3章 海

「とりあえず何も考えるな……忘れろ」

 ある時、バルドルは死を予言する不吉な夢を見る。

 心配した母は、世界中ありとあらゆる全てのものに、バルドルを傷つけないよう誓いを立てさせた。


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「海だー!」

「海だー!」


 ナシカとティールは目を輝かせて叫んだ。


「あまりはしゃぐな。いかにも田舎者じゃないか。……ま、実際田舎者か」


 人目を憚らずに声を上げた二人へ、呆れ混じりでヘゼルが言った。いつもであれば一言二言、ティールが言い返しているところだが、今はヘゼルの皮肉も耳に届かないようである。目の前に開けた青い大海原、人がそこここで行き交う活気あう港町に、ナシカとティールは心躍らせていた。


 水上都市ジェールズは、この辺りで最大の港町だ。街中を運河が縫うように通り、小さなボートから大きな帆船まで、大小様々な船が至る所で見られる。

 また貿易が盛んなジェールズは、新鮮な魚貝類から香辛料、珍しい宝飾品などが各地から集まり、随所で市が開かれ賑わっていた。

 街の規模から人の数から、ウィエルや周辺の街とは比べものにならない。海すら見たことがないナシカたちがはしゃぐのも無理はなかった。


 街に辿り着いてから、彼らは二手に分かれた。ナシカとヒルドは食料や必需品の買出しに市街地へ向かう。一方、ヘゼルとティールは対岸へ向かう船の券を手に入れる為、港へ足を向けた。

 ジェールズは美しい町並みでも知られており、ただ街をそぞろ歩くだけでも楽しめる。優雅に流れる運河の向こうに、赤や青、橙と、色とりどりの建物が整然と建ち並ぶ様は、この街に来たのが始めてでないヘゼルからしても壮観であった。


 まして初めてのティールはといえば、辺りを物珍しげに見回しながら、口をぽかんと開けて歩き続けていた。周りからは彼が地元の人間でないことが一目で分かってしまうに違いない。おそらくナシカも似たような具合なのだろうなと、ヘゼルはぼんやり思った。

 最初は大目に見ていたヘゼルだったが、おもむろに立ち止まったり脇見ばかりしているティールが通行人とぶつかるのを見て、三度目にさすがに呆れて忠言する。


「物見遊山も結構だが、あまり道草を食っていると後でヒルドにこっぴどく叱られるぞ」

「言えてる」


 ヒルドという言葉を聞くと、ティールはようやく我に返り表情を引き締めた。相変わらず目線はそわそわと落ち着きないが、足取りはいつもの早さに戻る。

 が、今度はヘゼルが不意に足を止めた。


「……今、何か聞こえなかったか?」

「へ?」


 ティールは耳を澄ました。彼らの側に人の気配はない。離れたところから人のざわめきが聴こえるが、おそらくヘゼルが言っているのはそのことではないだろう。


「何も聞こえ……」


 ない、とティールが言い終えようとした時。今度は彼の耳にも、微かな声が聞こえた。

 二人は顔を見合わせ、辺りを見回す。彼らが今いるのは、港の船着き場の近くだ。積み荷か何かだろうか、あちらこちらに木箱が積まれている。まるで迷路のようになっている荷の山をくぐり抜け、二人は声の元を辿った。

 次第に声がはっきりしたものになり、やがて何を言っているかが鮮明に聞こえるようになった時。


「……な」

「なんだよ、これ!」


 二人は声を失う。

 見つけたのは、檻状になった大きめの木箱であった。その中には、一人の人間が入れられている。


 まだ若い女性だった。腰まである柔らかそうな金髪に、白い肌。容貌は美人の部類に入るだろう。彼女の体型に合わない、ぶかぶかの男物の服を着せられていた。

 そして彼女はしきりに、近くを通るかもしれない誰かに向け助けを求めていたのだった。


「お願いです。助けて頂けませんか」


 女性は自分を閉じこめている木枠を掴みながら、悲痛な声で二人に訴えた。


「どうしだって、こんなところに入れられてるんだよ!?」

「海賊に捕まったのです。売られるのです、異国に」


 彼女は長い睫毛を伏せた。ティールは信じられないといったように首を横に振る。


「売るって、人間だぞ!? 何でそんなこと」

「人身売買だ。大きい街じゃ、まっとうなものからいかがわしいものまで色々なものが集まってくるからな」


 ヘゼルは静かに言った。ティールはかっとなって怒鳴る。


「何だってお前はそんなに冷静なんだよ! こんな理不尽な事ってあるか?

