「例えそれが、仕組まれていたことなのだとしても」

 しばらくナシカは、深くゆっくりと呼吸をして、息を整えていた。

 やがて彼女は、両手を強く、白く色が変わるほどに握りしめ、手の震えを止める。スカートの裾を払って立ち上がり、ナシカは目を閉じてもう一度、深く呼吸をした。

 そしてそのまま、まるで独り言のように、静かに歌い出す。



『空は青く、そして白い

 そして数多の星に満ちている

 私の若い心が

 数多の想いで満たされているように』



 そのメロディは素朴で美しく、しかしどこか仄暗い。

 声量は、普段の彼女が喋る声よりもずっと小さかった。けれども、不思議と響く歌声で、ヘゼルの心の臓までずんとしみ渡るようだった。



『私は他の人に語りはしない

 私の心の悲しみを

 暗い森と、明るい空だけが

 私の不安を知っている』



 短い歌だった。

 けれども彼女は歌い終わると、ひどく疲れ切ったように大きく息をつく。

 しばらくそのままじっとしていたが、やがてナシカは自分を奮い立たせるかのように、両手でぱんと自分の頬を叩いた。


「よし。……ごめんね、座ろう。

 話していいかな。これまでのことを。……何が、あったのかを」


 目を開いて、ナシカはふらつく足取りでテーブルに向かう。冷めてしまったお茶を一息に飲み干し、彼女は椅子にかけた。

 歌に聞き入っていたヘゼルは、はっと我に返ると、彼女に続いて椅子を引き座った。それを確認して、ナシカは穏やかな笑みを、ようやく何かから解放されたとでもいったような笑みを浮かべながら語り始める。


