第4章 クローズドサークル 3 ジェラシーの稲水

「稲水、おまえ案外、Hだな。知ってるか? Hは大正時代の女学生たちの隠語、変態性欲の略語だ」

「俺、変態だった?」

「変態だろ? あんなに舐めまわされてはかなわない。指のうごめきもな」

「…………」

「おまえの舌だけで逝きそうになった。おまえの四肢が回復していたらと思うとゾッとする」

「彦佐と比べた?」

「あ?」

「いや、いい。嫌だったんなら、謝る」

「誰が嫌だといった。嫌ならおまえの舌を引っこ抜いていたよ」

「さすがは飛縁魔ひのえんま、閻魔大王の生まれかわり、地獄の裁判官だ。けど俺もひとつ、いっていいか?」

「ふふん、なんだ?」

「ハルにくわえられた時、食いちぎられるんじゃないかとはらはらした」

「バカめ。次に使えなくなるような愚かな真似はしない」

「ハル……次もあると思っていいのか?」

「ふっ、逆に次はない。使い捨てだとかいわれたら、おまえを殺す」

「使い捨て?」

「女を欲望のはけ口としか考えない、ただ男に仕える穴としてキープしておきたい彦佐のような男のことだ」

「そんなわけないだろが!」

「ふん、信じてやる。が、食いちぎられるのかとおびえてた割には、まるで萎えてなかったじゃないか。おまえのジュニアは」笑いながら、今は縮こまる稲水の息子をはじくハル。「腰を振りすぎだ、のどが苦しかったぞ。実はドSか、稲水」

「ご、ごめんハル。久しぶりだったから、つい興奮して」

「とはいえ、私の勝ちだな」

「なにが?」

「一年以内におまえをとしてやるといっただろ? は! 罠にかかったな」

 少しはすっぱに、尻軽女の笑顔を見せるハル。

「そ、そうなのか?」

「稲水の飯には精力剤をたっぷり混入するよう幸嶋に指示していたのだ」

「マジか!」

「──な、わけないだろ。ああ、そういえば、私も久々だったかな? 上からも下からも男にかき回されて発情したのは」

「い、いや、俺はろくに動けなくて寝ていただけだから。常にハルが上からだったじゃないか」

 狼狽する稲水に、ふふんと笑う、ハル。

「動かせる片足と片腕を駆使して、動かせない体躯を無理して、懸命に動かして、この私をあれほどあわあわ、いわせやがるとはな。やはり変態だ」

「そんなにだった?」

「私は三百年以上、生きてきたんだ。最上級グレードとはいいがたいが、悪くなかったぞ、稲水」

「あ、あ、そう。ああ、ありがとう、ハル」

「ふっ、稲水のドSはサービスのSだと受け取っておいてやる。おまえ全身ボロボロのくせにエロすぎだぞ。女の体を知りつくしているようだった。普通じゃない」

「そうか? だとしたら……朝子の影響かな」

「朝子か、かわいい顔して朝子はそんなに淫乱だったのか? まあ、そうか。浮気相手が何人もいたわけだものな。朝子はドMだったのか?」

「いや、気まぐれだった。ドⅯの時もあれば、ドSの時もある、そんな女だった。都度都度、空気を読むのに苦労したよ」

「なるほど。だから稲水は私の反応を見ながら指や舌でまさぐっていたというわけか。ふん、私が絶頂に達したのも朝子の気まぐれのおかげか」

「達したのか?」

「──ああ。朝子がらみというのが気にくわないが」

「変な話、朝子からアナルを求められたこともあった。あいつの性欲はどんどんエスカレートしていったんだ。でも俺は拒否した、なにか違う気がして。でも本当は俺、自分が病気になることを恐れていただけだった。だって……常識的に……」

「大腸菌の塊がでる穴だからな」

「ああ。あいつは、本当に俺だけにメチャクチャにされたかったのかもしれない、けど、俺は、あいつの希望にそえなかった」

「…………」

「彦佐のいったとおりなのかもしれない」

「彦佐? なにをいわれた?」

「俺が、本当に愛していたのなら朝子を押さえつけて、殴ってでも家に縛りつけていれば殺されずにすんだのかもしれない。そういった。結果、あいつは浮気相手とアナルを楽しみ、ガソリンを注がれて、焼け死んだ。俺が朝子を殺したんだと」

