第3章 死闘 1 河原者
「彦佐は、あいつはいわゆる河原者でな、いにしえの言葉でいえば非人と呼ばれた集落に生を受けた子だ。明治の御世に四民平等が政府によってかかげられたあとも、大正になってまで彼らへの
「今でもたまに聞くけど、なんかピンとこない話だな」
稲水が眉をひそめると、ハルは薄く笑みを浮かべる。
「稲水はそれでいい」
「いいのか?」
「いいんだ。そんなわけで彦佐の父はろくな職にもつけず物乞いをして暮らしていた。小学校も満足に行けず、つねに飢え、渇いていたあいつは生きるため、盗みやかっぱらいスリなどで口を
「地獄だな」
「そう地獄だ。一方、帝都東京は大正ロマンなんて言葉に象徴されるように和洋折衷の文化が花開いた時代でもあった。モボ、モガ、なんてのも現れてな」
「モボ?」
意味がわからない稲水は、あとで検索しようと思う。
「往来や繁華街を颯爽と歩く、そんな華やかな人々を横目に、あいつは東京を憎んだ。東京に住まうすべての人間を憎んでいたんだ。その感情は稲水の比じゃなかったと思うがな」
「……次元の違う話だろ。でもだから、彦佐は都内限定で人を喰っているのか」
「かもしれん」
「ハルとはどんな出会いだったんだ?」
「確か彦佐が十一歳のころだ。こともあろうにあいつは、繁華街の中で私の
「当時も華やかな金持ちだったんだろうな、ハルは」
「まあな。当然、私はあいつの腕をひねりあげ、ふんづかまえてやった。だが、その腕のあまりの細さに驚いてな。飢えていると瞬時にさとった。逃げようとジタバタと暴れるあいつを蠱惑で黙らせ、飯屋へ連れていき、たらふく飯を食わせてやったよ。あいつ、泣きながらうまい、うまいってな。姉ちゃん、うまいよって。可愛かったな、あの時の彦佐は」
「いいことしたじゃないか。人喰いヴァンプのくせに」
「黙れ。単なる気まぐれだ。いや、気まぐれだっただな。それが縁でたまに待ち合わせては飯を食ったり服を買ってやったりが習慣になっていった。あいつはヒモみたいで情けないなんて生意気をぬかしていたが、子供は飯食って育てばいいんだ、大人になったら借りを返せ。そう話したら素直にうなずいてくれたっけな」
薄笑いを浮かべて遠い目をするハル。
「いい子だったんだな」
そういうしかない稲水。
「だが、いつまでも子供でいられるわけもない。成長し、背丈もいつの間にか追いこされた。そして身なりが整い、血色もよくなると、彦佐は、自分がなみ外れて美しい男であることに気づきはじめた。あいつが街を歩けば、男も女も目を奪われ、二度見するんだ。ガキの時分は鏡なんて見たこともなかったんだろうけどな」
「ははん、美男美女か。ハルと一緒に歩いていたら大変な騒ぎになっただろうな」
「当然。だが、私はヴァンプだ。目立つのは本意ではない」
「当時、サングラスはあったのか?」
「江戸のころからあったよ。色眼鏡というやつだ。だが、あの時代じゃかえって目立つ。つねにスカーフで顔をおおい、ショールをかけていた。いつでも目を隠せるようにな」
「いつの世でも大変だな、ヴァンプは」
「ふん。いつだったか彦佐の奴が妙に羽振りがよくてな。今日はおごるよ、なんていわれて。食事をしながらよくよく話を聞くと、あいつ金持ち相手の男娼になっていやがった。女だけじゃない、男にも身体を売っていたんだ。あのご面相だ、トップクラスの人気を得ていたらしい。これは金持ちどもがはびこる帝都東京を色と欲で
「お晴さん、僕の女になってくれ。そうしたら、そうしたら、真っ当になる。きっとだ」
「告られたのか」
「ああ。多少驚いたが彦佐ももう十六。その日から常宿としていた、その、なんだ、ホテルで同棲をはじめた」
「ホテルニュー帝円? あの客室で?」
「まあな」
「……ふうん」
「稲水」
「なんだよ」
「男の焼きもちはみっともないぞ」
「そんなわけあるか! それで、彦佐は男娼をやめたのか?」
「ああ、きっぱりとな。だが、真っ当であろうとすればするほど、あいつは追いつめられた。真っ当な世の中では彦佐はただ顔がいいだけの、差別されるのが当然の非人だったからだ。一度職にありついても素性が知れたとたん問答無用で解雇される。追いすがっては殴られる。その繰り返しだった。なまじいい男だったせいで、周囲のやっかみもあったのだろう」
「そんな、理不尽な」
「今ならモラハラ、パワハラで訴えてもいいようなレベルだが、そんな時代だったんだ」
「──それで彦佐は?」
「出ていったよ。たった一行の書きおきを残してね」
「なんて?」
『借りを返したかった。いつまでもお晴さんのヒモではいたくない』
「それだけ?」
「それだけだが、私には十分伝わったよ。わかるだろ?」
「わかる」
「だから私も彦佐を捜したりはしなかった。去る者は追わずだ」
「…………」
「ところが次の年の夏、夜だった。しこたま飲んだ帰り道、ニュー帝円への道すがら、倒れている彦佐を見つけた。酔ったせいで見たまぼろしかと最初は思ったよ。こんな偶然、あるはずはないと。だが、少し頭が回ればわかることだった。偶然ではなかった。あいつは私に会いに来る途上で倒れた、そうに違いない。あいつはガキのころのように飢え、やせこけた身体で、全身を赤いまだらのような斑点におおわれていた。私にはすぐピンときたよ。梅毒の症状だってな。彦佐は、また男娼をしていたのだと」
「生きていく、ためだった、のだろうな」
「ああ、そうだ。彦佐はもう虫の息だった。医者を呼んでも無駄であることは一目瞭然だった」
「……お晴、さん」
「彦佐、なんだ? 私はここだ、彦佐!」
「お晴さん、お晴さん……」
「なんだ、彦佐!」
「僕……死にたくない……死ぬの怖い……お晴、さ……ん」
「…………」
目頭を押さえて唇を固く結んでいるハル。コップの水を一気に飲みほす稲水。食べかけのざるそばは、すっかりのびきっているようだ。
「それで……彦佐を、蛮夫にしたのか。ハルが」
ハルはコクンとひとつ、うなずいた。ドライブインレストランの天井を仰ぐ稲水。その結果、大正時代には帝都東京への憎しみの激情に飲みこまれた蛮夫の大量虐殺が約半年間もつづき、復活した令和の世でも現在進行形で継続中となったのだ。
「ハル」
「なんだ? すべて私のせいだとでもいいたいのか。否定はしないが」
「違う。殺せるか、かわいそうな彦佐を。やめるか? もうやめようよ、ハル」
「どういう意味だ」
「もし今度戦ったら、ハルが負ける気がする」
「なんだと」
テーブルに両手をバン、と音を立ててつき、立ちあがりかけたハルのポケットの中が鳴動していた。鳴りつづけるスマホのヴァイブレーション音。不審そうに着信画面を見るハル。
「誰だ、ホテル? 久永さんか?」
「いや知らない番号だ──」指をスライドさせ電話に出るハル。「もしもし」
『…………』
ハルに電話をかけてきた相手は無言であった。
(つづく)
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