第3章 死闘 2 耳

「もしもし、一ノ宮ですが、どなたですか?」

 誰なのか不明なので、いちおうていねいに応対するハル。

『…………』

「間違い電話か?」

 鼻で息を吐き、切ろうとしたハルの耳に聞こえてきた。その声は──。

『僕……死にたくない』

「!?」

 目をむき、鳥肌がハルの全身を駆けめぐった。異変に気づく稲水。

「ハル、なんだ、誰だ!」

『……死ぬの怖い……お晴さん』

 周囲に人がいないことを確認したハルはスマホをテーブル上に置いて、痙攣気味の指先でスピーカー音声に切りかえた。

『お晴、さん……』

「…………」

 ハルは戦慄で黙りこんでしまった。

『なーんてね、あっは。笑えるでしょ? お晴さん』

「彦佐ぁ?」

 思わず声が裏返る稲水。広大なレストランをぐるり見わたすハル。

「てめぇ、どこだ?」

 奥まった席にかけていたふたりから見ればはるか遠く、券売機が設置されている出入口のあたりに、片手を左右に振っているフードつきレインコートをまとった男の姿があった。

「彦佐!」

 サングラスをかけたハルの目が、閃光のごとくひらめく。

『待って!』

 立ちあがろうとしたハルを彦佐が制した。スマホからの声を怒鳴りつけるハル。

「待てるか!」

『声、大きいなぁ。お晴さん、待ってよ。今、僕の近くに清掃スタッフのおばさんと、傘をさして車から駆けて来る、三人連れの親子がいるんだ。喰ったらうまいだろうな……』

「おまえ!」

『少しでも動いたら四人、死ぬよ。どうする? お晴さん』

「く……」

『雨の日は憂鬱だねぇ。この雨音、むしゃくしゃする。こんな日はぱぁっと殺したくなるでしょ? 人間をさ』

「なるか、ボケ!」

『そうだ。この雨じゃ、あっという間に流れて排水溝行きだろうね。砂になったらさ』

 上下の歯をギリギリと噛みしめ、くやしさに震えるハルは、上げかけていた腰をストンと落とし、ガタンと椅子を鳴らして大きく足を組んだ。

『相変わらずの真っ直ぐな心根が素敵だな、お晴さん。あなたも人喰いなのに』

「黙れ、彦佐。やみくもに人を喰ってはいけないと、あれほど教えたはずだろが」

『そうだけど、人肉の味を教えてくれたのもお晴さんだったよ。おかしくない?』

「…………」

 言葉につまるハル。すでに舌戦でも負けはじめているようだ。稲水の不安はますますふくれあがっていく。

『おいしいってわかっているのに食べなけりゃ帝都、じゃない、東京都民全部が絵に描いた餅になってしまう。そんなのもったいないよ、ねえ稲水さん』

「はぁ!?」

 いきなり振られた稲水は硬直してしまう。

「どうして私の携帯番号を知っている?」

『お、話題を変えてきたね。お晴さん、僕の勝ちだ』

 凍りつきながらも、そのとおりであると稲水も思った。

「だからどうしてだ!」

『お晴さん、ニュー帝円に入った夜、稲水さんと番号交換してたでしょ』

「初日から盗聴してたのか。ストーカーか、おまえ」

『心外だなあ。大正の御代では借りを返せなかった。だから令和では借り、きっちり返すつもりだよ』

「そんなものいるか!」

『いらなくても返しますって。百年は土の中で眠ってもらうから』

「なんだと」

『百年後に掘りおこしてあげる。ああ、タイムカプセルみたいでいいな』

「お話にもならない。彦佐、ガチの殺し合いで私に勝てるつもりか!」

『そうだな。やってみないとわからないけど……少なくても稲水さんは、僕が優勢だと思っているようだよ』

「なにをいう。稲水は私の実力を──」ハルが目を向けると、稲水は視線をそむけた。「稲水、てめぇ!」

『あははは、内輪もめはやめてくださいな。そうだ、敬愛してやまないお晴さんを見習って、僕も話題を変えようかな? あ、清掃のおばさんや親子連れはいなくなったけど、高速バスから団体さんが降りてきた。いやぁ、みんなうまそうだ』

「とっとと話題を変えろ!」

 テーブルの角を握りしめ、そして動けないハル。

『あい、おおせのとおりに。……お晴さん』

「なんだ」

『さっき、大正時代の僕の氏素性、アナザーストーリーを涙ながらに語っていたよね』

「誰が泣いた? ああ、またぞろ盗聴か、どこまでワンパターンなんだ、おまえは!」

『はいはい。でもあの話、全部、嘘だから』

「なに? なにが?」

『僕は裕福な呉服屋の三代目で、いわゆるボンボン。お坊ちゃまなんだ』

「はぁあ!?」

 同時に声を張りあげるハルと稲水。

『もうひとついえるのは放蕩息子だってことかな』

「なに妄想たれ流してやがる。飢えて、スリやらかっぱらいで食っていたガキが」

『そりゃ飢えますよ。呉服屋なんて地味な商いに僕は向いてなかった。年がら年中、着の身着のまま家出を繰り返していたんだから。いつも親父に見つかっては連れもどされていたけどね』

「嘘だ……」

 あからさまにショックを受けているようなハル。

『そうそう、初めてお晴さんにご飯をごちそうしてもらった時、僕、泣いたよね? あれさ、本当はまずかったんだよ。それで涙が出ちゃったんだよね。お晴さんが美人だから我慢して食べてたんだけどね。僕、女には目がなかったからさ』

「でたらめを! まだ下の毛もはえそろっていないガキだったくせに!」

『いやいや、僕、十歳にはもう筆おろしをすませてたから』

「なんだと」

『住み込みの女中が夜這いをかけてきてね、欲求不満だったのかな? 僕のいちもつをなでたり、つかんだり、しゃぶったり、さすがの僕も初めは驚いたよ。だけどしまいには後ろから女中の尻をつかんで腰を振っていた。気持ちよかったぁ、まだ精液は出なかったけどね。それから病みつきになったんだ。片っぱしから女中たちに手をつけたりして』

「彦佐……」

『はいな』

「だったらあれはなんだったんだ。真っ当に職探しをしていたんじゃなかったのか! 職に就いてもクビになり、殴られて傷を作って帰ってきたこともあったじゃないか! なんだったんだ!」

『真っ当に、簡単にやれそうな女を捜していたんだよ。令和でいうところのナンパ? 僕のこの美貌でしょ? 十中八九、そば屋の二階にしけこめたよ。ああ、でも、お晴さん以上にいい女はいなかった! これは本当』

「知るか!」

 大正時代、そば屋の二階が現在のラブホテルとして利用されていたという事実がある。当時の人間はそば屋と聞くと、エロティックな感情がめばえたという。

『傷を作って帰ってきたのはね、親父が雇った追っ手がヤクザものだったからかな? なにしろ容赦ないんだよ、連中ときたら。逃げ回るの大変だったんだ』

「……あの書きおきは? なんで命にかかわるような梅毒にかかった?」 

 意気消沈を隠せないながらも、質問を継続するハル。どこか美化された想い出をあきらめきれないのかもしれない。  

『あれね。あれは、やっぱりヤクザものに追われて、いよいよ家に連れもどされる寸前に走り書きしたんだ。お晴さんとは切れたくなかったからさ、ちょっと格好をつけてみたんだ。また再会した時の伏線としてね。

 とどのつまり自室へ幽閉されることになったんだけど、また女中を誘惑してヤッたり、抜け出して家の金で遊郭遊びにうつつを抜かしていたら、いよいよ勘当されたんだ。間が悪かったぁ、ほうり出されたあとだよ、女郎屋で病気をうつされていたのを知ったのは。腹立たしかったから、女どもにうつし返してやりたくて、有り金はたいて女郎屋に通い詰めたんだ。何人、ばいにかかったかなぁ、まぁ知るよしもないけど。そんなことしてれば死ぬよね、普通。うつしうつされで、病状は悪化の一途をたどるしかないから。あのころペニシリンがあったらなぁ』

「最低だな……腐ってる」

 思わずつぶやく稲水。もはや言葉も出てこないハル。

『ああ、腐ってるよ、稲水さん。一度死んでるのに火葬もされていないんだから。でもお晴さんが新たに命をくれた、生かしてくれた。そして女を犯す以上の快楽、食人を教えてくれた。感謝にたえません、お晴さん』

「彦佐」

『はいな』

「殺す」

 噛みしめるように短くいいきるハル。

『お待ちしておりますが、いつやります? 僕としては今でもいいんだけど。やりましょうよ、殺し合い。衆人環視の中でさ。この一年で僕はお晴さんの何十年分もの人を喰らった。今じゃ人喰いヴァンプとしては、僕の方が格上だと思うよ』

「勝手にほざいてろ!」

 ふたたびび立ち上がりかけたハルの手首を、稲水がつかんだ。

「やめておけ。格下の挑発に乗ってどうする!」

「稲水、やっぱりおまえ、この私が負けるとでも思っているのか」

「そうじゃない。けど、なにかおかしい」

「なにがだ」

「俺もハルも奴の盗聴には危機感を持っていた。盤石とまではいわないが、盗聴に関しては万全の対策を取っていたはず。どうしてことごとく上をいかれる? ホテルから尾行されていたんだとしても、ここでの会話を聞かれていたってのはどうにも解せない」

『いよっ! 稲水さん。ようやくそこに気づきましたか』スマホを肩と頬にはさんだ彦佐が、パチパチと拍手している。『僕からは逃げられませんよ』

「稲水、どんなからくりなんだ?」

「それは俺にもわからない。彦佐……」

『ここは、教えてくださいでしょ? 稲水さん』

「くぅ……教えてください。彦佐さん」

『だいたいお晴さんはともかく、稲水さんに呼び捨てさ──』

「いいから、からくりを説明しやがれ!」

 ハルの剣幕、大音量にスマホを落としかける彦佐。

『そんな大声出さなくても、教えますよ。お晴さんは、人殺しを見分ける目を持っていますよね? たとえ人喰いヴァンプになり果てても本来殺人はいけないことだっていう気立て、正義の心がなせるわざだと僕は思うんだな』

