第37話 女奴隷ロクセラーナ
「マリ王の側室になった女奴隷の話を知っている?」
アイダたち皆と共に道を行くレイラが、興味深い話を始めた。
「アリ王の所にやってきた女奴隷の話で、モルドバの戦場で捕えられたロクセラーナっていう名前の女性なの。奴隷商人が買い取っていたんだけど、最終的にはアリ王に献上された女性よ」
「…………」
「ところがその後、女性は知略の限りを尽くしてハレムでの競争を勝ち抜き、アリ王お気に入りの側室にまで成り上がったわけ。でも発揮した能力というのが普通ではなく、なんでもその不可思議な行動から、彼女が魔術を使ったという噂まで流れているわ」
「不可思議な能力を持ち行動する女性?」
「人間ではないの?」
アイダも興味を持ち聞いてきた。
「でも精霊界の者とかではなく、人間なんだけど不思議な行動をするらしいのよ」
レイラの説明を聞いていたアイダは、シャジャルの横顔をちらっと見た。
シャジャルに転生している結翔は、そんなアイダの視線を感じながら、そのロクセラーナという女性にやはり興味を持った。しかし、特別な理由もないのに会いに行けるわけもなく日々が過ぎたのだが、事態は急展開を迎え、
「アイダ、アリ王からまた緊急の知らせです」
使者の伝言は、野望を抱くアイバク王の指揮するエジプト軍が再びアリ王国に攻め込んで来るようなので、助けて欲しいという事だった。聞いたアイダは軽くため息をつくと、
「だけどアリ王には以前も言ってありますが、精霊界の者が何の意味も無く人間界の戦いに関わる事は出来ないんです」
「ですが、今回の出陣にはオシリスが関与しているらしいのです」
「オシリスですって!」
女神イシスなどの反対を押し切り、オシリスがこの戦いに手を借すというのである。エジプトでの冥界の神であるオシリスは、大地の神ゲブを父に、天空の女神ヌトを母に持つ神なのだ。以前アイダたちと戦った、豊穣の女神イシスと戦いの神セトはオシリスの弟妹になる。 長く白い衣装をまとって王冠をかぶり、体をミイラのように包帯で巻いているというオシリス神。冥界を支配する裁判官であり、死に対する絶対的な権力を握っている。破壊と死をもたらす無闇な戦争には反対である豊穣の女神イシスも、粗暴な長兄にはうかつに反抗出来ないようだ。
「分かったわ。アリ王に会って直接話を聞いてみましょう」
「ありがとうございます」
古代エジプトの人々にとって死は新たな人生への始まりであった。ファラオもまた死後は復活できると信じている。死後の世界はドゥアトと呼ばれ、この世と同じ生活を送るためには、遺体をミイラ化することが必要と考えられていた。そして死者が冥界を通過するためには幾多の試練を受けねばならず、それを無事に通過する為の呪文、死者の書が書かれた。しばしば魔法のように呼ばれる非公開の儀式は、神官達にとって神聖な儀式であり、それらを司るエジプトの王権は、当初は神々の間で起こり、後に人間のファラオに渡されたとされる。
アイバク王も豪華な祭壇を設け、死者への神懸かりな儀式からオシリス神に近づいた。儀式で使われる死者の書は魔術書であった。たとえ、それが神々を謀るものであっても、古代エジプトにおいて魔術は神々への祈祷と同じくらいに正当な行為である。実際、古代エジプト人にとって魔術と宗教の実践に区別はほとんどなかった。
「アリ王」
「アイダさん、来ていただいて感謝いたします」
アリ王国に来る事が出来た結翔、つまりシャジャルは噂の側室との出会いを待ち望んでいた。もちろん結翔の願いを承知しているからなのだが、もしかしたらその側室には王妃さまが転生しているのではないか。これはわずかな期待であった。
アリ王との会見の後、シャジャルはロクセラーナも居ると思われるハレムに招かれた。
「私たちはハレムに招かれました」
「……えっ」
ハレムは言わずと知れた男子禁制の間である。王以外の男性は宦官以外立ち入ることが出来ない。だがシャジャルの中に誰が居ようと、外見は勿論、正真正銘の女性であるから恐れる必要はない。
だが……
「貴女がシャジャルさんね」
「貴女は」
「私はロクセラーナといいます」
ハレムに入ると、シャジャルの前にいきなり目的の人物ロクセラーナが現れた。
「貴女がロクセラーナさん」
「はい、ご存じでしたか?」
ハレムでは十人ほどの着飾った女性たちがアイダ、レイラ、シャジャルを迎えた。誰もベールなどは被っていない。ワイナたちは別なエリアに控えている。