「最初は、一月くらい前かな。ウィエルに、私を指名したお客さんがやって来たの。別にそれ自体は、そこまで珍しくないんだけどね。ヘゼルもそうだったでしょう。

 一つ変わっていたのは。その人が全身を包帯で覆って、顔をも隠していたことだった」


 ぴくり、とヘゼルの指が勝手に反応する。刺青を隠すように全身を覆った服の下で、じわりと汗が滲んでいた。


「見た目でもしかしてと検討はついていたけど。その人の最初の依頼は、彼の全身の火傷やけどの傷を癒やすことだった。

 これは、いつも他のお客様にも処置しているような内容だし、特に問題なく滞りなく終わったんだけど。

 その後に、あの人は『本題がある』と切り出したの。多分、あの火傷を治させたのも、私の力量を計るためだったんだと思う」


 一呼吸ついてから、ナシカはヘゼルを真っ直ぐ見据えて告げる。


「あの人の望みは。

 『封印された神バルドルを解放して欲しい』というものだった」

「バル、ドル……!?」


 まだ、この短期間では忘れるべくもなかった。

 先だってナシカが演じた楽劇に登場した、悲劇の神。

 ロキにそそのかされたヘゼルにより、宿り木の矢に貫かれ、命を落とした神の名前だ。


「どういうことだ。バルドルは死んで冥界にいったはずじゃないのか。

 いや。そもそもが、神話の話だろう?」

「私も聞いたけど。バルドルはバルドルだ、けれども今のバルドルは死んではいない、封印されているだけだ、って言うばかりで、まっとうな答えは返ってこなかったよ」

「……封印」


 口の中で唸るようにヘゼルは呟き、考え込んだ。心なしか青白い顔色のヘゼルを横目に、ナシカは続ける。


「あの人が言うには。バルドルは、邪神の力により不当に封印されてしまっている。

だから、何としても自分が解放しなくちゃいけない。

 けれども封印を解くには、バルドルを拘束し続けている諸悪の根源の邪神……要するに、封印した術者をどうにかしないといけない。

 だから私のところに来たと言うの」

「……つまり、どうしろと?」

「私に」


 一旦、言葉を切ってから。

 ややあって、ナシカは努めて淡々と告げる。


「バルドルを封印した人を。

 音楽術で惑わして、心を殺せと言ってきた」


 さっと血の気が引いて胸が苦しくなり、思わずヘゼルは胸元を握りしめる。

至って静かにナシカから伝えられたそれは、それでもヘゼルの心を突いたようだった。


「……その、依頼は」

「当然、断ったよ」


 ヘゼルが皆まで言う前に、きっぱりとナシカは言った。


「まず、バルドルだの邪神だの、私の手に追える話じゃないってこと。

 音楽術は人を癒やすものであって、呪うものではないということ。

 それを除いたとしても、一方だけの話で、義憤にかられて術を使うわけにはいかないって。

 そしたら。相手は、何て言ったと思う?」


 疑問形で尋ねながら、しかしナシカはヘゼルの答えを待たず。

 すっと伏せがちの瞳で、代弁する。



――なぁんだ。残念、騙せなかったか。



 ぞくり、とヘゼルの腕に鳥肌が立った。

 今の言葉は、件の人物から直接、発せられたものではない。けれどもナシカから告げられたたった一言は、何故かいいようのない恐怖を彼に感じさせた。

 ヘゼルは痛いほどに、自分の腕に、刺青の巣食った皮膚に、爪を立てた。


「そして、あの人は立ち去り際にこう言い残した。

『あんたの大事な二人に、死の呪いをかけた。解いて欲しければ、バルドルを求めろ。

 邪神の心を殺すのが嫌ならば、他の方法でもいい、手段は問わない。

 バルドルを助けるための、楽器を求めろ。

 そして僕のいう通りに、バルドルを救っておくれ。巣食った呪いが、お仲間を食い殺さないうちに。

 逃げても足掻いても駄目だ。いつでも見張っているよ』

 ――と」


 ヘゼルは息を飲んだ。

 ティールとヒルドへ呪いをかけたその人物は、ただ吐き捨てた言葉すらも、まるで呪いそのものを投げかけているかのようだった。


「夜中、二人が寝入った時にこっそり呪いの形を確認したら、……本当にティールとヒルドには死の呪いが巣食っていた」


 ヘゼルは、ウィエルを訪れたときのことを思い出す。

 ナシカの演奏で、ヘゼルの腕からは緑色の細い植物のような影が立ち上った。呪いの形だというそれは、彼の呪いを可視化できるよう具現化させたものだ。


「僕のときと同じ術か」

「そうだよ。それで埋め込まれた場所と、おおまかな性質は理解できたんだ。

 けれど、呪いそのものはやっぱり解けなかったの。ヘゼルの時にも言ったように、呪いは音楽術の専門外だから。

 音楽術は基本、音楽を使って心に働きかける術だから。それ自体に意思が存在しない、呪いそのものには作用しにくいの。人の心が弱ったところにつけこむ呪いであれば打ち破れることもあるけれど、強力なものは、てんでだめだね。役立たずだった」


 珍しく、自嘲気味にナシカはこぼした。見慣れない彼女の沈んだ姿に動揺し、ヘゼルは慌てて話題を変える。


「しかし。そんな呪いがかけられていて、ウィエルの人間ですら、ナシカ以外は誰も気付かなかったのか」

「気付かないのが当たり前だよ。『死ぬその時までは一切異変が起こらない呪い』だもの。へゼルのとは違ってね。本人にも自覚は一切ない。

 けれども。それがかえって……ずっと恐ろしかった」


 言葉を切って、ナシカは黙り込む。

 へゼルにかけられた呪いは、刺青や痛み、悪夢という形で、日に日に彼を蝕んでいく。それらは当然、彼に苦しみをもたらし、決して日々に安寧を与えるものではない。


 けれども、行き着く先が『死』と分かっていながら、兆候すら一切を感じ取れないとしたら。

 徐々に進行する症状で時期を悟ることもできず、いつ唐突に崖下へ突き落とされるかしれない恐怖は、一時も気が休まらないものであっただろう。

 ましてその対象は自分ではなく、目の前で何も知らずに笑っている友人なのだ。


「……ナシカは、その状況で、ずっと演技をしていたのか」

「分からなかったでしょう? 旅路だけじゃない。その前にウィエルで、一ヶ月演じ続けたもの。流石に、ここまでの長期興行は生まれて初めてだったよ」


 少しばかりおどけた調子で言ってから、ナシカはため息をついた。


「最初は、私だけでどうにかできないかと思って、ウィエル中の文献をさらって、先輩の音楽術師にも聞きまわった。けれど辿り着いた結論は『現状では実質不可能』ということ。

 ――あの人の望み通り、力のある楽器を求めない限り。

 呪術師やウルズの民に依頼することも勿論、考えたよ。けれども迂闊に動くと、あの人に悟られる。どこで見られているかが、分からない。私が違和感なく動き回れる範囲には、誰も頼れる人がいなかった。

 ……音楽術師が住んでいるウィエルの近隣なんて、呪術師もウルズの民も根城にはしないんだよ」


 そこでナシカは顔をあげると。まっすぐにヘゼルを見つめた。


「だから、ヘゼルがウィエルに来たときはね。正直、願ってもないことだと思ったよ。あの人に悟られずにジーラ姉さんのところに来るもっともらしい理由がついたから。

 ……例えそれが、仕組まれていたことなのだとしても」


 最後に付け加えられた言葉に、ヘゼルは押し黙る。

 彼女の言う通りだった。楽器を求めに旅立つ間際、都合よくヘゼルはウィエルへ辿り着いた。しかも他の人間は村へ決して寄せ付けることのなかった中、たった一人だけ、だ。

 おまけにヘゼルとて、不可解な呪いがかけられている。偶然と言い切るには、あまりに出来すぎていた。

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