第4章 クローズドサークル 1 台風一過

 大型で猛烈な台風二十一号がすぎ去って秋晴れがつづき、四日がたとうとしていた。もちろん世間を震撼させている連続殺人鬼、蛮夫と命のやり取りをし、半死半生の憂き目にあわせた女妖怪とその家族がいたことなど知る者はいない。知るよしもなかった。

 全身を殴打され、鎖骨、肋骨、左腕前腕部の橈骨ぎょうこつ尺骨しゃっこつ。右足首の足根骨そっこんこつ。複数個所を骨折、または複雑骨折していた稲水は高熱にうなされ、その意識はもどらなかった。まだ頭や首、内臓が潰されていなかったことこそが奇跡的であるといえた。 

「もし稲水が死んだら、おまえも横浜港に沈めるからな」

 二十年来のつきあいである横浜裏町の闇の老医師、権藤春海ごんどうはるみにハルがいいはなったのがこの言葉である。なかば強引に小田原の別荘へと連れてこられた権藤にはとっては、あまりにも理不尽なものいいではあったが、彼はハルに恩義を感じていた。無許可での医療行為で警察に検挙されるところを何度かハルに助けられていたからである。ハルは医師免許があろうとなかろうと、彼の医療信念、その力量を大いに買っていた。それは、どんなに無茶な治療、手術を嘆願されようが、悪意を持って人を死なせたり、病状の悪化を助長させたりしたことはなかったからという一点につきる。医療技術のいたらなさで患者を死なせしまった過去はあったのかもしれない。しかし権藤を見てもハルの目が赤く光ることはなかった。

 彼はとある大病院の派閥争いに敗れ、やさぐれ、前科がついたことで医師免許を剥奪されていた。落ちぶれてはいたものの、どこか誠実な人間であるとハルは感じていた。

 権藤は稲水をひと目見るなり、二十四時間体制で看護するべく心電図モニターや人工呼吸器、点滴などの様々な医療機器をハルに注文させ、小田原の別荘へ運ばせた。それにくわえて権藤はまひるの首、吉田の腕、そして幸嶋の腹の縫合もこなしていた。ヴァンプの存在を知った上でただ否定するだけではなく、彼女の行動原理を認めているハルにとって唯一無二の闇医者、ハッカーであり偽造屋の久永にも似た、古い友人でもあったのだ。むろん関係性を持ったきっかけは久永同様、ハルに噛まれて奴隷にされたことにあったのであるが。

