閑話 本物の聖女
笑ってしまうほどの資金が貧民街に投入されたことにより、そこに暮らす人々が次々と社会復帰する。
ということにはならなかった。
せっかく建設された職業訓練学校に通うものはごく一部で、ほとんどの貧民はもらった給付金を片手に賭場や酒場に駆け込み、短時日のうちに使い切ってしまったのである。
自分の身になることには、まったく使われなかった。
そしてまた極貧の生活に戻る。
見かねた聖女メイファスが国王に援助を頼み込み、ふたたび支援の手が差し伸べられることになったが、結果は同じだった。
生活を再建するようにと配られた金は、酒、煙草、賭博に消えていく。
それでもメイファスは諦めなかった。
スラムの人々が必ず立ち直ってくれると信じ続けた。
しかし、三度目の支援がおこなわれると、平民たちからの不満が噴出する。
働きもせず賭場に通うような連中のために自分たちの納めた税金を使うな、と。
これに聖女メイファスは怒った。
スラムの人々は働きたくても働く場所がない。スラム出身というだけで仕事ももらえない。
それなのに、ちゃんと仕事を持ち、日々の暮らしに困ることのない人々が、なんと無情なことを言うのか、と。
「うん。やっぱりこうなったか」
日々荒廃の色を強める聖都の光景を執務室の窓から眺め、左大臣マーチスは呟いた。
メイファスにとって救うべき最優先はスラムに生きる人々。
これは判りやすい構図だし、社会の最底辺の人々を救うというのは大変に意義のある行為である。
しかし、と、マーチスは思う。
本当の意味で国を支えているのは貧民街の連中ではない。王宮に集う着飾った貴族でもない。
豊かなわけでもなく、かといって食えないほどには貧しくもない、膨大な数の「普通の」人々なのだ。
彼らを無視した救済などありえない。
「聖女様には、仕事があって給料がもらえるというだけで、特権階級に見えてしまうのでしょうな」
右後方に立った補佐官が悪意の抑揚を言葉に込める。
彼女からみると平民は一緒くただ。
何十人もの使用人を抱える商会の主も、日々の生活がやっとの雇われ人も、仕事のある幸せな人、というカテゴリに入ってしまうのである。
「どんな思いで、彼らが租税を納めてくれているか、考えたこともないのでしょう」
少しでも国が良くなるように、自分の子供や孫たちがひどい生活を送らなくて済むように。
そういう思いを託されたのが税なのである。
無駄に使って良いものでは絶対にない。
「仕方がないさ、ジョンズ。メイファス様は底におられた方。けっして豊かではない庶民がおこなう、子供のためのささやかな誕生パーティーすら嫉妬の対象だったのだろう」
だから、聖女として活動を始める前に充分な教育を与えるべきだったのだ。
ユイナールのように代々聖女として生きてきたわけではない。自分の役割をきちんと理解もしていない。
突如として与えられた国を動かすほどの力を、使ってみたくて仕方ない子供なのである。
しかも主観的には、世のために人のためにやっているのだ。
それに異を唱えるというのは、とんでもないわがままや自分勝手に見えるのだろう。
「平民たちによる貧民の襲撃事件が増えるばかりです」
「最悪だな」
「さらに」
「職業訓練を終えた貧民を受け入れる商家も工房も、ひとつもない。だろ?」
「すでに報告がありましたか」
「読んだだけだよ。ジョンズ」
ほろ苦い表情の大臣である。
人間というのは、貧乏にはそれなりに耐えられる。しかし、不公平は我慢できないものなのだ。
昼間から酒を食らい、賭場に出入りし、働いてもいないくせに国から金がもらえる連中のことを手放しで歓迎できる人間などそうそういない。
真面目に職業訓練を受けた人は、そういう連中とは一線を画するだろうが、外からみたら全員一緒だ。
「ちなみに、赤の軍の連中は取り締まりに消極的です」
「だろうな」
赤の軍というのは聖都の防衛と治安維持を主たる任務としている常備軍である。構成員一万のうち平民出身者が九割以上を占めているから、このような事態で貧民を守る方向にはいかないだろう。
そもそも彼らが守るべきは税を納めている国民たちであって、納税すらしていない貧民ではない。
治安維持の観点から、一応は巡回の強化くらいはするだろうが。
「このままでは、聖女の名声は地に落ちてしまいます」
「あるいはそれこそが時代の流れなのかもしれないがね」
本物の聖女がいたからこそ生まれた聖女という偶像。
それを終わらせるのは、やはり本物の聖女。
もう聖女なんかいらない、と、国民たちが思うきっかけを作るために現れたのかもしれない。
そんなことまで考えてしまうマーチスだった。
「もちろんそんなわけはありません。コロナドから書簡が届いています。中にはユイナールの意見も添えられておりました」
そういってジョンズがぶ厚い封筒を差し出す。
受け取ったマーチスは懐かしそうに目を細めた。
ユイナールが聖都を退去して、もう二ヶ月以上になる。
王宮を去ってからなら三ヶ月にもなるだろうか。
本当に、あの愛すべき俗物が懐かしい。
「辺塞寧日なし、とな」
しかし、書簡の内容は懐かしさなど吹き飛ばすほどに深刻だった。
連日に及ぶ魔物の襲撃。
おそらくは魔王復活の兆候であろう、と。
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