第23話 魔術の女神イシスとサマエル
古代のエジプトで農耕・牧畜が行われてくると初期王朝時代が始まる。現在では広大な砂漠地帯となっているナイル川周辺は、12,000年前頃から湿潤な時代に入った。アフリカ大陸でエジプトのすぐ南に位置する今のスーダン北部からエジプト南部の地域においては、植物が繁茂し小動物が生息していたが、やがて乾燥化が徐々に進行し始める。これに合わせて人々の生活環境も、年間を通して水が手に入るナイル川流域が中心となっていった。
「何だこれは」
緑の生い茂るナイル川河畔を進んで行くアイダたち。その先に木々の間から忽然と現れたのは、巨大な石灰岩に彫られた像である。但し顔だけなのだが、その高さは20メートルを優に超える巨大なものだった。石灰岩は石材として今でも一般的に使用されて、古くはエジプトのピラミッドにも使われている。
「顔だけを彫ってあるってどういうことだ?」
「ちょっと、この顔、どこかで見たような……」
「サマエルじゃないか」
「まさか」
その石像の顔は細く開けた目に特徴がある。人の顔は目で印象が変わる事は良く知られている。
「この目はサマエルにそっくりだろ」
「確かにそうだな」
「…………」
エジプトの神々はギリシャの神とは違い、どちらかといえば日本の八百万の神に似ている。様々な王朝や民族が新たに出てくると、前の信仰にとって代わり、次々と新しい神が人々の前に現れた。地域や時代によっては異なる呼称や神格を持ち、また多くの神々とさまざまな宗教や教義などが合体、融合を繰り返し変化してきた結果である。
ホルス神はその中で最も古く、最も偉大で多様化してきた神である。初期のホルスは太陽と月を両目に持つ天空神とされており、原住民の神と習合されてハルウェルという名の光の神となった。天空に浮かぶ月の神でもあり眼病を癒す神として信仰を集めた。
エジプトに現れたサマエルはホルスの顔だとする巨大な彫像を見て、自分の顔が民の信仰する神に特徴が似ている事に気づき利用する事を思いついた。顔の特徴に加えて呪文を駆使すれば、エジプトの民を惑わす事などサマエルには造作もない事である。
「儂の像がこのように放置されているのはどういうことなのだ」
「…………」
サマエルは出会った民に難癖をつけた。
「ホルスを祭るのは飽きたのか」
「…………!」
ちなみにこのホルスの顔を彫ったと言われる巨岩は、時代が下ると次々と別な顔に削り直されて、さらに胴体が加わると全く異なった石像スフィンクスとなる。
サマエルは出会った目の不自由な者の病を治してやろうと呪文をかけた。その男は目が見えるようになったと狂喜乱舞したが、それはサマエルが操っているに過ぎないただの演技である。サマエル自身の目が不自由なのにいい気なものだが、それでも奇跡を目にした者たちは驚き、その厳かな声を聞いたエジプトの民は驚愕した。伝説の神ホルスが目の前に現れたのである。瞬く間にエジプト中が大変な騒ぎとなり、時の為政者であるファラオにまで知らせが行った。
「なに、ホルスが現れただと」
古代エジプトにおいてホルスは王そのものであり、ファラオはホルスの化身、地上で生きる現人神で現世の統治者と捉えられている。ファラオは様々な神の名前を自分の即位名に組み込んでいった。ホルスも同時に様々な姿に変わった。まさにホルスとファラオは一体だったのである。 初期王朝時代のファラオはホルスの化身を名乗り、絶対的な権力を獲得していたのだ。
「何を馬鹿な事を言っている」
本当にホルス神が民の前に現れたとなれば、その化身だと名乗っている自分の存在はどうなるんだ。そんな話を信じられるわけがないだろう。だがそのように狼狽する半信半疑のファラオと違い、即座に別な反応を示したのは、傍らでファラオを補佐しているイシスであった。女神と称されているイシスは神殿が造られるなど、古代エジプトで最も崇拝された女神として古い起源を持っている。一方、強力な魔術師的存在としても描かれ、そのため魔術の女神ともされて、中世ヨーロッパでは魔女の元祖とされることもある。背中にトビの翼を持ち、頭部に牛の角と太陽円盤を持った女性としても表される。
