第2章 探索 6 先まわり
東京都渋谷区。ホテルでの朝食の後、久永の雑居ビルとは真逆の繁華街へと、ふたりは車を走らせた。
「ここだな」
背の高いマンションを見上げるハル。鮫原朔斗の部屋は908号室であるが問題はどうやって中へ入るかである。当然エントランスはオートロックで施錠されているし、いきなり訪問したところで入れてもらえるとは思えない。あまりにもノープランであった。誰かが出てくるか入る時、素知らぬ顔で侵入するしかないと稲水は考えたが、ハルは手をひらひらと振って笑った。
「私には
そして908のインターホンのボタンを押す。
「蠱惑って声だけでも通用するのか?」
「バカだな。モニターがあるに決まってるだろ」
待つことしばし、しかし無反応。やはり寝ているのか、もしくは留守のようだ。ハルはもう一度インターホンの呼び鈴を押してみるが、やはり反応がない。
「鮫原、バーをやってるんだよな。客足が減って夜逃げでもしたんじゃないか?」
「あり得る話だな」
ちまたでは飲食店の倒産であふれ返っている。蛮夫を恐れて夜間外出する若者も減少傾向にあるのだ。
「仕方ない。ハル、夜になってから鮫原のバーへ行こう」
「じゃ、堂島の病院へ回るか」
『はい』
その時、インターホンからささやくような声が聞こえた。あわてたハルはサングラスを取り、媚びるようなしなを作る。
「おはようございます。私、渋谷区役所の生活安全課、榊原と申します。飲食業をされていらっしゃる方々の苦境を区でも重く見ておりまして、資金の貸しつけ等のご相談にうかがっていますのよ」
おいおい、生活安全課って警察じゃないのか? ハルの口からでまかせに眉をひそめる稲水。
『どうぞ』
しかしモニター越しの蠱惑がきいたようで、あっさりとエントランスの自動ドアが開かれた。小さく親指を立てたハルは意気揚々とマンションに入っていく。エレベーターで九階へ上がり、908号へと向かう稲水は段々と緊張してくる。そして額に浮く汗をぬぐった。
「ハルの目が赤く光れば鮫原が殺人犯で決定なんだよな」
「ああ。朝子殺しとは限らないがな。ほかにも人くらい殺してそうな顔してるからな」
「ひどいいいぐさだな」
「稲水、おどおどするなよ。おまえの妻の浮気相手なんだ。堂々としていろ」
「それもそうだな」
鮫原の部屋のネームプレートは無地で名前は書かれていなかった。ハルは室番を確認するとドアホンを鳴らす。二度、三度と。
「こんにちは、渋谷区役所の榊原です」可愛げな声で鉄扉に話しかけるも返事がない。「なんなんだよ!」
イラついたようにドアノブに手をかけるハル。すると扉がスイと開いた。
「あれ、開いてる」
意外そうに稲水と目を合わせるハル。サングラス越しにうなずき合ったふたりは、おじゃましまーすといいながら室内へと入っていった。そして中へ入るなりむせ返るような異常な臭気につつまれた。
「なんだ、この臭いは」
「血だ。血の臭いだ!」
ハルは靴も脱がずにリビングルームへと駆けこむ。稲水も後につづいて走る。そしてひと目見るなり悲鳴をあげた! 血まみれの鮫原朔斗があお向けに倒れていたのだ。しかもその左胸には穴が開き、心臓をもぎ取られていた。生きていないことは一目瞭然である。ガタガタと震え、口元を押さえた稲水は吐きそうになった。食べたばかりであった朝食を根こそぎもどしそうになる。
「蛮夫か……しかし、なぜ」
あごに手をあてて首をひねるハル。稲水は
「稲水、まさか警察を呼ぶ気じゃないだろうな」
「え? だ、だって」
「余計なトラブルはごめんだ」
ふたりの目の前で白っぽく変色をはじめた鮫原の死体はみるみるうちに砂山と化していた。あちこちに飛び散っていた血液もすべてて砂塵と化している。
「死体は消えた。これではただの失踪あつかいだろう」
「だけどこれは蛮夫の特性だろ? せめて警察に捜査させないと」
「黙れ。私もヴァンプだということ忘れたか! それに……ひとつ思いついたことがある」
「ハル、なんだ?」
「うん。とにかくここに長居は無用だ。ホテルにもどるぞ」
「ホテル?」
ハルは首に巻いたスカーフでドアノブの指紋をぬぐい取ると何事もなかったかのように室外へと出ていった。稲水は白色の砂となった鮫原に手を合わせて後を追うしかなかった。
「インターホンに出た男が蛮夫だったってことかな」
車に乗りこみ、少し落ち着いた稲水がたずねた。そして思った。鮫原にしては顔に似合わず実にやわらかな声であったと。
「おそらく。しかし問題はなぜ先回りされたのかだ」
「目的もわからないよな」
「いや、目的はわかる」
「わかるのか?」
「ああ、私へのあてこすりだろう」
「あて……ハル、まさか蛮夫と知り合いなのか? 嘘だろ!」
「大声を出すな。警察がメンツをかけて蛮夫捜査にあたっているこのご時世だぞ。誰かに聞かれたらどうする」
「ああ。でも本当に顔見知りなのか?」
「顔を見たわけではない。断定はできないが……」
突然、コツコツと運転席側のドアガラスが叩かれた。稲水はそれこそ飛び上がらんばかりに小さく叫び声をあげた。
(つづく)
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