第2章 探索 2 社会情勢 蛮夫について

 稲水志朗とヴァンプを名のる女ハルが出会う約一年前──。 


 都内、台東区。その日は日曜日なので近隣住民との協定があり建築工事はできないことになっていた。したがって派遣社員であり雇われ監督である岬智也みさきともやは、建設会社の正社員や上司に気づかう必要がなく、ひとりプレハブ二階の現場事務所でスマホゲームに興じていた。

 本日、出てきている作業員は三名だけ。土壌調査のため建築現場数か所の手作業による掘削がおこなわれているだけである。本来は協定違反にあたるが背の高いバリケードに囲まれているので作業を見られる心配はないし、無用な音出しさえしなければ近隣からクレームが入ることはまずあるまい。出勤日数を稼ぎたいだけの岬はお気楽なものであった。

 ところがである。できるだけ静かにと注意していたのにもかかわらず、ガンガンガンとプレハブの鉄階段を駆け上ってくる足音が鳴り響いた。岬は舌打ちをしつつスマホを置くと事務所のスライドドアを開く。そして血相を変えたような表情の中年作業員をにらみつけた。

「静かにしてくれって、何度も──」

「それどころじゃねぇよ、監督さん! 死体が出たんだ! 死体が!」

「はぁ? 嘘だろ!」

「こんな嘘をつくわけねぇだろよ! すっ裸の若い男が埋まってたんだ! とにかく早く来てくれ!」

 半信半疑ながらも岬が現場へ駆けつけると、確かに死体はあった。しかしそれは話に聞いたような若い男の死体ではなく、まるで熊やライオン、猛獣にでも襲われたかのようなありさまの現場作業員二名の血まみれた遺体であった。しかも長身の方の死体は衣服と靴を奪われ、丸裸にされていた。

「バカな……」

 岬へ報告に来た中年作業員は、首筋や胸部の肉をえぐり取られて息絶えているふたりの仲間に取りすがり懸命に名を呼びつづけていたが、返答がないことは一目瞭然であった。双方ともに左胸のあたりに傷、というより大穴が開いていて、本来そこにあるべき臓器、心臓がむしり取られたかのごとくなくなっているように見えたからだ。


 通報を受けて警察の捜査が始まり、工事現場周辺は怒涛の勢いでパトカーに埋めつくされた。そして当然のごとく岬と中年作業員に疑惑の目が向けられ、参考人として任意ではあるが拘束されてしまう運びとなった。工事はしないと取り決めのある日曜日に被害者二名を呼びだして殺害したのでは、との嫌疑をかけられたのである。

 特に同じ建築会社に所属していた中年作業員への疑念は濃厚であった。彼のいう全裸の若い男が埋まっていたという証言は、岬も目撃していないことから信憑性が低い上、被害者らと仕事上、プライベート上で以前からなんらかのトラブルをかかえていたのではないかと疑われたのである。

「ああ!」

 遺体収納袋ファスナーを閉じかけていた係員のひとりが悲鳴のような大声をあげた。どうした、なんだ、などと怒鳴りながら数人の警察官や鑑識課員が駆けよると、彼らの目の前で死体の顔がコンクリートの表面上に白く浮かぶ白華現象のごとく変色し、バクンと音をたてて塩の塊、または白砂と化し、瞬く間にくずれ落ちてしまったのだ。係員があわてて収納袋のファスナーを全開にすると、中にはベージュがかった白色の砂が大量にあるばかりであった。すでに収納袋に収められていたもう一方の遺体の方も同様で、やはり原型をとどめていない砂塵と化していた。

「どういうことだ! なにをしたんだ!」

 その場にいた刑事や警察官は、岬と中年作業員の襟首をつかまんばかりに詰めよったが、当然ふたりに理由などわかるはずもなかった。

 ところが最寄りの警察署に引っぱられたふたりの勾留期間中に、同じ東京都内で似たような殺人事件が連続して六件と頻発したのである。いずれの被害者も肉食獣に噛み裂かれたかのように全身をズタズタにされたあげく、おそらくは生きたまま刃物などは使用せずに素手で心臓をえぐり取られているようであった。まさに野獣のような犯人である。

 事件は白昼堂々、目撃者のいる中で発生することもあったし、夜の闇にまぎれて起こることもあったが、いずれにしても被害者の悲鳴が盛大に響きわたるため発見はつねに早く、速やかに捜査員が駆けつけることができた。どうやら犯人には殺人を隠蔽する意志がないらしい。そして現場の鑑識係が証拠資料集めを始めるころ、毎回、死体は白い砂と化してしまうのだ。

 一方、任意出頭で取り調べを受けていた岬や中年作業員への嫌疑は晴れつつあった。無論、後続六件の事件発生時に警察署内にいたからである。

 その後の事件の目撃情報の中に逃走する犯人と思しき者が長身で若そうな男であったという証言があり、犯行現場付近の防犯カメラからも目撃証言と合致するコート姿の男の逃走が確認されたことから、この件は連続猟奇殺人事件として方針転換がはかられた。

 ちなみにだが防犯カメラにうつる男の跳躍力や脚力はなみはずれているようで、その逃走シーン内でカメラを横切る犯人の姿を分析した科学警察研究所は、推定時速四十キロメートルと結論づけた。これは百メートル走におけるオリンピック選手より早いことを意味していた。多くの捜査官はこの報告を信じられず無視したのだという。

こうなると若い男が地中に埋まっていたという中年作業員の供述が重要視され、いったん証拠不十分で釈放された後も、岬ともども何度となく警察に呼びだされて似顔絵の作成などに協力をさせられた。

 岬智也らが巻きこまれた最初の殺害事件から約一年がすぎた現在でも犯人は特定されず、警察の必死の捜査をあざ笑うかのように男女を問わず一カ月に一名から二名の割合で心臓を抜くという猟奇殺人は今なお、東京都内で発生しつづけている。

 遺体もないのに死んだ、殺害されたといわれても受けいれることができず、パニック障害におちいる者、精神を病む者も、多くの被害者遺族の中で続出していた。 

 警察では、被害者が殺害後一時間以内に白色の塵芥に帰すという事実から、実は発見されていない殺人事件も複数存在するに違いないと見ていた。なにしろ遺体は砂となって消えてしまい服や靴のみが残されるのだから。遺体が存在しないのにこの殺人事件は成立しているのか? そんなそもそも論をささやく捜査官もいるらしい。

 当初警察は人心の動揺をかんがみ、被害者の末路についてマスコミにはふせていたのだがこの不可解現象の解明のため、外部の研究機関などへも調査依頼せねばならず、そうなるといとも簡単に機密は漏洩ろうえいした。

『恐怖の獣人、蛮夫』と命名された魔法使いのような殺人鬼の出現をマスコミがこぞって報道したことで、東京都民の恐慌にますます拍車がかかった。


 大正四年、一九一五年にも実は本件と同様に生きたまま心臓を抜き取る連続殺人事件が帝都東京府で発生していた。悪夢のような殺害方法にくわえ、取り出した心臓や肉を犯人が喰っていたなどの目撃証言もあり、この時もマスコミはこぞってケダモノ人間、蛮夫による『獣人蛮夫心臓捕食殺人事件』として、この話題をセンセーショナルに報じた。

 蛮夫とは江戸時代の戯作者によって書かれたいわゆる読本にして妖怪変化図鑑である『餓鬼絵巻』に登場する化け物の総称で、男であればたぐいまれなる色男、女であれば小股の切れあがった艶女の姿で現れ、見た目に反した怪力をもって夜な夜な旅人や町人を襲い、その生き血をすすり、肉を食らう悪鬼であると記されている。

 蛮なる男、蛮夫。そして蛮なる女、蛮婦。この妖怪の特徴と犯人像が類似性をしめしていたため、大衆の好奇心と恐怖をあおりたい新聞や雑誌にとっては格好のネタであったに違いない。しかし当時の警察もこの犯人の特定にはいたらず、半年後にはピタリと犯行がおさまったため、やがて忘れさられた。

 更に追い打ちをかけるようにその後発生した関東大震災と東京大空襲において獣人蛮夫の記録が焼失してしまったことで、事実よりも伝説。それも都市伝説として一部のうさんくさいマスメディアで語られるのみのいかがわしい奇譚として現代に伝承されるにとどまっていたのである。

 この約百年前の情報を堀りおこしたネット民がSNSで『獣人蛮夫心臓捕食殺人事件』を拡散したことで、本件は大正時代の事件の再現、模倣をねらった異常者のしわざであるとか、当時の遺族の呪いであるとか、さまざまな憶測とあり得ない流言飛語がネット上で飛びかいはじめた。

 ──東京都民は大正時代とは違い科学捜査の発達した現代、この令和においても、真実を解明できずにいる警察の無能にいきどおりつつ、今、この瞬間も眠られぬ夜を余儀なくされているのである。

 都内に潜伏中と思われる獣人、蛮夫はいつどこで、あなたに牙をむくのか、誰にもわからないのである。

                                (つづく)

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