「オワリ、ハジマリ」
夜。結局子供達の遊びにつきあわされ身体的に疲労したヘゼルは、夕食の後、一晩の宿に与えられた村長宅の客室のベッドに座っていた。
「……っ……!」
ヘゼルは左腕を押さえる。
またか、とヘゼルは思う。
また、この痛み。夜になると特に多い。前は心臓の辺りだけであったのだが、この頃は刺青そのものも痛んだ。
半年前、悪夢から目覚めると彼の腕にはこの刺青が刻まれていた。以来、悪夢にうなされぬ日は無く、痛みが襲わぬ夜は無い。
誰がやったのか、何故そんな呪いをかけたのかは分からない。ただ初めて目にしたとき、ヘゼルはそれが『呪い』であるとはっきり確信したのである。どうしてだかは自分にも分からなかった。
人からの恨みを買った、そういう心当たりが無いわけではない。
しかし、それとこの呪いとはおそらく関係が無いのだろうとヘゼルは思っていた。
――呪われた身でこそあれ、呪いそのものを受ける立場じゃあない。
ぼんやりと思いながら、ヘゼルは毎度お馴染みのその痛みに耐えた。
しばらくそうしていると。突然、コンコンと扉を叩く音がする。
汗を滲ませたヘゼルが返事をする間もなく、かちゃりと扉は開いた。そこに立っていたのは、後ろ手に弦楽器を携えたナシカである。
「こんばんわー」
ナシカは歩み寄り、無邪気な顔でヘゼルの額を指差した。
「眉間のシワー」
「……ああ!?」
ヘゼルの苛立ちに臆することなく、ナシカは無邪気に笑うと、唐突に手にしていた弦楽器を弾き始める。
昼間の音楽とは全く違う、明るく軽快なワルツ。リズムと共にナシカの服や装飾もひらひら揺れる。両の腕にはめた腕輪や首のネックレスは、果たしてこのためだろうかと思うくらい、音楽とナシカの動きとに完璧に同調していた。これが新しい舞踏の一種と言われてもおそらく疑わなかっただろう。気付けばヘゼルの目線は彼女に釘付けになっていた。
曲が終わり、ナシカが肩から楽器を下ろす。夢から醒めたようにヘゼルは数回瞬きした。何かを言おうとして、しかし何を言おうか考えあぐねた挙句、ヘゼルはふと思い浮かんだ取るに足らない事を尋ねる。
「お前は、ヴァイオリンも弾けるのか?」
「えーと、正しくはフィドルかな? ヴァイオリンで間違いじゃないけど、私達はフィドルって呼ぶの。うん、弾けるよ。音楽術師のたしなみでございます」
ナシカはスカートの裾をつまんで軽く一礼すると、にま、と笑った。
「ほら、眉間のシワとれた」
ナシカは笑顔のまま身を翻し、軽やかに部屋を出る。
「それじゃまた明日ね。おやすみー」
あっという間にナシカは去っていった。扉が閉まる音を聞くと、ヘゼルは思い出したように自分の左腕を見る。いつの間にか先ほどの痛みはすっかり消えていた。
「成る程、音楽術師……」
呟き、ヘゼルは思考を放棄して布団に背中から倒れ込んだ。細かいことでいつまでも悩んでいるのが、なんだか急に滑稽に思えてきたのだ。そのまま彼は目を閉じ、穏やかに眠り込む。
その日、ヘゼルは夢を見なかった。
お馴染みの悪夢にも痛みにも苛まれることなく、朝までヘゼルは
+++++
翌朝。四人は村の出口に立っていた。
見送りの者はいない。あえてそういう時間に旅立つことに決めていたからだ。もし見送りをするとなれば、離れるのを惜しむ子供たちで大騒ぎになり、なかなか出発することが出来ないだろう。四人の姿を見送るのは村の奥にそびえた大樹のみであった。
次に村の人間と会う時は全員が元の姿に戻る時だ、と後を任せる年長の子供たちには言い聞かせていた。その子供たちにすら、正確な出立時間は伝えていない。おそらく言い含めていてもそれを破って子供たちは見送りに来てしまうだろう。それほどまでに彼らは、特に多くの子供の母代りであったヒルドは慕われていた。
まだ三人とは昨日出会ったばかりのヘゼルであったが、見送りが誰もいない訳を聞き、なんとなくその理由が分かるような気がして、しみじみと誰もいない早朝の村を見渡したのだった。
予告なしにナシカはフィドルを構えた。左肩と
村の入り口は何事も無かったかのように四人を通した。歩きながらヘゼルはそっと後ろを振り返る。先ほどとは何ら変わりのない景色が広がっていたが、しかしもう村に戻ることは出来ないのだ。不思議な感覚を覚えつつも、ヘゼルは前へ歩を進める。
前方に向き直れば、他の三人は背を向けたまま決して後ろを振り向こうとはしなかった。憶測であったが、きっと見送りを拒んだのと同じような理由なのだろう、とヘゼルはひそかに思う。
全員が門をくぐりきると、ほっとしたようにナシカは演奏を止めた。フィドルを肩から降ろし、それを丁寧に仕舞う。
その時、上の方からのどを潰したような奇妙な声がした。驚いて顔を上げるが、辺りに人の姿はない。側にいたのは、村の出入り口にある木の枝に止まった一羽のカラスのみである。
カラスの片目は潰れていた。ヘゼルたちがこちらに気付くのを待っていたかのように、カラスはくっと首を曲げると、潰れていないほうの目をぎょろりと彼らに向けた。その気迫に思わずティールはたじろぐ。
「ハジマリー、ハジマリー、オワリ、ハジマリー」
カラスはそう言い捨て、唖然とする一行を余所に、一声鳴いてどこかへ飛び去ってしまった。
「……カラスが喋った」
ティールは目をむいた。へゼルは最初に村に来た時のことを思い返し、あのカラスが記憶と同一のものであると認識する。
「僕がウィエルに来た時も、あのカラスが喋っていた」
ヘゼルの言葉にティールは口を引きつらせる。
「はぁ? お前、……驚かなかったのか?」
「……この村では、カラスぐらい普通にしゃべるのかと思った」
「思うな! そこのところ疑問に思えよ!」
「普通だと疑問に思うんだが、この村なら動物くらい簡単に喋りそうで」
「この村も動物は普通だよ、喋らねぇよ! ってどういう意味だよ!」
横からナシカが暢気な声を挙げる。
「分からないよー、中には話すカラスもいるかも」
「普通いない!」
三人のやり取りを後目に、ヒルドだけはじっと飛び去ったカラスを目で追っていた。しかし次第に小さくなっていくカラスは、やがて小さな点になり、見えなくなる。一体どこまで行ったのかは皆目見当がつかない。
しかしカラスの飛んでいった方角が、これから彼女たちが向かう先と同じであることは確かだった。
底知れぬ不安に襲われたヒルドは眉をひそめ、三人を振り返る。三人は相変わらずのやり取りをしていたが、ヒルドの目線に気付き言い合いを止めた。ヒルドは冷静な表情を崩さぬまま、ごく静かに告げる。
「……急ごう」
ざわり、と強い風が吹き、さわさわと枝葉の揺れる音がする。
ヒルドたちは彼女の号令で歩き始めたが、しかしその音を聞いて一瞬だけナシカは足を止めた。少し遠い場所から聞こえた樹のざわめきは、彼女たちを送り出すかのように風が止んでもその余韻を残している。
ナシカは振り向かなかった。
振り向かずとも、それが大樹の声であるとナシカには分かった。
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