「どうぞお座りになって」
シャジャルたちが通されたそこはイスラム風の洋間なのだが、椅子や机等の調度品類はほとんど無く、ソファーに似た物が壁際にしつらえてある。豪華なハレムというより只の広間といった感じである。ハレムとはイスラム社会で女性の居室のことをさし、そこで女たちは刺繍をしたりして過ごしている。決して裸などではない。
そのハレムであるが、西洋諸国などで男達の願望からか間違って広まった伝聞がある。全裸の女性たちが床にはべっている、というような破廉恥なイメージは、イスラムの厳格な教えからは程遠いものであった。国によって解釈や実施される規則は少しづつ違うのだが、原則イスラム社会では客人といえども、男女は別の部屋に通される。街中でする食事ですら、夫婦でない限り別々の部屋なのだ。未婚の男女が同室する事は、たとえ食事であっても許されない。
ハレムで出された食事は床にカーペットを敷いてその上に並べられ、周囲に皆が座り、背後から女奴隷が給仕をして回る。
「お話はかねがね伺っておりました」
シャジャルは笑みを浮かべて話し掛けた。相手は緑色の華やかな衣装を身に着け、肌が殊の外白いロクセラーナである。
「私に関するものでしたら、どのようなお話でしょう。差し支えなければお聞かせ下さい」
明らかに西洋人の血が色濃く混じっている優雅な容貌と仕草のロクセラーナは、そう言って静かにシャジャルの顔を見つめた。見つめられるシャジャルは黒い目をして、テュルク系あるいはアルメニア系の出身と思われる。勇猛な遊牧民族の血がそうさせるのか、理知的で美しい容貌なのにどこか野性味を感じる顔立ちである。決して腰に剣を携えているせいではないだろう。もちろんその剣はハレムに入る時に女官に渡している。
「何かとても不思議な能力をお持ちだとか……」
聞いたロクセラーナは心持ち身を引くと、
「ふっふっふっ、私は魔法使いなどではありませんよ」
「あっ、いえ、そのような意味で申し上げたのではありません」
シャジャルは短期間といえども、隣のイスラム国で統治者の地位に在った事はロクセラーナも承知している。そのロクセラーナ自身もアリ王に寵愛され、限りなく王権に近い側室であったから、2人はこの場の会話をリードしていた。
「ただ、貴女には何か特別な秘密があるのではと……」
「…………」
ロクセラーナとシャジャル、共に見つめ合う瞳の奥に隠れている者を探り合う形となると、シャジャルが意を決したように話し掛けた。
「もしや、貴女も――」
「ロクセラーナさま、アリ王がお呼びです」
ロクセラーナの付き人が声を掛けてきたのだが、一緒にハレムを出るシャジャルの横顔に、それまでづっと黙っていたアイダの視線が止まった。
「シャジャル、貴方は私たちに何か隠している事が有るんじゃないの?」
「…………!」
「貴女とあのロクセラーナさんとは同じ不思議なものを感じるわ」
エジプトの王宮で、禍々しい祭壇にひざまずき首を垂れる王が居る。
やがて地底から湧き上がるような声が響いてくる。
「アイバク王よ、わが祭壇に血が足りぬではないか」
「オシリス様……」
「血だ、血で我が祭壇を満たせ」
アイバクは腰の剣を引き抜くと、自らの手のひらを切り、血を滴らせ掲げた。
「この我が血に誓って、貴方様の祭壇を赤く染めてごらんに上げましょう」
すぐさま数人の囚人が連れて来られて、祭壇の前で首を落とされ、心臓が取り出され生殖器も切り取られた。ペニスは子孫を残す為の象徴であり、特に戦で捕えた敵の場合、斬り取ってしまえばその者の来世は無いと言う事である。
「今はこの者達の血と心臓でお許しください。戦闘になれば、この祭壇は更なる血で満たされるでしょう」
エジプトで 人の知性や記憶を宿すと考えられていた心臓は重要視され、実際に何かあった場合を想定して、スペアの心臓を表す宝石が副葬品として埋葬される。心臓は、死者の真実を知っており、生前に罪があると心臓の方に天秤が傾く。この場合、アメミットという怪物に心臓を食べられて魂が消滅し、これを防ぐための呪文があり、生前に罪があっても天秤は釣り合い、オシリスに死後の世界での生活を許されるとされている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます