第2章 探索 9 彦佐

 翌朝、午前六時前。ソファーで寝ていた稲水をハルが叩きおこした。午後に出かけると聞いていので稲水は油断していたようである。

「なんだよ……ハル?」

「今、アルミホイルで五重に包んだが、実はひとつ盗聴器を残しておいた」

「え?」

 がばっと体をおこす、まだ寝ぼけまなこの稲水。彼に小さなおにぎりのようなアルミホイルの塊を見せるハル。ホテルの人間に頼むと蛮夫にもらされる恐れがあるため、早朝にコンビニで買ってきたのだそうだ。

「昨日は彦佐ひこざに、いや蛮夫に先を越されたが今日はそうはいかない」

「彦佐? それが奴の名前か」

「ああ。そして奴が私に堂島の死体を見せつけるつもりならば、午前中の診察終了間際が狙われる確率が高い。もしかしたら看護師や患者までが巻きぞえを食らう恐れまである。それはなんとしても阻止したい」

「それで、今度はこっちが先まわりか」

「そうだ。どっちがヴァンプとして格上かを教えてやる」

 どこかムキになっているかのようにアルミホイルを握りしめるハル。

「堂島が犯人かどうかも頼むよ。この件がすんだら兄さんも捜したいし」

「当然だ。本末転倒はしない。よし稲水、すぐに出かけるぞ」

「顔を洗ってくる」

「うむ。アルミホイルをはがして盗聴器を元の場所へともどす。もう室内ではしゃべるな」

「了解だ」

 どのホテルマンが蛮夫の内通者なのかが不明なため、ふたりは広いロビーやフロントの前を通ることなく裏口というべきか、薄暗い地下のボイラー室から外部へと出た。百年以上ホテルニュー帝円を利用し、内部構造を熟知しているハルには簡単な芸当であった。盗聴者は、まだふたりが眠っていると考えることだろう。駐車場もスルーした。車を出せばハルたちが抜けだしたことがバレるからである。

「ハル、電車で行くか? その方が早いかもしれない」

「バカいえ。ヴァンプが通勤時間帯の満員電車になど乗れるか」

「まだ七時前だし、満員ではないと思うよ。蛮夫のせいで」

「ハイヤーだ。道だってすいている。運転手に急がせれば電車より早い」

「ハイヤーって予約制だろ? だったらタクシーだろ」

「一ノ宮春乃をなめるな。電話一本で迎えにこさせる」

「ああ。そういうことね」

 大富豪の令嬢設定であるハルには、御用達のハイヤー会社でもあるのであろう。そしてハルの言葉のとおり三十分もしないうちに黒塗りの最高級セダンが待ち合わせのオープンカフェへとやってきた。早朝から営業していたカフェで朝食をとっていたふたりが乗りこむと、セダンは音も静かに動きはじめる。行き先はすでに電話で伝えてあった。教育がいきとどいているらしき運転手はよけいな無駄口を叩くことなく、スピードを上げ、ガラガラの甲州街道を百キロ近い速度で疾走する。スピード違反で止められるんじゃないかと稲水が心配するほどに。

「稲水、案ずる必要はない。今や交機も蛮夫捜索に駆りだされている。残念ながら捜し出したところで殺されるのがオチだがな」

 あははと笑うハルだが、もちろん笑いごとではない。運転手は運転手で警察が検問を実施していそうなポイントを避け、交通監視カメラが設置されている場所も把握しているようで、巧みに速度を調整しながらセダンを走らせていた。さすがは一流をむねとするヴァンプ御用達のハイヤーであると稲水は舌を巻くしかなかった。

 やがて環状七号線から車は青梅街道へと移動した。裏道などを使う必要がないほどに道はガラガラであった。高円寺をすぎ、ほどなく阿佐ヶ谷のあたりまで一直線である。

 阿佐ヶ谷駅前にはそれなりに通勤者や学生の姿があった。いくらテレワークが発達しようと、蛮夫の脅威に恐れをなそうと、出勤しなければ生活できない労働者、リモート環境を整えられない学校も存在するのである。そして特に若者は政府や警察による不要不急の外出禁止の呼びかけにいいかげん辟易へきえきとしていた。ここ数カ月は蛮夫による殺人事件も減少傾向にあることも大きいだろう。蛮夫の出現から一年がすぎ、なれというか気のゆるみが出はじめたのかもしれない。

「最初の二、三カ月は奴も空腹がおさえられなかったんだ。そりゃそうだ、一九二〇年あたりから私の蠱惑で強力な暗示をかけて眠らせていたのだから。しかしあいつもバカじゃない。いちいち騒動を起こして逃亡することが面倒になったのだろうな。だが奴はやってるよ。今も目立たぬように何人も喰ってるに違いない」