「春乃さま、稲水というこの男をここまで痛めつけた大量殺人犯を許したのですか?」

 心電図の発する一音と二音を聞きながら白衣の権藤が不服そうにつぶやく。

「許したつもりはない。逃げられたのだ」

 少しバツの悪そうな顔で答えるハル。

「この別荘の場所は知られていると聞きました。ふたたび襲われる可能性は?」

「当面は問題あるまい。片腕、片脚、両耳は再生不能だし、体表も八十パーセント以上は焼いたからな」

「八十パーセントのやけど、人間なら致命傷ですが、相手は蛮夫ですよ」

「わかっている。だから稲水を早く床上げしてほしいのだ」

「焦りは禁物ですぞ、春乃さま。全身打撲による自律神経への圧迫、筋肉繊維の断裂、骨折による発熱。へたに目ざめれば激痛でショック死してしまうかもしれません」

「むう……だが私の目算ではひと月だ。ひと月あれば彦佐は動けるようになる」

「稲水というこの男の回復力と競り合いですな。回復すればの話ですが」

「このまま死ぬ可能性もあるというのか?」

「むしろその確率の方が高いでしょう。いっそ彼をヴァンプにしますか?」

「彦佐の二の舞は二度とごめんだ! 同じ轍を踏めるか!」

 がなるハルの飛ばしたツバをぬぐう権藤。

「では、覚悟だけはしておいてください。春乃さま」

「できるか! こいつには私から近づいた。私がいなければこいつは岡山の田舎でひっそりと生きていられたんだ! 殺すな! 死なすな!」

「……あたしは神ではありません。生きるも死ぬも、どれだけこの男に生への執着があるのか、それしだいであるとしか申し上げられません」

 もちろんハルは、稲水がいつ死んでもいいと考えていたことを知っている。ただ自ら命を断つ胆力すらなかったヘタレ男であることも。腑抜けでヘナチョコ、それが稲水志朗。

 それなのにこの男は──。

「……稲水、なんだってあの時でてきた! 吉田に助けられたあと、黙ってすっこんでいればよかったものを!」点滴や様々なチューブにつながれた稲水の身体をガシガシとゆするハル。「ただの人間が蛮夫にかなうわけないだろが! おまえ本当にバカな男だな! このくそバカ野郎が!」

 あわててハルを押さえようとする権藤。しかしハルの片手であっさりとはね飛ばされてしまう。

「春乃さま、患者が死にます!」

 稲水の寝かされた部屋へとなだれこんで来る、室外で聞き耳を立てていたらしき使用人たち。三人に組みつかれて発狂したごとく暴れるハル。

「稲水、勝手に死ぬなど許さない! 許しはせんぞ!」

 春乃さま! 春乃さま! 口々に叫ぶ吉田、幸嶋、まひる、権藤の四人。

「稲水さまは春乃さまに喰われることを楽しみにしておられました! だから死にません! 春乃さまに生きたまま喰われるまで、稲水さまは絶対に死にません!」

 ハルの剛腕に抗い、包帯の巻かれた首が半分ちぎれかけたまひるが金切り声を上げた。この超音波なみの奇声、訴えに、ふうふうと鼻息の荒いハルはようやく正気を取りもどせたようであった。

「……まひる」

「はい」

 取れそうになっている首を左手で支えながら答えるまひる。

「なかなかに常軌を逸した発言であったが、そのこと、自覚しているか?」

「さあ、そうでしょうか?」

 赤い血液があふれ出る首を小さくかしげるまひる。

「だが、それが稲水の望みなら、かなえてやらんとな」

「はい!」

 まひるは、血しぶきを上げながら小躍りする。

「ふん。権藤」

「はい」

「まひるの首の修繕を頼む。血の色は嫌いではないが、床板のクリーニングが面倒だ」

「おまかせください」

 うやうやしく頭を垂れる権藤。

「幸嶋」

「はい」

「少し寝る。晩飯はいらん」

「ですが……」

「なんだ?」

 稲水につきっきりであったハルは、あの台風直撃の夜からなにも口にしていない。それは四日間、食べも、寝てもいないということであったのだ。ヴァンプは人間の食物を補給しなくとも死なない。しかし睡眠は別物である。死にはしないが疲労回復ものぞめない。

「いえ、春乃さま、ゆっくりとお休みくださいまし」

「うむ。吉田」

「はい」

「一カ月後にはここを越すかもしれん。おまえら三人の転居先と別荘の売却を考えておいてくれ。あくまでも稲水が覚醒しなかった場合のシュミレートていどでいいから」

「かしこまりました。しかしどうしてなのでしょう」

「わからないか? 稲水が目ざめたら早々に契約を履行する。この館でな」

「はあ」

「そうなれば、ここを居城として彦佐を迎え撃つ。一カ月以内ならばな」

「理解いたしました」

 ハルはあくびを噛み殺し、赤くはれた目をこすりながら自身の寝室へとでていった。寝不足でピリピリとしていたに違いない。しかし、もしくは──。

「やっぱり春乃さまはツンデレでしょ? ね、稲水さま」ベッドに横たわる稲水の乱れた枕と掛け布団を直すまひる。さすがに彼女も、彼に自身の血液がかからぬよう気をつけているようであった。「だから起きてくださいな、稲水さま」

                                (つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る