「それがどうした!」

『だから怒鳴らないで。僕にそんな目がないのは、僕には不必要な能力だったってことで、代わりに僕が授かったのは──』

「耳か!」

 思わず声高になる稲水。

『正解。もともと他人のうわさ話や悪口、弱みなんかを聞きつけるのが大好物でね、場合によっては金もたかれるし、女も抱ける。僕が特化されたのは耳だったんだよ。最新の盗聴機器にはかなわないけど、半径ニ百五十メートル以内であれば、どんな会話でも聞き分けられる。すごいでしょ? なにげなく聞き耳を立てているとわかるんだ。ああ、この人、今ひとりだな、周りに誰もいないな、喰いに行こうかな。あ、このふたり、男同士で愛を語り合ってるよ、男色は昔からあるけど僕は好かないなぁ、まとめていただくか、とかね。なかなかに実用的なんだ。あー、若い女はできるだけ犯してから喰うことにしてたよ。蛮夫になっても女好きは変わらなかったなぁ。あはは』

「クソ野郎……盗聴器は無用だったということか?」

『いやいやお晴さん、使いましたよ。あまりニュー帝円の周りをうろちょろしていたら、お晴さんに見つかってしまうでしょ、あの機械も便利な物だ。そうそう便利といえば、僕にはマーキング機能も備わっていてね』

「マーキング?」

 眉をひそめるハル、そして稲水。

『犬が電柱にかける小便みたいなものでね。さて種明かしはここまで。どうするお晴さん。ここで一戦交えるかい?』

「やりたいのかよ、彦佐」

 挑戦的にたずねるハル。

『ああ、やりたいねぇ。だっておかしいでしょ? 同じヴァンプ、同じ殺人鬼なのに僕だけが蛮夫として指名手配犯なのは。ここでド派手に戦って、なんなら激しい空中交尾でもして動画に撮られて、SNSにあげられて、ともに逃亡犯になりましょうよ、お晴さん』

「絶対やめろよ、ハル!」

「稲水、わかっている。むざむざ彦佐の思うつぼにはならん。なにが空中交尾だ!」

『僕がバックを取ればやりかねないでしょ?』

「くだらん。てめぇ、のぼせるな。おまえと私は決して同じヴァンプではない! とにかく日をあらためる。周囲に人がいては勝負に集中できない」

『うふふ。おバカだねぇ、お晴さん。他人の命を気にしながらの殺し合いじゃ分が悪いっていうの? そんな甘い考えをしてるから稲水さんが心配するんだよ』

「黙れ!」

『まあ、いいよ。日をあらためましょう。僕も本気のお晴さんを倒したいから。場所と日時を決めたらこの番号に電話をくださいな。どこへでも駆けつけますから。では、僕はいなくなりますが、お晴さん、これから三十秒間は席を立たないでください。げんまんですよ』

「なに?」

『約束を破ったら、誰かれかまわず喰い殺すのでよろしく』

「くそが!」

 入口付近で手を振りながら、彦佐はレインコートのフードを下し豪雨の中へと走り出す。くやしそうな表情で、レディースウォッチの秒数をはかるハル。彼女のこの生まじめさ、真っ直ぐな気性が吉と出るのか、凶と出るのか。稲水にはそれこそ計り知れなかった。ただ、これまでのやり取り、前哨戦においては、ハルが彦佐に完敗であったことだけは確かであった。

 そしてもうひとつ、マーキング、犬の小便。その言葉が意味するのものは、いったいなんだ? 稲水の思惟を破るように椅子を蹴散らし、ハルが脱兎のごとく駆けだした! さすがはヴァンプ、目にも止まらぬ駿足である。あわてて後を追う稲水。三十秒が経過したのだ。 

 土砂降りの中、ずぶ濡れになるのもいとわずサービスエリアのパーキングに立ったハル。そんな彼女に笑顔を向けて、4WDの運転席から二本指でちゅっと投げキッスをし、水しぶきを立てて車を急発進させる彦佐。

「わぎゃぁあああ!」

 強い雨に打たれながら咆哮ほうこうするハル! たまたまそばを通りかかっただけの中年夫婦は、その忿怒ふんぬに満ちた怪鳥音と空気の震えに仰天し、思わず傘とバッグを取り落としてしまった。

「──ハル、風邪ひくぞ」

 彼女の背後から傘をさしかける稲水。

「バカめ。ヴァンプが風邪菌ごときにやられるか」

「とにかくトイレで着がえてこいよ」

「そうだな」

 びしょ濡れで下着のすけたハルを見て、稲水の下半身はほんの少しだが、反応してしまった。彼は、とても恥ずかしく思った。ハルの命が脅かされている、そんな場合ではないのだ。

 稲水には朝子殺しの犯人探索が、もはやついでの事案だとさえ思えた。

                             (つづく)

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