第38話 オシリス
オシリスは戦いの神シスの策略により殺されて、その後不完全な復活から冥界の神とならざるをえなかった経緯がある。だが冥界に君臨してからは、それまでの穏やかだった性格が変わってしまったのだった。
「オシリス様」
「アリ王を連れてまいれ」
オシリスの前で首を垂れるアヌビスはキンイロジャッカルの頭を持ち、冥界の王であるオシリスを補佐している。死者を導き、天秤を用いてその罪を量る役目を担っている。
「…………」
命を受けたアヌビスは当惑気味にオシリスを見上げ、
「……しかし、あの者はまだ死んでおりません」
「これを使うのだ」
人は死後、冥界に座するオシリスの前に連れて行かれるが、その際に死者は悪霊や怪物に守られた洞窟を通過する必要があった。そこで登場する死者を妨害する存在は、巨大な刃物で武装しており、動物の頭である人であったり、様々な猛獣が合わされた、おぞましい外見のものである。これらを退けるための呪文が必要となり、これを唱えることでそれらを調伏させることが可能であった。
「生きながらミイラになるというのも面白いだろう」
オシリス自身も生きながら棺桶に閉じ込められて、ナイル河に流され殺された過去がある。アヌビスに渡された毒薬は、魔術で利用され人を仮死状態にするナス科の有毒植物から抽出されるものである。適量の投与により神経と筋肉を完全にマヒさせ、一時的な仮死状態を引き起こす。
「かしこまりました」
石造りの通路をアリ王の居室に向かうロクセラーナたちがいる。だが、
「えっ」
ロクセラーナの後ろからシャジャル、レイラと共に歩いていたアイダはすれ違う男に違和感を感じた。会釈をして通り過ぎたその者、見かけは普通の人間なのだが……
「レイラ、貴女も感じたでしょ、後を付けなさい。今すれ違ったあの者の正体をつかむのよ」
「分かりました」
風となって男の後を追ったレイラはすぐに戻ってきた。
「冥界の者でした」
「冥界ですって、何故アリ王の居室から……」
だがその後アリ王の様子を見ても特に気になる所は無い。結局戦闘が始まった際の協力を約束してアイダたちは帰る事になった。
ところが帰って行くアイダたちを追って、驚愕するような情報がもたらされた。
「アイダ様、今しがたアリ王が亡くなられました」
「えっ!」
オシリスに従う者たちの最も神聖な儀式は、神殿の奥で神官たちによってひそかに行なわれている。だが、実際のミイラ造りは、仰向けに寝かされた遺体の背中に沈んだ血液や体液を抽出し、脇腹を切り開いて内臓を取り出したり、鼻の穴から器具を入れて骨を砕き、脳味噌を掻き出す必要がある。そのような際の匂い対策の為、戸外の河岸に造られた河岸神殿で豊富な水を使い汚物を洗い流しながら行われる。ついでに言えば乱雑に掻き出した脳味噌は、大切に扱われる心臓と違い、ゴミのように捨てられた。人の心や精神、人格の全ては心臓に宿っていると考えられていたからだ。
そして人は死ぬと2日から3日で内臓が崩れ始めるから、ミイラを作る時は迅速に行う必要がある。最初に腐敗していく部位は胃や腸の消化器系で、本来は食べた物を消化する胃液等が、死後は自分の胃や腸そのものを溶かしてしまうからである。生命が失われた人の身体は、メルトダウンのように自ら崩れて行くのである。だから古代エジプト人が軽視していた脳と違って、内臓はあの世に持ってゆく大事な部位であるため、取り出した他の部位ごとに小さな瓶に入れてミイラと同じ部屋に埋葬される。
「アリ王の食事に毒が入れられたようです」
「アイダ、あの時の男が……」
「……レイラ、アリ王は本当に死んだのかしら」
「えっ」
「…………」
「アリ王の遺体は今日中に河岸神殿に送られるようです」
「そんなに早く?」
使者の言葉にアイダとレイラは互いを見合った。
「レイラ、すぐ調べて。アリ王の急死も、そんなに早く河岸神殿に送られるのも不自然だわ」