 よくあることだって、お前は人を見殺しにするってのかよ!」

「馬鹿、大声を出すな! ばれたら、助けられるものも助けられないだろう」


 顔をしかめて、ヘゼルは声を抑えながら一喝した。ティールは目を見開く。

 女性は目を潤ませて、祈るように手を組み合わせた。


「ありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか……」

「礼なら、まず無事に逃げ出してからだ」


 ヘゼルは周囲を見回した。見える範囲に海賊らしき姿はないが、そう遠くないところに見張りがいるに違いない。


「ティール、その辺にいそうな見張りを全員眠らせることは出来るか?」

「俺が見張りの顔を全員把握して、なおかつそいつらが笛の音の届く範囲ならな。無茶だろ。残念ながら音楽術は万能じゃねーんだ」


 森で盗賊に逢った時と同様、敵が寝ている間に穏便に逃げられればと思い尋ねたのだが、あてが外れたようだ。ヘゼルは眉間を指で押さえて考え込む。


「だったら、一刻も早い方が良いな。まずはこの檻をこじ開けて」

「それで俺等の獲物盗んで、逃げだそうってのか?」


 突然、聞き覚えのない高い声が聞こえて、びくりと二人は振り返る。

 背後の木箱の上に腰掛け、ぶらぶらと足を揺らしながら、まだ幼い少年が二人を見下ろしていた。

 少年は冷ややかな眼差しで二人を睨みつける。


「困るんだよね、折角、手に入った貴重品なんだから。あんたたちがコイツを逃がしたら、とんだ大損だ」

「おいおいお前、なんだよその言いぐさは!」


 苛立った声色で、ティールは村の子とでも接しているかのように諭す。


「人をモノ呼ばわりするな。そんなことも習わなかったのか?」


 至って真面目に語りかけてくるティールに、少年は呆れ顔で吐き捨てる。


「何を習うってんだよ。俺は海賊だぜ」

「やっていいことと悪いことがあんだよ。ろくな大人にならねえぞ」

「知るかよ、余計なお世話だ。何なんだよアンタは」


 ティールと海賊の少年が話している間に、ヘゼルは背中に背負っていた剣を下ろし、鞘ごと檻に斬りかかった。木製であった為か、意外に容易く格子は壊れる。

 中から手早く女性を連れ出し、足腰のふらついている彼女を背負うと、負いきれなかった剣をティールに放り投げた。突然手渡されたティールは少しよろけながら、きょとんとして顔を向ける。


「いい加減、状況に気づけ。逃げるぞ!」


 ヘゼルは皆まで言い切らないうちに走り始めた。慌ててティールも後を追う。

 背後からは、あの海賊の少年が仲間に事態を知らせる声が聞こえてきた。これまで静かだったはずの港には、何人もの人間が集まってくる気配と、男達の怒号が聞こえてくる。


「俺、旅に出てまだ三日なのに、もう三回危険に遭った気がする」

「奇遇だな、僕もだ」


 必死に走りながらも、ヘゼルは口の端を歪ませた。

 四方八方が積み荷で覆われているので、海賊達にヘゼルとティールの姿は見えていない。だが同時に、彼らからも敵の動きはさっぱり分からなかった。このままでは鉢合わせするのも時間の問題だろう。


「こっち! この通路を抜ければ、ひとまず海賊のねじろから抜けられます。まだ奴らはこちらに気付いていません。今のうちです!」


 不意にヘゼルの背で、かの女性が細い路地を指差し囁いた。三人は彼女が指し示す方向へ転がるように駆け込む。そこは店と店の隙間の、滅多に人が通らないような細い抜け道であり、港からは死角となっているようだった。