またイシスは銛の名手でもある。大型の魚あるいはクジラなどの漁で用いられる槍のような漁具で、先端の金属部は獲物の肉に喰いこんで外れない釣り針のようなかえしがつく。北極地ではトグリング・ハープーンと呼ばれる獲物に突き刺さると先端部が回転して肉に食い込み、抜け難くなる銛が用いられていた。イシスのように残忍な武器として利用することもあり、歴史的にも槍と明確な区別が出来ない物も存在する。
しかしイシスは献身的な母や妻としても紹介されて、キリスト教の隆盛に伴ってマリア信仰に取って代わられ、イエスの母・マリアへの信仰の原型となった。エジプトにキリスト教が広まると、イシスの神殿は聖母マリアを祀る教会とされた。
現代では魔術、オカルト、癒し等で神聖なる女性性の復活の象徴、生殖と母性の女神、妻であり母であり癒しの女神等、女性をエンパワーメントする存在として人気を集めている。
「その現れたホルスとやらは今どこに居るの?」
イシスは周囲を取り巻く神官に聞いた。
「民に話し掛けながら、こちらに向かっているとの事で御座います」
「目の不自由な者を直ぐに治したと、大変な騒ぎです」
「…………」
イシスは宮殿を出ると単独でホルス(サマエル)と出会ったが、サマエルの邪悪な気を感じ取り、即座に偽者であると見抜く。だが事を荒立てず慎重にサマエルと話を進めた。この男は利用できるのではないか。うまくやれば自分がファラオにとって代わるチャンスであると。
イシスとサマエルは、互いの事情を知った上で共闘する事に同意する。サマエルにとってはファラオの地位などどうでもよく、興味もないものである。ただ神に復讐して好き勝手に世の中をかき乱せばそれでよかったのだ。
サマエルは、計略を用いて毒蛇をファラオ・ラーの居室である太陽の船へと潜り込ませる。それを実行したのがサマエルと組んだ女神イシスであった。その後ラーから聞き出した真の名前により言霊でファラオを操り、強大な魔法の力を得たサマエルはラーと同等の力を行使できるようになった。太陽神ラーと一体化してラー・アメンと呼ばれるようになる。ラーを守っていた軍神セトも仲間に引き入れた。セトは悪神であり粗暴な性格を持つ戦争を司る神であるが、その武力が外に向けられると軍隊の守護神となり軍神としての神格を持つ。
アイダたちの敵としてサマエル以外に、邪悪な女神のイシスと軍神セトが加わったのであった。
「アイダ、面倒な事態になってます」
「どうしたの」
風の悪魔少女レイラが深刻な表情でアイダに話している。
「サマエルはやはりここエジプトに来ているようですが、まずい事にイシスと共闘を始めるようです」
「イシスですって」
「はい、邪悪な魔女の起源とも伝わる女神で、その上軍神のセトも加わっているようです。3者が敵となれば恐ろしい状況です」
「…………」
風の悪魔少女レイラは、風の便りによる情報収集能力に優れている。早くもサマエルの近況を察知して皆に話して聞かせた。アイダ以下全員が神妙に聞いているのだが、その中に熾天使のセラムが居た。
「セラム、貴方はこの事態をどう思うか聞かせて」
アイダの問いかけである。しかし聞かれたセラムの口からは、皆が思ってもみなかった発言が飛び出した。
「今回の戦闘に私は参加出来ないかもしれません」
「えっ!」
「サマエルが本当にイシスやセトと共に向かって来るのであれば、私は神を相手にする事になります」
「…………」
世界が違い信仰が違っても神は神であるだろう。そのエジプトの民が慕う神々に熾天使であるセラムが戦いを挑む事には抵抗を感じるというのある。相手がサマエル1人なら戦う事に躊躇はしないが、エジプトで女神とされ、軍神とされるセトには矛先を向けられないと言うのである。
「…………」
セラムの話を聞いていた皆は黙ってしまう。あの魔王ベリアルとさえ対等に戦えたほどの強力なパワーを秘めたセラムである。そのセラムがここで共同戦線から離脱するという事は、アイダ側の戦力がほぼ半減するという事に等しいではないか。だが、
「セラムさんのおっしゃる事はもっともだわね……」
「アイダ……」
そのような事情なら加勢のお願いは出来ない、と言うアイダの発言を聞き、レイラも言葉が出なくなってしまった。確かに相手は邪悪だろうと何だろうと神なのだ。熾天使のセラムが神と戦うわけにはいかないのである。
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