「分かりました」
レイラの調べで、やはりアリ王の鼓動はほんのわずかづつ動いている事が分かった。
「やっぱり仮死状態にされているようね」
「どうしましょう」
「じゃあ、アリ王の身体を運ぶ者達の後を付けて行きましょ。誰が神殿で待っているのか見てみるの。それで黒幕が分かるわ」
「…………」
アリ王の遺体を納めた棺は神官たちと共に、大勢の担ぎ手に担がれて河岸神殿に向かい歩み始めた。アイダはレイラの風に乗り、ワイナとトゥパック、キイロアナコンダ、ドラゴン・バーブガンは別行動でそっと後を付けて行く。
だが河岸神殿に到着したワイナたちは表門を守る衛兵に行く手を阻まれている。
「待て、部外者は此処を通す訳にはいかん。お前たちは何者だ」
ワイナの後ろから出て来た者が名乗った。
「儂はドラゴン・バーブガンである」
「――――!」
「我々に道をゆずられよ」
「ぷは、おい聞いたか」
「…………」
「この不細工な男がドラゴンだとよ」
バーブガンの少し可笑しな姿を、遠慮なくジロジロと見た守備兵達が笑い転げている。
「我々に道をゆずられよだと、お前がドラゴンならここで火を吹いてみろ」
仲間の茶化しに、男達はまた笑い出してしまった。
その時、神殿内では、
冥界でもないのに、キンイロジャッカルの頭を持つアヌビスのミイラ造りをテラスから見下ろしているのがオシリスである。脳や内臓を取り出す前段階で、香料を横たわるアリ王の身体全身に擦り込んでいる最中のアヌビスがいる。
「オシリスの首をみて」
アイダと共に風に乗り忍びこんだレイラは囁いた。
「首を……」
「あの首に掛かっているペンダントは護符の一種で、あれを取られたらオシリスの力が一時的に弱まると言われているんです」
「なるほど、貴女の情報力は助かるわ」
「私が隙を突いて奪い取りますから、後はアイダがやってください。もう外にはワイナたちも来ていて、騒ぎが起きたら駆け込んで来る手筈ずです」
「分かったわ」
オシリスのミイラのように巻かれた布の首から掛けているアンクと呼ばれる物は、生命の象徴として知られている。十字架に輪が付いたような形の護符で、楕円形の輪とその両端から伸びる縦線と横線からなっており、死者の復活や永遠の生命を象徴する重要なシンボルであった。
「んっ」
アヌビスの作業を見下ろしていたオシリスの周囲を一陣の風が走った直後である、
「アラカーーヴォアーー」
「うっ!」
突然巻き起こった風にペンダントを奪い取られたオシリスの顔が呪文に襲われたのである。目を閉じてよろめくオシリスが叫ぶ、
「衛兵!」
その後の騒ぎは神殿の外にまで聞こえた。
「始まったな」
バーブガンがまだ笑っている守備兵達に向かって、
「ではお望み通り、火を吹いて進ぜよう」
これで至近距離から炎を浴びたかわいそうな男達は黒焦げとなった。ワイナたちが神殿内に入るとたちまち衛兵に囲まれ斬り合いが始まる。
「トゥパック、アリ王を運んで」
「よっしゃ」
ゴリラのトゥパックがアリ王の身体を担ぎ走り出した。集まった衛兵達は瞬く間に切り伏せられて、神官達は無駄に騒ぐばかりである。
「オシリスの目はじきに回復するわ、此処に長居は無用よ、急いで」
無事救出されたアリ王は主治医が処方する薬で徐々に回復するはずである。
「でもこれで冥界を支配するオシリス神を怒らせてしまったわね、これからが大変よ」
だが、その発言が有った直後である、
「えっ」
アイダとレイラが身構えた。皆の前に背中にトビの翼を持つ女神が天から降り立つように姿を現したではないか。それを見たレイラが眼をみはった。
「貴女は!」
「また会ったわね」
現れたのは以前サマエルと争った際、風の悪魔少女レイラが対決した、魔術や復活を象徴するイシス神であった。
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