第3章 死闘 11 激戦の結末
「しつこいな。いいかげん、死のうか、妻殺しの稲水さん」
ハルの首をつかんだまま、急所もなにもところかまわず、爪先で、かかとで稲水を蹴り、踏み下ろす彦佐。そのひとつひとつの重い一撃で肉体を砕かれていく稲水。足技に気がいったことで首を絞めつける力がじゃっかん弱まり、意識を取りもどしつつあったハルは、その一部始終を途切れ途切れにだが見ていた。
──なにやってる? なぜやられている、稲水。なんでそんな血だらけなんだ……ヘタレのくせになぜ来た……このバカが……バカ野郎が!
目をくわっと見開き、完全に覚醒したハルは、稲水の
「耳が、僕の耳が!」
「ミミガー? 沖縄料理だったかな? 豚野郎」
ハルは血まみれた彦佐の耳の片方をペロリと口に入れ、ゆっくりと
「よせ! やめろ! 再生できなくなる!」
ゴクリと飲みこんだハルは唇をぬぐう。
「もう遅い。やはり悪党でも蛮夫の肉は臭いなぁ。吐き気がするほどな! しかし私の一部となれて嬉しいか。彦佐、ペニスならもっと嬉しいか? 私の中に入りたいんだろ? 入れてやるよ、彦佐」
彦佐の股間を指さしつつ、もう一方の耳を口に入れかけるハル。
「ふ、ふざけるな! こいつを殺すぞ!」彦佐は動かない稲水の頭をグリグリと踏みつけ、恫喝する。「僕の耳を返せ! 稲水の脳漿を飛び散らかせたいか!」
「おいおい、稲水さんだろ? 彦佐、目上に対して敬称略はよくないぞ」
指先で耳をつまみ、口をあんぐりと開くハル。
「やめて! お晴さん!」
「ふん、自慢の耳だったな? ほら、返すよ。受け取れ」
ハルはその耳を、幸嶋の吐きだした胃液の中で溶解しつつあった彦佐の片腕へと投げ捨てた。ジュッと音を立ててブクブクと炎症を起こし融解しはじめる彦佐の耳。
「があああ!」
叫びながら胃液の中に片手を突っこむ彦佐。その尻を蹴とばすハル。たまらず彦佐は胃液の海に頭からなだれこんでしまった。うぎゃあ! 彦佐の顔半分が焼けただれたかのように水ぶくれを発症し、その頭髪も半分ほどが溶け落ちていた。
「稲水、稲水! しっかりしろ!」
ハルの呼びかけに、かすかにうなずく稲水。その前歯、外れた差し歯が血まみれの口腔内の奥に見えた。もはや吐きだす余力も残されていないのだ。ハルは飲みこまないよう差し歯をつまみ取ると、胸の谷間へと押しこんだ。
「稲水、間抜け面だな。バカめ、この期におよんで笑わせてどうする?」
薄く笑みを浮かべ、無精ひげのはえた稲水の頬をなでるハル。
「うぎゃああ!」
怒号をおらびながら稲水の前に膝をついたハルの背後へと踊りかかる彦佐。これをスイとさばいたハルは稲水が持っていたバールを素早く手にして、二発、三発とただれた顔へと叩きつけた。ゴロゴロと転がり、のたうつ彦佐。
バールを捨てたハルは無慈悲にも今度は彦佐の右大腿部をつかんでバキバキと関節がきしむ音を楽しむように引き抜いてしまった。ビチビチと活け造りの魚のように暴れる彦佐の片足。
「吉田、生きてるな? 今だ!」
ハルの号令が飛ぶ! ははっと声を上げた吉田が片腕でぶら下げてきたのは複数の赤い十八リットルポリタンクであった。ポリタンクにガソリンを入れるのは違法であるが、ヴァンプに人間の法律は通用しない。ドボドボとガソリンを彦佐とそのパーツたちへと振りかける吉田。
ここ数日、ハルが吉田とともにこの工事現場跡地へと足しげく通っていたのは、この時のためであった。ヴァンプの弱点とは火。燃やされることであった。細胞を焼きつくすことでその再生能力を完全につぶすことができる。つまり、幸嶋の胃酸で溶けかけた腕や耳も焼きはらい、消し炭にしてしまわなければふたたび蘇生してしまうことになるのである。もちろんハルに喰われた片耳も再生することは二度とできない。彼女の胃の中で仮に復活したとしても、ヴァンプの消化吸収能力には遠くおよばないのである。
「な、な、なにをする気だ!」
半狂乱の彦佐。
「決まってるだろ」
カチャリとふたを開いたハルが火の灯るオイルライターを彦佐へと投げた。たちまち火柱と化す彦佐、そして燃え上がるその片腕と片脚。絶叫しつつ片足で立った彦佐は落とされた右脚をかかえて逃げようとするも、火勢に圧されてあきらめたらしく階上へと飛翔した。
「逃がすか!」
燃えながら嵐の中へと飛びたった彦佐に襲いかかるハル。相変わらずの台風二十一号の暴風雨が彦佐にまとわりつく炎を消し去りつつある。空中でもみ合うハルと彦佐。全身を焼かれた彦佐も必死である。やたらめったらと振り回した片腕がハルのウェットスーツの胸元をつかんだ。背中側を切り裂かれていたせいで、ハルのバストが露わになりかける。あっと声をあげて胸先を両手で覆うハル。彦佐はこの機に乗じ、ハルの額に渾身の右ストレートを見舞った。一瞬、意識を飛ばされるハル。
吉田が彦佐を捕らえるべく飛んでくるが、間に合わなかった。全身から黒煙を噴き上げながらも、死にもの狂いで飛ぶ、彦佐の飛翔能力に吉田はおよばなかったのである。
「くそぉお!」
頭を振ったハルがくやしそうに声を上げた。激しい風雨と夜の闇、そして深い森林に紛れ、彦佐の姿はもはや消えてなくなっていたのだ。
「春乃さま!」
「深追いは禁物かと!」
後を追おうとするハルを、すがるようにして止める、片腕のない吉田。腹からこぼれ落ちそうな内蔵を両手で押さえている幸嶋。自身の首を右手で抱えているまひる。
「おまえたち、さし出たまねを!」
ハルが叱責すると、二人の使用人はかしこまり首を垂れたが、まひるには不可能であった。
「春乃さま、申しわけございません」
「出すぎましたこと、お詫び申し上げます」
「分不相応でございました。しかし春乃さま、
吉田が頭を下げたまま進言する。
「ふん。噛むだろうな」
「はい」
「吉田」
「はい」
「運転はできるか? いささか疲れた」
「もちろんでございます。片腕でもハンドル操作は可能です」
吉田はもがれた右腕を肩にかついだ。
「幸嶋」
「はい」
「祝宴は先のばしとする。まずは腹を治せ。帰りの車や別荘内に胃酸をまき散らされてはかなわないからな」
「留意いたします」
「──まひる」
「…………」
むろんなにも返答できないまひる。
「生きた稲水を喰いたいんだったな。稲水を連れて帰るぞ。我が家へ」
「…………」
心なしかまひるの首が嬉しそうな笑みを浮かべたように見えた。
(つづく)
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