第4章 クローズドサークル 2 キス

「は……ハル、無事、だったか……」

「ん? あ? ああ!!」

 さらに十一日が経過した、その日の午後。ハルは、点滴のみのカロリー摂取でやせこけて骨ばった稲水の胸元にもたれてうとうととまどろんでいた。

「俺、も、生きてる、らしい、な。今度、こそ死ねる、と思った、んだけどな」

「このバカが! 私に喰われるまでただで死ねると思うな、稲水!」

 思わず稲水におおいかぶさり、抱きつくハル。うぎゃあ!っと悲鳴を上げる稲水。

「痛い、ハル、痛い!」

「うるさい! 生きてるから痛いんだろが! 生きてるから痛いんだよ……そうだろ?」

「うん。ああ、ハル」

「なんだ」

「……腹へった」

「はは、そうか。腹がへったか。幸嶋!」

 ハルは使用人通信ボタンを連打した。厨房で待機していた幸嶋がマイクにこたえる。

『はい、春乃さま』

「稲水は腹がへったそうだ! なんでもいいから、うまい飯を持ってこい!」

『え? 稲水さまが?……かしこまりました!』

 幸嶋にしては珍しい、ハイテンションである。そして白衣の権藤、吉田、まひるが回診よろしくどたどたと入室してきた。

「幸嶋さん、消化吸収のいいものを」

 権藤がいうと、『承知しております』幸嶋は今度は冷静にこたえた。

「稲水さま、おかげさまで引っ越しはせずにすみそうでございます」

 吉田の言葉に首をひねる稲水。

「はあ、それは……よかったです。ああ、まひるちゃん」

「はい、稲水さま!」

「おかしな夢を見たんだ」

「どのような夢でした?」

「まひるちゃんの首が飛んでる夢だ。まるで悪夢だったよ」

 あははは! まひるを筆頭に一同は爆笑してしまう。とりわけハルは泣き笑いのような表情であった。

「稲水、悪夢は終わった。ほれ」稲水にさしだしたその指先には、彼の差し歯がつままれていた。「幸嶋の手料理が待ってるぞ。前歯をつけろ、瞬間接着剤なら枕元に用意してある」

 手さぐりで接着剤を見つけた稲水がいった。

「ゼリー状のがいいんだけど」

「贅沢ぬかすな」

 ハルは稲水の額にデコピンを食らわせた。


 離乳食のような流動食、それでいてダシのきいた味わい深い幸嶋の料理を食べることこそできたものの、まだ高熱に苦しむ稲水が睡眠薬の投与ですやすやと眠ったその晩。

「春乃さま、ひとつ気になる点が」

 深刻に眉をひそめる権藤。

「どうした」

「蛮夫の両耳を焼き払ったと聞きましたが」

「そうだ」

「半径ニ百五十メートル以内の会話を聞き分ける者が耳を失っても、この館での我々の言葉は盗み聞きされていると思われます。なぜなら、物理的に鼓膜を振動させているとは考えにくいですから」

「だろうな。さすがは権藤だ」

「お気づきでしたか」

「まあな。彦佐の場合、直接、脳に響くのだろう。だが家の者に不安を与えても仕方がないしな。それに性能は格段に低下したはずだ」

「片腕、片脚、両耳をなくした蛮夫は目立ちすぎます。まずエサ場にしていた東京へもどったとは思えません。このあたりの山間に隠れて静養につとめていると考えるのが妥当です。あなたと稲水志朗への復讐の機会をうかがいつつ」

「ああ、わかっている」

「稲水が目ざめた今、この場を離れた方が賢明かと」

「まあな。だが私は稲水のためにやらなくてはならないことがある」

「妻殺しの犯人捜し、ですか」

「ああ。私は過去の因縁をきっぱりと断つことができた。こいつのおかげでな。今度は稲水の番だ」

「……では早期解決を」

「おまえが焦りは禁物だといったんだろが」

「いいましたが、稲水の病状は峠を越えました。同じように快方へ向かいつつある彦佐とかいう蛮夫、次なる襲撃ではどんな手をろうしてくるのか見当もつきません」

「確かにな。だが負ける気はしない。今回のことで思い知らされたよ、どうやら私には家族がいるようだ」

「稲水も、ですか」

「ふん。まあな」

「そうですか……ならば、あたしも随行するよりほかありませんな」

「そうか。悪いな、権藤」

  

 稲水が目ざめた、その四日後。全身をギブスに固められていたような彼は平熱にもどり、電動車椅子に頼りながらも、自力でトイレや風呂に入れるほどまでに回復していた。しかし、彦佐復活が予想される期限までは、もはや十日を切っていた。

「気分はどうだ、稲水」

「悪くない」

「身体は痛まないのか?」

「ああ。痛くない、痛くないってヴァンプを真似て、自分に蠱惑をかけたから」

「ふん、そんなものただの自己暗示だろ」

「ただの人間がヴァンプの真似をしたらいけないか?」

 片目をつむり、笑顔を見せる稲水。十月も終わりに近づき秋の終焉を迎えつつあったが、出窓からあふれるやわらかな陽射しがハルと稲水をつつみこんでいた。

「いけなくはない」ハルはごく自然に前のめり、稲水と唇を重ねていた。

「ハル……」

「はは、妖怪変化とのキスは嫌だったっけな」

 恥じらったように頬を赤らめたハルの髪を、動かせる右手で押さえつけて引きもどした稲水は、狂おしいほどに彼女の唇を吸い、舌をからめた。

                              (つづく)


















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