「……それは、今の時代ではただのDV夫だ。忘れろ、誰かに殺されたのは朝子の自己責任だと私は思うぞ」

「そうだけど」

「なんだ?」

「俺、ハルが好きだ」

「知ってる」

「けど、俺、彦佐と変わらないクズ野郎なのかもしれない。ハルを性的対象として、たぶんずっと見てたんだから」

「それがどうした?」

 私の美貌なら当然だろうといわんばかりのハル。

「俺も女を、性欲を満たすためだけの道具のように思っているのかもしれない」

「相変わらずのバカでヘタレ男だな、稲水は」

「え?」

「ことを終えた後でそんな戯言ざれごとをいわれてもな」

「まあ、そうなんだけど」

「ただひとついえることは、おまえは彦佐とは違う。決定的にな」

「そりゃ、ただの人間だからな」

「そういう意味じゃない。いい歳をしてバカめが。そんなだから浮気されるんだ」

「彦佐にもいわれたな、それ」

 自嘲し、片側の口角を持ち上げる稲水に、キリキリと眉根をよせるハル。

「だいたい今、この状況で元カレ、元ヨメの話ををえんえんとつづけるのはどうにもおもしろくない! デリカシーってものがないのか、稲水!」

「だよな。すまない……ん?」

 稲水は同じベッドの隣りに横になっていたハルの首のあたりにふれた。

「なんだ? ごまかしやがって」

「いや、なにか光った気がして」出窓からさしこむ陽光にテラテラと照り返しぬめる、微小な点がハルの首筋にあった。「やっぱり薄いフィルムみたいな物がついてるよ」

「フィルム?」

 ベッドから立ち上がった全裸のハルは鏡の前に行き、頭をかたむけ自身の首筋を確認する。

「あるだろ? キラキラメイクとかしてた? その名残なごりとか?」

 嵐の夜、彦佐との決戦を前にして、ハルがおしゃれして出かけていたのだとしたら。稲水は軽く嫉妬心をいだいてしまう。

「なるほど……これがマーキングか」

「どういうことだ」

 気にしていたマーキングに反応する稲水。目立たない小さなフィルムの中のラメらしき物を指さすハル。

「ここは、堂島医院の前で彦佐と対峙した時、キスされた場所だ。あいつこんな能力まであったのか。まさに犬の小便だな、私は電柱か! 小賢しい真似を!」

 ベッド脇のサイドテーブルから取り上げたタバコに火をつけた彼女は、ひと吸いした後、その先端を自らの首へと押しつけた。

「ハル! なにしてる!」

「焼けば消える」

「だけどやけどの痕が」

「このていどなら、すぐに再生する」

 おろおろとする稲水。見ていて痛いのだ。肉の焼ける臭いがくすぶる。

「そうなんだろうけど、やめろよ!」

 あはははは! 突然、ハルが笑いだした。

「どうした、なにがおかしいんだよ」

「私らがこうなったことを、犬の小便を通して実況中継的に彦佐が聞いていたかもしれない。今頃、どんな顔しているやら。奴からしたら、お晴さんは浮気女だろうからな」

「え! あいつ、まだ生きてるのか!?」

 なにも聞かされていなかった稲水は仰天してしまう。むろん稲水の心労を軽減するための権藤の進言の結果である。

「ああ、逃げられた。だが安心しろ。奴のやけどはこんなものではない、まだ動ける状態にはないだろう」

「そうか。けど、ヴァンプは細胞を焼かれたら死ぬってまひるちゃんから聞いた。もう、火はやめてくれよ、ハル」

 ほっと胸をなでおろす稲水。ハルはあらためて、一糸まとわぬ姿を稲水の前にさらしてみせた。首筋のやけどはすでに消えつつある。

「なあ、稲水」

「うん?」

「私のからだ、どう思う」

「体? 本音で答えてもいいのか?」

「本音か……いってみろ」

 目をふせるハル。

「アスリートみたいに引きしまっていて、二の腕も腹筋もバキバキ、余分な肉が一切ついてない」

 床に目を落としたまま、ふふふと笑うハル。

「ヴァンプは日常生活においても人間の十倍はカロリー消費するからな。ダイエット不要だ、うらやましいだろ。それで?」

「筋肉に皮膚が張りついているようなのに、甘く、まろやかだ。俺、ハルに埋まりたい」

「ふん、朝子仕込みか? 口がうまいな」

「違う。本音だといったろ……すごく、なんていうか、ハルは神々しいと思う」

「神々しい? 神か? どちらかといえば人を喰う悪魔だろ、人間からしたら」

「いや。納得はできないだろうけど、神に近いと思うよ、ハルは。前にいわなかったっけか、俺さ──」


「おかわり、ねだってもいいか? 稲水」

「もちろんだ、ハル」

 片足と片腕が動かない稲水の上に、ふたたびハルはまたがった。


 稲水のペニスがハルの中で動きまわる。稲水は百年前の男に嫉妬した。百年前にハルの子宮にペニスをさし入れした男に嫉妬した。あいつが死んでいればよかったのに。心からそう思う。思いながらこうも考えた。遠い未来、俺が死んだ後もハルは生きつづける。どんな奴がハルを抱くのだろう? 死後、どんな奴に俺は嫉妬するのだろう?

                                (つづく)

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