 ようやく彼らは一息ついて、腰を下ろす。


「な、なんとか、逃げられた……か?」

「ひとまず、な」


 二人とも息を切らしながらこっそり港の方角を窺った。

海賊は、三人がまだあの積み荷の迷路に居ると思っているのか、こちらに手が伸びてくる様子はない。気配は遠く、声も微かなものとなっていた。二人は顔を見合わせ、安堵のため息をつく。


 その時だった。


「あっりがとよー、坊主ども」


 低くてよく通る聞き慣れない男の声に、ヘゼルとティールはぎょっとして振り返った。


 確かにさっきまで助けた女の人がいた場所。

 だが女性の姿は忽然と消え、代わりにそこには、腰まであるさらさらの金髪を潮風になびかせ、にやりと笑みを浮かべた青年が立っていた。

 その青年が身につけた服は、助けた女性その人が着ていたものとである。


 混乱した二人は再び言葉を失う。

 彼らの様子を交互に眺め、青年は肩をすくめた。


「あらら、硬直してら。ま、俺様の華麗なる術を予告もナシに目の当たりにすれば、無理もねぇけど、な」

「ちょ、どういう……何が起こった!?」


 ティールは青年を震える指で差して言う。ヘゼルは目を白黒させ口を引きつらせるばかりだ。

 青年は芝居がかった調子で両腕を広げた。


「おっと、それはひとまず二の次だ。まずは逃げるのが先決だ。

 おい、緑のがきんちょ! お前、馬乗れるか?」

「乗れねぇよ!」


 やぶれかぶれになってティールが叫ぶ。


「じゃあ黒いがきんちょ、お前は?」

「一応、多少は」


 警戒心むき出しでヘゼルは答えた。


「よーし、じゃお前は緑のがきんちょ抱えて飛び乗れよ。あと後々困るから、俺様の服をちゃんと持ってこいな」


 彼が一体何を言っているのかと、二人が疑問を挟む暇もなく。その不可思議な現象は、唐突に起こった。


 青年が瞳を閉じると。

 にわかに彼の全身に黒い毛が生え始め、手足が変形する。やがて人間で言うなら四つんばいの格好になると、青年は長く伸びた首を持ち上げて、やはり悪戯めいた瞳で二人の方を見た。


 青年は、馬になった。


 今度こそ二人は度肝を抜かれ、ティールはその場にへたり込んだ。だが、彼らに驚いている暇は与えられなかった。目立つ風体になったためか、海賊達に発見されてしまい、こちらに人だかりが押し寄せてくるのが見える。


「やっべ、早く乗れ!」


 馬、つまり青年の言葉にヘゼルは無理矢理正気に戻り、ティールを半ば放り投げるように馬に乗せると、自分も飛び乗った。

 二人分の体重が馬の背に乗ったのを合図に、青年は壁と壁の隙間すれすれの道を駆け出す。


「おい、あまり首を絞めるなよ。さすがの俺様も苦しい」

「贅沢を言うな、こっちは乗っかってるのが精一杯なんだ!」


 ヘゼルは必死の形相で言い返した。鞍も何もない馬の背に、しかも早駆けで二人の人間が乗るというのは至難の業である。体勢が整わないうちに走り出したので、乗っていると言うよりはティールと馬とを羽交い締めにしていると言った方が近い状態だ。

 しかし後ろからは海賊が追ってきている。無様な格好であったが、落ちないでいるだけましだった。

 ヘゼルよりもさらに酷い体勢で乗り上げていたティールが、ようやく落下しない程度に体をずらすと、彼は抑揚のない声で言う。


「ヘゼル……都会の人間は、変身出来るんだな」

「それは違う」


 間抜けなティールの問いに、ヘゼルはきっぱり即答した。


「じゃあ、これは……どういう事なんだよ」


 ヘゼルは馬、もとい青年にしがみついたまま、遠い目をして答える。


「とりあえず何も考えるな……忘れろ」

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