輪生エッダ

佐久良 明兎

1章 呪

「僕の呪いを解いてもらいたい」

 微かに旋律が聞こえた気がして、旅の少年は足を止めた。


 全身黒い服を身にまとい、髪は同じく闇に溶けそうな漆黒。背には、異様に映るほど大きい両手剣を担いでいる。夜に身を投じれば、彼の姿はたちまち闇に紛れてしまうだろう。

 彼の前方には森に囲まれた小さな村があった。今しがた耳にした音色は、その村の方から聞こえてきた気がする。

 前髪をさらりとなびかせ顔を上げると、少年は微かに目を細めて前方の村を見遣った。

 この村が少年の目的地である。しかし。


「ここが『音楽と癒しの村ウィエル』……?」


 閑散とした村に、人の気配はあまり感じられない。村の周りの柵は、横木が外れ地面に突き刺さる杭ばかりとなり、辛うじて付いている横木も斜めにだらりとぶら下がっている。左右の連結は切れ、既に柵の役割を成していない。まるで墓のような風体だった。

 村の入り口の脇には、枯れかかった灰色の木が一本生えていた。その木の枝に、真っ黒いカラスが一羽止まっている。片目の潰れたそのカラスは、少年をじっと見つめると、にわかに言葉を発した。


「ノロワレター、ノロワレター」


 少年は眉をひそめ、吐き捨てるように唸る。


「失せろ」


 カラスはくっと首を曲げ、一声挙げてから森の方へ飛び去った。それを一瞥してから、彼は朽ちかけたような目の前の村を見据える。

 やがて漆黒のマントを翻すと、少年は静かに村へと足を踏み入れた。




+++++


 かつて神々の生きた美しい世界は、終末の日・神々の黄昏ラグナレクにより滅んだ。

 しかし生き残った者たちにより、世界は人間やその他の者たちの手に移り、新たな時代が始まった。


+++++




 一人の少女が木の枝に腰掛けていた。


 村を見渡す高台にあるその大樹は、丈夫な枝を方々に伸ばして青い葉を茂らせている。子供は勿論、大人二人分くらいなら悠に支えてしまう大樹の枝は、昔から子供たちの恰好の遊び場だった。村の子供たちはこの大樹に一人で登れるようになると、仲間から一人前と認められるようになる。しかし近頃は、大樹に登って遊ぶ子供はほとんどいない。


 白いワンピースに身を包んだ少女は、幹に寄りかかり、ぼうっと遠くを眺めていた。どこか浮世離れした素朴で純真な雰囲気を身にまとう彼女は、知らぬ者が見れば森の精霊か何かかと見紛うのではと思うほどだ。

 彼女の手には、白く色の塗られた木製の小ぶりな笛が握り締められていた。通常のそれよりもかなり小さく、すっぽりと手のひらの中に収まっている。


 大樹の枝からは小さな村全体が見渡せた。まだ真っ昼間だというのに閑散としており、村を歩く人の姿は数えるほどしかいない。そしてそのどれもが小柄な体躯をした、まだ年端もいかぬ子供ばかりであった。

 心地良い風に身を任せ、彼女はそっと瞳を閉じた。


「おおいナシカ!」


 やがて、不意に静寂を破る明るい声が聞こえる。声に反応し、ナシカと呼ばれた少女は下を見下ろした。その拍子に、白いリボンで一つに束ねた三つ編みが勢いよく跳ねる。


「そろそろ降りてこいよ、ヒルドが呼んでる。いい加減に準備を終わらせないと、明日の朝に出発出来ないぜ」


 ナシカのいる大樹よりやや離れた場所には、金髪の少年が立っていた。少し長い髪を一つにくくって額には布を巻き、緑の服に身を包んでいる。

いかにも快活そうなこの少年は、村の中でも大人に引けを取らないくらい背が高い。

 丘を登りきったところらしく、少年は立ち止まって少しばかり乱れた息を整える。その後で顔を上げ、彼は腰に手を当ててナシカを見上げた。


 ナシカは手にしていた笛に紐を通し、手早く首へかけながら、笑顔で応じる。


「うん、分かった。今降りるね、ティール」


 彼女は器用にするすると枝から滑り降りる。それと一緒に、首から提げた小笛もまた揺れた。




 彼女の家は大樹のそびえる丘を下りすぐの場所にある。樹の上から見下ろした時と同様、昼間だというのに人通りはほとんどない。静かな通りから家の玄関に入れば、そこには一人の少女が待ち受けていた。


「ナシカ、お客だ」


 薄褐色うすかっしょくの髪をした少女、ヒルドが、開口一番に仏頂面ぶっちょうづらでそう言った。彼女は帽子のように布を頭に巻き付けて耳まですっぽりと覆い、男物の質素な服を身につけている。

