第2章 探索 7 友だちと兄、志幸

「稲水、稲水だろ? 俺だよ俺」

 安手のスーツ姿の男が笑顔で立っていた。オレオレ詐欺ではなさそうである。稲水はじっと男の顔を見つめるとあわてて車から飛び出した。

「加園か! 久しぶりだな!」

 男は稲水がサラリーマン時代に営業職でトップを争っていた、いわゆるライバル関係にあった元同僚であった。

「本当によ。三年前はあんなことにもなって、最近じゃ蛮夫なんて妖怪だか怪物が現れて、おまえも砂になったのかもしれないなんてさ、これでも心配してたんだぞ!」

「俺を、その、信じてくれていたのか?」

「あたり前だろ。おまえみたいなヘタレに人殺しなんてできるか。ましてやあんなに可愛い奥さんを殺しただなんて。ねーだろ」

「はは、ヘタレいうな」

 日本人全部が敵だと考えていた自分を、稲水は恥じた。そして心の底から嬉しく思った。

「しかしまた、こんな若い美女を連れてるなんていいご身分だな。なんだよ、こんな高級車に乗って、いいいスーツ着てさ。稲水、スゲーな、憎ったらしいな、ええ、おい!」

 稲水が返事にきゅうしているとハルも車外へとおりてきた。

「美女だなんてそんな、うふ。稲水の妹です。兄がお世話になっております」

 サングラスを取ってにっこりとほほ笑むハル。加園は明らかに蠱惑にやられたようで、にやにやと赤くなり、鼻の下をとことんまで伸ばしている。ハルとしては、唐突に登場した異物をとっとと追いはらいたいだけであるのだが。

「おまえにこんなにきれいな妹がいたなんて聞いてないぞ」

「いう必要あるか?」

 俺だって聞いてないよ、最近までさ! と心の中で毒づく稲水。

「稲水ぅ、久々に会ったってのにつれない態度だな」

「ああ、悪い」

「そういやそうだ! 稲水、おまえ、さっきはよくもシカトしてくれたよな」

「さっき?」

「そうだよ、俺が声かけたら一目散に走って逃げたじゃないか」

「逃げた? なんの話だ」

 ハルと目を見合わせる稲水。

「おまえ、スクランブル交差点のあたりで、遠くを見つめてぼーっと突っ立ってただろ」

「いや。あそこなら歩いたけど、立ち止まってる間なんかなかった。本当に俺だったのか?」

「憎ったらしい稲水の顔を俺が見間違えるわけないっしょ。いや、待てよ。服が違うな。髪型もそんなに決まってなかった。もっとラフな感じだったな。おまえ、いつ着がえたんだ?」

「……本当に、俺の顔だったのか」

「だから、そういってんだろ」

「まさか……加園、そいつの左目の下にホクロはあったか?」

 自分のホクロ、鉛筆の入れ墨を指さす稲水。

「そこまでは見てねぇよ。わかるわけねぇだろ」

「そうか……そうだよな」

「あん? なんだ、深刻な顔して」

「逃げた俺は、どっちの方向へ走ったんだ? 加園!」

 いきなり加園の両肩に手をかけてグイグイとゆさぶる稲水。

「あ? ああ、井の頭通りの方だと思うけど、なんだよ?」

「そっか、ありがと! 加園」

「なにが?」

 稲水がダッシュしようとすると、妹の役どころのハルが彼の手をつかんだ。

「兄さん、無理だよ、今から捜すのは。気持ちはわかるけど」

「離せ、ハル!」

「離さないよ。無駄な時間はすごせない、だろ? いえ、ですよね? 一日中、それこそ何日も何日も駆けずり回るつもり? この渋谷の街を。いいの? 兄さんはそれで」

 ハルの腕を振りはらい、ひとつ息を吐く稲水。

「ああ……確かに、無駄な時間、かもしれない。……でも」

「兄さん、気持ちはわかるっていったわよ」

 奥歯を噛みしめる稲水。瞬間接着剤でつけた前歯がまた取れてしまいそうになるほどに。

「そうだな……ハル」

 肩を落とす稲水を見て腹をかかえて笑っている加園。

「なんだ、なんだ! 稲水、おまえ、美人の妹にやられっぱなしじゃないか! これは笑える!」

「うるせえ」

「ねえハルさん、ヘタレな兄貴はさておいて、今度、俺と食事でもいかがっすか?」

「加園さん」

「はぁい、ハル様」

 大げさにかしこまる加園。

つつしんでご辞退申し上げますわ。私、今、ヘタレな兄の面倒でいっぱいいっぱいですので」

「あ? はい、そうですか……おい稲水、あんまり妹さんに心配かけさせるな! ついでに俺にもな」

「ああ、ありがとう、加園……」

 ハルは唇をとがらせる加園に対し、これ以上はない、妖艶で慇懃いんぎんな笑みを贈った。

   

「なかなかにおもしろい男だったな」

 車をホテルニュー帝円へと走らせる稲水の肩を、ハルがバンとひとつ叩いた。

「ああ。あのノリで営業をまとめあげる才覚は尋常じゃなかった」

「稲水にも信頼できる友だちがいたってことだな。まあ、いい話だ」

「友だち? どうなんだろうな……そんなことよりハル」

「うん?」

「加園が見たのは俺の兄さんだ。おそらく」

「死んでなかったってことなんだろうな。よかったじゃないか」

「まあ。でも、俺らを先まわりして鮫原は蛮夫に殺された。こんな偶然、あるか?」

「なにをいいたい?」

「あれはハルへのあてこすりじゃなかった。俺への嫌がらせだ。兄が蛮夫なんじゃないだろうか? 一度、義姉ねえさん、茜さんと心中して、なんらかの理由で蛮夫としてよみがえったとしたら」

「そして妻殺しの犯人を捜す弟の目的をはばんだということか? ふん、なにか根拠はあるのか?」

「単なる俺の勘だ。あの兄ならばやりかねない」

「勘か。稲水と兄貴は、そこまでの確執でもあったというのか? あんなくだらない嫌がらせをするくらいに」

「わからない……俺にはわからないよ」

 ハンドルを握りしめ、小さく首を振る稲水。

「そういえば聞いてなかったな。おまえの兄はなんという名前だ」

志幸しこう

「シコウ、どんな字だ」

「志すに幸せ」

「志幸に志朗か、稲水家は単純だな」

「うるさい」

「まあおぼえておこう。志幸蛮夫説もなかなかにおもしろい推論だが、あの蛮夫については私も思うところがある。とにかくホテルへもどれ、稲水」

「了解」

 稲水はアクセルをベタ踏みした。テレワークばかりで人口密度が極端に少なく、若者も外出をひかえている巨大な廃墟のような渋谷の街を。

                             (つづく)

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