」


 聞き慣れない甲高い声に振り向けば、隣にいたはずの金髪の男は、いつの間にか痩身の美女になっていた。

 ヘゼルとティールは白い目を向ける。

 ヒルドは手にしていた布をびっと力任せに引っ張った。


「決めた。貴様はフィヨルドに沈める」

「ちょ、待って待って目が本気だから怖いからねーさん」


 元の男の姿に戻ったロタは、へらへらと笑いながら手を広げる。


「やだなぁねーさんてば、冗談だろう。俺が風呂を覗くような無頼ぶらいな人間に見えるかい?」

「お前こそ冗談を。貴様が覗かないなら逆に一体どんな人間が覗くというのかを是非ともご教授願いたいな」

「とんでもなく信頼度が低くないかい? ねーさん」

「分かっているなら話は早い」


 ヒルドはそう言い捨てると、くるりときびすを返して、ナシカと共に女湯の入り口をくぐった。

 三人もそれに習い温泉に向かおうとするが、手前で急にロタは立ち止まる。


「俺はいい。お前等だけで入ってこいよ」


 ティールは不審な眼差しをロタに向ける。


「……そうやって女湯を覗きに行く気じゃないだろうな」


 ロタは、ははんと感心したように頷く。


「よく分かったねティールくん」

「行かせねぇ……!」


 ティールは背を向けたロタの襟元えりもとをがしりと掴む。振り返ると、ロタは笑顔でティールの肩を叩いた。


「そうかそうか。ティールくんも覗きたいか」

「言ってねえ! お前と一緒にするな!」

「否定しなくてもいい。それは健全な男子たる確固とした証拠だ」

「違う! 聞け!」


 今度は逆に、ティールがロタに引きずられる形となる。ヘゼルは呆れ顔でそれを見遣り、自分は無関係といった風で温泉の中へ入ろうとしたが、自らも服をティールに掴まれた。


「なんで僕まで連れて行かれなくちゃいけないんだ!」


 同じく引きずられる形になったヘゼルが抗議した。ティールはヘゼルを逃がさないようしっかり服を掴んだまま、もっともらしく告げる。


「こうなったら運命共同体だ」

「そんな運命共同体ごめんこうむる! 死にたくない!」

「いいか、こうだ。その場になったらお前はロタを押さえて目を塞げ。全力で阻止しろ!」

「……その間お前は何をする気だ」

「……まぁ、敵情視察というか、現場確認というか」

「お前も覗く気満々だろう!」


 ヘゼルの抵抗も虚しく、無理矢理に彼は連れて行かれる。

 だが、彼らの野望はすぐに打ち砕かれた。


「三人揃って仲のいいことだな」


 氷のような眼差しで立っていたのはヒルドだ。

 彼らの行動を見越したように、壁に寄り掛かり腕を組んで佇んでいた。


「……ご機嫌麗しゅう、姉さん」


 ひくり、と口を引きつらせながら、ロタは無理矢理に笑みを浮かべる。

 次の瞬間。ロタを筆頭に、三人へヒルドの制裁が加えられた。


 痛手を負い早々に逃げ帰ると、今度は二人の抗議の視線がロタに向く。

 だが、ロタはそんな二人をするりとかわし、一人で宿まで逃げ帰っていった。






+++++



 ぎしり、という廊下の板が微かに軋む音で、ヒルドは目を覚ました。

 窓から空を見れば、暗い夜空には明るい月が高く鎮座し、差し込んだ光が煌々と室内を照らし出している。春先のこの時期、日の入りは遅い。だからすっかり闇の帳が下りている今は、深夜であった。

 やがて窓の外には、今し方、足音を忍ばせ廊下を通った男の姿が映し出された。相手はこちらに気付いていない。月の光には、男の流れるような金髪が映えていた。

 ヒルドはナシカを起こさないようにそっとベッドを抜け出すと、上着を羽織って、やはり音を立てないようにするりと部屋を抜け出した。



 夜のアルクレールに人気ひとけはない。本来観光地であるここは、白夜やオーロラを楽しみに訪れた人々で、夜にも活気がある街である。だがこの時期、白夜にしろオーロラにしろ時期を逸していた為、深夜に出歩く人間は滅多にいなかった。

 今、ヒルドの少し先を歩いている人物――ロタを除けば。


 息を凝らして相手を付けるのはヒルドの得意分野だった。一定の間隔を開け相手に悟られないよう、だが確実に後を追う。


 ロタのしっかりした足取りは、ふと思い立った気ままな散歩の類などではなく、明らかに何らかの目的を持って動いていた。彼は淡い街灯の照らす小道を、迷う様子もなく歩を進めていく。

 足が向かう方向は街の中心部ではなく、ここより一層静かな郊外だった。それがより一層ヒルドの不信感を募らせる。


 やがて彼が辿り着いた場所は、夕方に彼らが訪れた温泉だった。

 男湯へ入っていったロタの姿にどうするか迷ったが、他に人の気配がないことを確認し、ヒルドは側面へまわった。


 ヒルドが耳を澄ませても、辺りは静かだった。白い湯煙が月光に浮かび上がり、既に見たはずの景色をどこか幻想的なものにしていた。

 岩陰に隠れて様子を窺っていると、やがて現れた彼の姿が、明るい月明かりに照らし出される。

 彼の背が闇の中に浮かび、ヒルドは息を呑んだ。



「まさか、俺様が覗かれる側になるとは思ってもみなかったぁな」



 肌着一枚の姿になったロタは、笑い混じりで言った。ヒルドは弾かれたように岩影から立ち上がると、自分が見つかったことに驚くのも忘れ、ただ彼を見つめた。



「お前だと思ったよ。『超感覚者』、ヒルドねーさん」

「ロタ、……お前」



 言葉が後に続かない。

 ただじっと、彼女の視線はロタに注がれていた。


 再三確認して、改めて彼女は息を呑む。

 肌に落ちた影や、見間違いなどではなかった。


 右肩から腰の方まで伸びる太いぎざぎざした痕。

 みみず腫れのように浮き上がった肉。

 幾重にも重なった、細かい線。



 ロタの体に刻み込まれていたのは、無数の生々しい傷跡だった。

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