 部屋の中には旅支度と思われる荷物が散乱していた。ナシカは旅支度の途中で家を抜け出し、大樹に登っていたのである。


「お客さん?」


 ヒルドの言葉にナシカは目を見開いた。隣のティールもまた驚きの色を浮かべた後で、不満そうな表情を前面に押し出す。


「こんな時に客ぅ? もう明日が出発なんだぜ。他の奴じゃ駄目なのかよ」


 呼びに来たティールも初耳だったようだ。他の者に応対させようと、指を折りながら代理の名前を挙げ始めたティールに、しかしヒルドはゆるゆると首を振って彼の不服を退ける。


「私もそう言った。だが、どうしてもナシカをご所望なんだそうだ。村長の家の客間で待たせてある。手っ取り早く済む案件ならいいのだが、そうはいきそうにないな。

 ……何やら嫌な予感がする」


 ヒルドは僅かに眉を寄せ、懸念を浮かべた眼差しで窓の外を眺めた。




+++++




「あんたがナシカ・メルディウスか?」


 問われてナシカは静かに頷く。

 テーブルを挟んでナシカの向かいには、件の客である黒髪の少年が座っていた。全身を黒の衣で固めた少年は、ナシカをやや猜疑さいぎがかった眼差しでじっと見つめる。


「まだ随分若いじゃないか」

「何が若いだよ。お前だって俺達と同じくらいの歳じゃねーか」


 ナシカの隣に立っていたティールが不満げな声を挙げる。胡散うさん臭そうに黒髪の少年はティールを見上げた。


「そういうお前は何者だ」

「俺はナシカの保護者だ。何か悪いか」


 そう答えてから、ティールは腕を組み皮肉っぽく言う。


「それにナシカが若いにせよ何にせよ、村一番の『音楽術師おんがくじゅつし』であることに違いはない。

 あんただって、ナシカに助けてもらうためにウィエルに来たんだろう? わざわざのご指名、なんだからな」


 黒髪の少年は一瞬言葉に詰まってから、眉間に皺を寄せた。


「……そうだ。名の知れている随一の使い手でなくては、僕にかけられた呪いは解けないと思って、だ」


 今度はティールが怪訝そうに黒髪の少年を見遣る番だった。


「呪いぃ? そんな事はその道の専門家に聞けよ、俺たちの本分じゃない」

「そんな事とは何だ。大体、専門家とやらが誰も僕の呪いを解けなかったから、こんな僻地へきちの村まで来たんじゃないか」

「どこが僻地だよ」

「ここが僻地じゃなきゃどこが僻地だ?」


 睨み合いながら言い合いを続ける二人へ歯止めをかけるように、ヒルドが呆れ交じりの声色で呟く。


「お前等はわざわざここへ喧嘩でもしにでも来たのか?」

「いや呪いを解いてもらいに」

「いやナシカの保護者だから」


 二人は同時に答えると、また顔を見合わせて睨み合った。しかしナシカの困ったような視線を横目で捉えると、黒髪の少年は咳払いをして、気を取り直したように続ける。


「名乗り遅れた。僕の名はへゼルティ、……ヘゼルで構わない。

 高名な音楽術師の噂を聞きつけて訪ねて来た。もし可能ならば、僕の呪いを解いてもらいたい」

「ええ、っと。……じゃあ、へゼルさん。呪いについて、詳しく教えてもらえますか?」


 ナシカの問いに、へゼルは無言で椅子から立ち上がった。ばさりとマントを脱ぐと、やはり黒い服の左袖をめくる。その生身の腕を見て、三人は息を呑んだ。

 彼の腕全体には、青黒く痛々しい刺青いれずみが刻み込まれていた。どちらかといえば刻み込まれているというより、腕に巣くっている、という表現の方が似つかわしい。細い糸が絡み合ったかのような文様の刺青は、何かの植物を模しているようにも見えた。


「心臓辺りの鋭利な痛み。悪夢。そして突然浮かび上がってきた、この刺青。

 ……これが僕の冒されている呪いだ。半年前からそれが続いている」


 へゼルはすがるような目でナシカを見つめる。


「ウィエルの音楽術師は、不思議な音楽の力であらゆる病や怪我を癒せると聞いた。病や怪我とはまた違うが、他の手段を尽くしてもこの呪いは解けることが無かった。

 もし僕の呪いが解けるとするならば後はここしかないと、最後の手段でウィエルに来たんだ」


 ナシカはしばらくじっと刺青を見つめて、それからおもむろに木製の細長い横笛を手に取った。


「見てみます? あなたの、呪いの形」

「呪いの形?」


 頷くと、ナシカは横笛を口に当てた。

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