 それがハイヤー到着前にカフェで語ったハルの見解であったが、一般庶民にそんな事実が伝わるはずもなかった。どんな暗示をかけたのかと稲水がたずねるとハルは苦笑いで答えた。

「誰かにおこされるまで、この地で眠れとな。甘かったよ、まさか百年がすぎて掘りだされるなんてな」

「蠱惑はそんな暗示もかけられるのか。今度かけるなら人を喰うなとでもしておけよ」

「そうだな。だがそれは無理だ。ヴァンプにとって人肉食は生命線、それを止めれば狂ったような禁断症状に陥るか死ぬ。せいぜい眠らせるぐらいしかできなかった」

「催眠術で人を自殺させるのが無理って話と同じか」

「それは相手の精神状態と催眠過程の問題だと思うが、まあそんなようなものだ。そうだ、私も遠い昔、自分に自己暗示をかけたことで年間ひとりだけを喰うようになれたんだった」

「自己暗示? ヴァンプはそんな真似までできるのか」

「ああ。すごいだろ?」

「すごいけど、だったら彦佐にもそれをかけろよ」

「あいつは私と違い殺戮さつりくに喜びを見いだしていた、いわば本能だ。本能を蠱惑でくつがえすことは難しい」

「できるだろ、ハルなら。奴を百年も眠らせたんじゃないか」

「できる子みたいにいうな。睡眠は一種の本能、だから可能だったのだ」

「わかるような、わからないようなだな」 

「もういい。あいつは私が始末する。必ずこの手でな」

 そんな今朝の会話について稲水が思いをめぐらせていると車が停車した。時刻はまだ七時二十三分、三十分もかからず北阿佐ヶ谷の堂島医院に到着したのだ。

「ご苦労だったな。ご苦労ついでに帰りも送ってほしい。どこかそのあたりで待機していてくれないか。むろん待機分も料金は支払う」

 ハルがいうと運転手は、かしこまりましたと返事をし、わざわざ車外へ出てドアを開いてくれた。機械的な自動開閉もできるだろうに。律義な男なのであろう。

「まだだいぶ早いな。稲水、病院の開業は何時だ?」

 運転手がセダンで去ったあと、手首にからみつく蛇を思わせる形のレディスォッチを、ハルが見てつぶやく。

「確か九時半だったな」

「おいおい、あと二時間もあるぞ! そんなに立ったままで待つのか! どうしてくれるんだ!」

 稲水のスーツの襟をつかみ、胸ぐらを持ちあげるハル。稲水の体が剛腕で浮きあがる。あんたが六時前に叩きおこしたんだろが!といいたいのを懸命にこらえる稲水。

「患者のカルテとかレントゲンとか、開業準備もあるだろうから二時間も待たずに来るよ。堂島はさ」

「本当だろうな」

「いや……知らんけど」

「稲水てめぇ、いいかげんなことを!」

「立ってるのが嫌ならあの運転手を呼びもどせよ。車ですわって待てばいいだろ」

 手足をジタバタと動かす稲水。

「あれは仕事を的確にこなすいい運転手だ。いつ彦佐、あの蛮夫が現れるかもしれない状況に巻きこめるか。死なれでもしたら帰りに送ってもらえないだろが!」

「わがまま女だな!」

「稲水、今すぐ喰うぞ。なんせおまえは私の捕食対象なんだからな」

「今の俺は、そんなにうまくない。むしろまずいよ、俺の血肉はさ」

 ちっ、と舌を打ったハルは、稲水を持ちあげていた右手を離した。

「稲水」

「なんだよ!」

「相棒だとはいったが、おまえ、なれなれしくなりすぎてないか?」

「ああ……そうか、そうだよな。かもしれない。以後、気をつけるよ」

「わかればいい。図に乗るんじゃない、ヴァンプを甘く見るな。常に敬意と畏怖を持って接しろ。それを忘れるな」

 初めてハルと出会った時の畏怖、というよりも恐怖を胸元に突きつけられたような稲水は、ひとつ大きくうなずいた。敬意は決して持てないが。

「はい、わかりました。一歩、距離をおくことにしますから、どうかお許しください」

 営業時代の職業病でも出たのか、仕事でしくじった時のように物理的に一歩下がり、姿勢を正し九十度に腰を折る稲水。今やハルなしでは朝子を殺した犯人を特定するのは不可能。あの誠実な運転手と同じように使用人に徹するほかに道はないらしい。

「おい、誰が距離をおけといった」

「はい?」

「敬語も使うなといっただろ! おまえ、マジで殺したい」

「…………」

 このクソビッチ! 稲水は、浮気三昧で、自由奔放でありすぎた妻、朝子とハルを重ね合わせ、自身の運命を呪うことしかできなかった。

 人通りはほぼないが、はたから見れば、朝っぱらからともにサングラスをかけ、オシャレぶった着衣の男女の痴話げんかにしか見えないであろうふたり。そんなハルの背後からラフな服装でありながらも、どこか実直そうな風貌で背の高い見事な白髪の男が、堂島医院へ向かって歩いてくる。気づいたのは稲水であった。

