第26話 アリと呼ばれる男


 ノマデスはエジプト周辺、北アフリカで半遊牧生活を送る集団のことを差す言葉である。砂漠に生きる寡黙な人々で、古い歴史と文化を持ち、厳格な戒律のもとに生きている。世界から忘れられたようなこの辺境の地に、悪夢とも思える影を落とす宿命を憂う1人の男が居た。

 腰に刀を差し、締まった体つきの男がひざまづいている。

 前を見つめるまなざしから、強い意志を内に秘めている事が伺える。

 男は太陽、星、月に関わる土着の神に、自分を王にして欲しいと願った。

 神は人がまだ見ぬ妖精を連れて来ることが出来たら、お前を王にしてやろうと言った。

 男は腰から刀を抜くと、祈願の言葉を口に、ニワトリの首を次々と切り落とす。

 祭壇はおびただしい羽根で埋め尽くされる。

 辺り一面に生贄の流した血がドス黒い跡となり流れている。

 大量のロウソクがこぼれた跡には霊気までもが漂う。

 儀式を終えた男は地面にひれ伏し最上級の礼をして下がった。後はまだ人の見ぬ妖精を探すだけである。






 エジプトを発ってこの地にやって来たサマエルは強い邪気に引かれ、その祭壇を見て男の願いを聞く、


「人の見ぬ妖精なら何処にいるか、おれが知っているぞ」

「おう!」


 男は歓喜し、地酒でサマエルを歓待しようとする、


「その妖精はやがてこの地にやって来るだろう」

「…………」


 サマエルは男にばれないように、唾を混ぜて醸造しただろう地酒を吐き出すと、


「但し、取り巻きが何人もいるからな、襲うには作戦が必要だ。それに連中は怪しげな妖術を使う」


 妖精に取り巻きが居たり、妖術を使うとかそれこそ怪しい話なのだが、男は全く疑うそぶりはない。この地で怪しげな妖術などありふれたものであるからだ。






「近くにサマエルが潜伏しているようです」


 風の悪魔少女レイラの情報から、アイダたちはサマエルを探し出したのだが、先に見知らぬ男が現れた。


「待て」

「…………」

「お前は妖精か?」


 男はサマエルから聞かされていた特徴にあった、子犬を連れたレイラに向かって話し掛けた。


「私が妖精かですって」

「そうだ」

「いきなり貴方は何なの?」


 レイラは無視しようかとも思ったが、自分の事を妖精かと聞いて来るとは、何か事情が有るのだろう。


「今は違うけど……」


 レイラの戸惑いはもっともである。自分のそんな事情を知っているらしいこの男は誰なのか。さすがのレイラもこの状況を測りかねていた。


「貴方は一体誰なの?」

「おれはお前を連れて行き、王になる」

「はっ?」


 他の皆は事の成り行きを興味深げに見守っているだけであるが、アイダがレイラに話しかける。


「レイラ、この人には何か訳がありそうね」

「詳しい話を聞かせて頂戴。場合によってはついて行ってあげてもいいわ」


 男はサマエルに会うまでのいきさつを話し、


「その後、おれはあの者に会った。だからおれが王になるにはお前が必要と言う訳だ」

「なるほど、サマエルがね……」

「フン、やはり用は足せなかったか」


 後ろからいつものように、ぬらりとサマエルが現れた。


「サマエル!」


 全員が身構えた。サマエルは男を見ると、


「なぜおれの言ったようにしない。王になるだと、捨て駒くらいにはなるかと思ったが、お前はなんの足しにもならなかったな」

「……妖精を連れてゆく前に、説明をしなければならないのだ」

「やれやれ無駄手間であったか、邪魔だ、どけ、アラカーシャー」

「ウッーー!」


 男の身体が弾け飛ぶと、アイダがサマエルを睨んだ。


「貴方は誰でも利用するのね」

「フッフッフッ、それが当てはまるのはおれだけでは無いだろう。そこの小娘にはひどい目にあったが、あれはお前の実力ではない……、違うか?」


 サマエルはじろりとレイラを見やった。


「…………」

「返事が無い所を見ると、図星だな。多分今のお前にあんな力は無い」

「…………」

「もうお前たちと付き合うのは飽きた、これが最後だ!」


 セマエルは両手を前に出した。


「アラカザーー、アラカザンヴーー、トシャザムスヴァーハー」

「アラカザンヴォアラホートシャザムスヴァー」

「アラカーー、シャーーヴォアーーシャザムスヴァーハースヴァーハー」


 サマエルに対してアイダ、レイラと双方から呪文攻撃の応酬が始まったが、その直後、


「よくもおれを騙してくれたな」


 サマエルの背後から男の刀が突き出された。胸まで貫いた刀に血が滴っている。


「ガッ!」


 それはサマエルの死角から現れた突然の刃であった。今度は前からワイナとキイロアナコンダ、トゥパックの剣がサマエルの身体に深々と突き刺さった。


「グッーー」


 サマエルは更なる呪文を出そうと手を前にしたが、


「アーー……、シャ……シャザ……ーハー……ヴァ……」


 震える手で何度試みようとも呪文にならない。やがてその声も出なくなり、ゆっくり身体を折るようにくずれ落ちた。






 その後、男は仲間を集めてリーダーとなり、次第に勢力を増やし地域の統一を目指す。やがて現在のアルジェリアとリビアの間辺りに国を興して、初代の王となるのだが、それはまだ先の話である。