「ハル!」

「なんだよ、クソ野郎」

「堂島だ、堂島」

 震える小声でささやく稲水。

「ふん、早かったな。こっちの浮気野郎も」振り返り、ハルの目が赤く発光すれば堂島渉が朝子殺しの犯人確定である! 「さあてな」

 おもむろに首をひねるハル、そのほおに赤い血がぴちゃりと振りかかる。彼女のサングラスにも血がしたたった。彼女の眼前、そのわずか二メートル先で白髪、長身の男の心臓がつかみ取られていた。白のパーカーをまとった男は全身を赤い血に染め、ゆっくりと頭をおおったフードをまくりあげた。そして少しずつ、少しずつ、その凄みすら感じさせるつややかで美しい顔を見せる。それはホストでもつとまりそうな美青年であった。

 そして奪い取った堂島の心臓を、目もくらむような朝日輝く大空へと高々とかかげてみせる。

「……彦佐」

 血まみれのサングラスを投げ捨てたハルの目に殺気が宿る。パーカーの男はなにもいわず、かすかに怒気をふくんだような冷ややかな表情で彼女をチラ見した後、堂島の心臓にむしゃぶりついた。ほんの数秒前まで鼓動し、身体のポンプの役割りをはたしていたはずの心臓から、大量の血液がさらに吹きだす。

 怖気を震った稲水はその場へストンと尻を落とし、血まみれた蛮夫、今は逆光で黒一色に翳り表情の読めない彦佐を見あげた。しかし、怒り狂ったようにうなるハルに気づき、あわてて路上にほうり出されたサングラスにガクガクとゆれる指先をのばした。

「ハル、サングラス!」

 稲水が投げたサングラスを片手で受けとめたハルは奥歯を噛みしめつつ、それをまたかけた。目の発光を誰かに見られでもしたら、ハルまでが蛮婦として疑われてしまうだろう。稲水はとっさにそう考えたのであるが、殺人鬼である彦佐を見てもハルの目は赤く光ってはいなかった。彼女の目の性能も確実ではないのか? 稲水は疑問を感じたが今はそれどころではない。蛮夫が眼前にいるのだ、生きて帰れるのかどうかもわからないのだ。

 堂島医院の近隣、その二階からかん高い悲鳴があがった。ベランダで洗濯物を干そうとしていた主婦であった。彼女は転がるようにして部屋へと消えてピシャリとガラスが割れてしまいそうな勢いでサッシ窓を閉じた。

「てめぇ、どうして……なんでだ!」

 キレたハルが憤怒もあらわに彦佐へと詰めよる、額をこすりつけんばかりに。彦佐は顔色ひとつ変えず、チュッとハルの細い首筋へとキスをした。ハルもだが、稲水も呼気を止め、一瞬、硬直した。この不意打ち、ハルの油断。もし彼に噛まれ、少しでも血を吸われていたなら、ハルは彦佐の奴隷にされる。

「なにしやがる!」

 腰を引かせ、堂島の血のついた首を乱暴にぬぐい、ハルがほえた! 息を吐く稲水。ハルは健在だ。

「なに、ただの接吻だよ。いけなかった? あのころはよくしたじゃない、ねえ、お晴さん」

 口角をあげる蛮夫、彦佐のささやくような声音は存外に優しく響き、そして甘い。

「忘れた、昔のことなど」

 ハルはサングラス越しにチラと稲水を見下すと、内股をしめ、腰を落とし、戦闘態勢を取った。

「昔かぁ、ひどいな、お晴さん。僕にとってはたった一年前のことなんだけどな。それにしてもお晴さん、こんな往来で僕と殺し合うつもりかい? 派手好きだねぇ」

「ちっ……」

 ハルが舌打ちすると、さらに彦佐の柔和な笑顔が広がる。

「そうだ『あいつは私が始末する。必ずこの手でな』確かそんなことをいっていたよね?」

「なんだと!?」

 愕然としたように動揺を隠せないハル。

「僕はいっこうにかまわないよ。始末してみてよ、ヴァンプとして格上の、お・晴・さん」

 かためた拳を震わせるハル。その時、遠くに近くにサイレンが鳴り響いた。あの主婦が警察に通報したに違いない。交通機動隊の白バイならばあっという間に現着するだろう。

「ハル!」はうように立ちあがり、ハルの手をつかんで引っぱる稲水。「なにしてる、行くぞ!」

「おのれ……」

 三百年以上生き抜いてきたヴァンプ、ハルは、危機管理能力が常人よりも長けていた。瞬時に逃走を決断、高笑いしている彦佐に背を向けて、怒りをぶつけるようにアスファルトの路面を強く蹴った。

                           (つづく)

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