 周囲に山と呼べるようなものは無く、ただ荒涼とした砂漠がどこまでも続く今はチュニジアとなっているその地で、いまだ男の名は知られていない。仲間からはアリと呼ばれていた。


「私はこの土地の勢力を統一して国を興したいのです」

「…………」


 アイダたちの非凡な力を見た男は確信した。この方々は神にも準ずる存在なのではないか。男は片膝を折って地に付け、首を垂れてアイダに願い出た。自分の意思を達成する手助けをして欲しいと。


「……貴方は統一と言うけれど、見たところ此処はそんなに荒れた様子もなく、人々は平和に暮らしているのではないですか。事を荒立てて統一などと余計な事では?」


 アイダのもっともな疑問である。


「いえ、他の土地の方からすれば平和に見えるかもしれませんが、今この地を簒奪している者は横暴をきわめ、連中が来襲すれば住民は悲惨な目にあいます」

「…………」

「今は戦火に晒されていないというだけで、逆らえばそれ以上の目にあいます。命の保証など無いという点では同じ事なのです」

「もしかして貴方の言うその者達とは……」


 風の情報を得ているレイラはピンときた。


「海賊です」

「やっぱり」

「私は奴らに対抗する勢力を有する国を創りたいのです」


 北アフリカの地中海沿岸地域は、ベルベル人が住んでいるので、ヨーロッパではバーバリ(バルバリア)海岸と呼ばれていた。そこを根拠地とした極悪非道な簒奪者集団が、バルバリアの海賊である。

 その略奪行為の主な活動領域は西地中海だった。船舶を捕獲することに加え、主に海岸にある町や村を襲う略奪を古くから行ってきた歴史がある。その攻撃の主目的は北アフリカや中東での市場に送る奴隷を捕まえることだった。アフリカの住人よりも、肌が白いヨーロッパ人の方が高く売れた。だからイベリア半島からイタリアまでの海岸がよく標的になったのである。

 ムスリムであった海賊の歴史は古く、9世紀には既にその名が知られている。地中海の沿岸を襲い、時には内陸部まで侵入して奴隷狩りを行う手段は残忍なものだった。町を破壊し、逆らう住民を虐殺し、生存者をイスタンブールに奴隷として送った。海賊の脅威は深刻だったので海岸沿いでは人が住まなくなった町や村も有る。

 海賊がやって来ると、海岸を監視していた者から住民に逃げるよう指示が出されて、また海賊と闘うために地元民兵を集める事もあったが、海賊はいつ襲って来るか分からず、急襲に武力での対抗は難しかった。何故なら有効な対抗勢力と呼べるまとまった集団など無かったからである。

 海賊は若い男女と健康状態の良い者のみを捕虜にした。抵抗する者は殺され、老人も同じように殺された。捕虜たちのある者はガレー船のオールに鎖で繋がれる。奴隷として捕獲されることは、悪夢の始まりに過ぎない。多くの者は長い航海の間に、病気や、食料・水の不足のために船中で死に海に捨てられた。生き残った者は競売に向かう道中で見世物になる。それでもガレー船の奴隷が耐えなければならなかった条件よりはるかにましだった。

 ガレー船は大半の期間が海上にあり、鎖で拘束された男達は何年も薄暗い船内で生きた。1本のオールに5人ないし6人繋がれた漕ぎ手は足枷を付けられ、夜はそのまま眠り、食事は得体のしれない物を椀に入れて渡され、それでも皆手づかみでむさぼり喰う。大小便はその場で座ったまま行い、たまに海水を注がれて、汚物は奴隷自ら手で汲み取り桶に入れて外に捨てられる。耐え難い悪臭の漂う船内である。体力の尽きた者は容赦なく海に捨てられ、やっと自由になれる。捕らえられた時に身に着けていた衣服などはとっくに用をなさなくなって、ほとんど皆ぼろをまとうだけの裸である。

 めったにないが、船に乗っていない時は陸上で厳しい肉体労働をさせられる事もあった。塩の採掘である。サハラ砂漠の南側の地には中世のころからイスラーム王国が栄えた。王国の繁栄を支えたのは豊富な金であった。だが経済的にいくら栄えても、決定的な物が乏しかった。それは塩であり、人間の生存に欠かせない食料である。砂漠からは岩塩が採掘される場所があり、9世紀ころから、黒人のガーナ王国では金とサハラ砂漠の塩が大規模に交換されるのだが、塩が金より優位に立っていた。

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