終章 1 睦言(むつごと) 生誕の記 女だから……
──ハルの脳裏にはしっかりと刻まみこまれれている。稲水志朗と初めて寝室を共にしたあの日のこと。事後の
彦佐のマーキングをタバコの先端で焼いたハルは、あらためて、一糸まとわぬ姿を稲水の前にさらしてみせた。
「なあ、稲水」
「うん?」
「私の体、どう思う?」
「体? 本音で答えてもいいのか?」
「本音か……いってみろ」
目をふせるハル。
「アスリートみたいに引きしまっていて、二の腕も腹筋もバキバキ、余分な肉が一切ついてない」
床に目を落としたまま、ふふふと笑うハル。
「ヴァンプは日常生活においても人間の十倍はカロリー消費するからな。ダイエット不要だ、うらやましいだろ。それで?」
「筋肉に皮膚が張りついているようなのに、甘く、まろやかだ」
「ふふん、朝子仕込みか? 口がうまいな」
「違う。本音だといったろ……すごく、なんていうか、ハルは神々しいと思う」
「神々しい? 神か? どちらかといえば人を喰う悪魔だろ、人間からしたら」
「いや。納得はできないだろうけど、神に近いと思うよ、ハルは。前にいわなかったっけか、俺さ、永井豪のファンなんだよ──」
「はぁ? だからなんだよ」
「大魔神サタンは両性具有の堕天使だった」
「『デビルマン』か、好きだな本当に」
ふんと鼻で笑うハル。
「おっぱいが女性を象徴しているのだとしたら、ハルは男女の性別を超えた特別な存在だと俺は思う。中性的というか、まさしく堕天使、神の子だ」
「嬉しくない! なんといわれようが私はこの胸が嫌いだ!」
「俺は好きだよ」
「黙れ、ロリコンめ!」
「違うと思うけど。朝子はCカップだったし」
「だから、アバズレと比べるな!」
「そうだったな、悪い」あわてて動かせる片手を顔の前に立てる稲水。「あ、でも、光源氏の時代から日本の男はロリコンなんだそうだよ。俺、ハルの影響で古典も少し学ぼうかと思ってる。今は検索ていどだけど」
「ふん。殊勝なふりして、またごまかしか?」
やれやれ、といった表情の稲水は言葉をついだ。これだけは聞いておきたかったのである。
「八百屋お七についてもちょっと調べた。ハル、まさか江戸の町に放火なんてしてないよね?」
「誰がするか!
くやしそうに唇を噛みつつシーツをもち上げ、稲水が横になるベッドへもぐりこむハル。
「無実の罪で火あぶりの刑かよ……ひどいな。ひどかったな」
稲水はやさしくハルの髪をなでる。
「ふふ……稲水、前に聞いたよな? どうして私がヴァンプになったのか」
「まあ。あまり話したくなさそうだったからあれ以上、詮索しなかったけど」
「そりゃ話したくもないさ。ヴァンプになった原因が色恋
「……全身を炎に焼かれて、ハルはヴァンプに、なったのか?」
「ああ。ただの炎じゃない。怒りと地獄の業火だ」
「怒りと地獄……」
稲水の胸に頭をおいたハルはぽつり、ぽつりと語りはじめた。ヴァンプ生誕の記を。
寛文六年、西暦でいうのなら一六六六年に私は、江戸の駒込で生を受けた。私の家はそこそこ繁盛している植木屋でな、当時としては恵まれている方であったといえるだろう。なに不自由なく育てられ、それなりに誠実に生きていたと思う。
数え年で十八、満でいえば十七のころだ。私もご多分にもれず恋をした。武家屋敷に住まう若いお侍であった。もちろん町娘とお侍では身分が違う、しかしお互いを憎からず思い、逢瀬を重ねていた。そんなとき彼の住まうお屋敷で火災が起きた。ボヤていどで消し止められたものの。なんとこの私が火つけの犯人として捕縛された。火災現場に私のかんざしが落ちていたというのだ。
火つけは当時、重罪。生きながらの火刑と決まっていた。私は有無をいわせず罪人と断じられ、拷問され自白を強要された。もちろん放火などしてはいない。どうして愛しい男の住む屋敷に火などつけるものか。何度もお上にそう訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。
市中引きまわしの上、刑場へと連れていかれる際、私は見た。見物人の中に凶悪な目をしてほくそ笑む女の姿を。女は武家の娘で、話したとおり私の恋敵、同じ男に恋をしていた。
女は町人の娘と男を競うなんてことは我慢ならない、よくそううそぶいていたそうだ。私はピンときたよ。この女にハメられたのだと。もしかしたら役人も事の真相をわかっていながら、町人の私を罪人に仕立て上げたのかもしれない。
あまりの理不尽さに怒りがこみあげてきた。あの時代に理不尽なんて言葉があったかどうかは、もうおぼえてはいないがな。
竹で組まれた罪柱に縛られ、薪の上に立たされ、藁で全身をおおわれて火がかけられた。まさしく地獄の苦しみよ。体を焼かれながらのどや肺も煙で
身を焼かれながら私は第六天の魔王に願った。この苦しみをあの女にもあたえよ、私をくだらん小づかい稼ぎで罪人として裁いた役人どもを八つ裂きにせよとな。
「第六天の魔王?」
「簡単にいえば悪魔、稲水の好きなサタンだよ。確か延暦寺を焼いた織田信長が、武田信玄に名のっていたな」
「ハルの怒りが願いをかなえたのかな?」
「さあな……かもしれん」
処刑が終わると罪人ははりつけにされたままの
しかし気分は爽快、体には力がみなぎっている。そして、どうしてだか人の生き血をすすりたいという欲望にとらわれた。人の肉を喰らわなければ死ぬと、本能が私に教えていたのだ。私はもちろん、その足で女の住む屋敷を襲撃し、女とその家人すべての血肉をむさぼり喰った。私を殺した女の血は取りわけうまかったよ。
あはは、私を裁いた奉行所の連中も白昼堂々のりこんでみな殺しにしてやった!
なんだよ、稲水、その顔は? みな殺しはやりすぎだとでもいいたいのか? 仕方がないだろ? あの時の私は、ヴァンプの力もなにもかもわからない初心者だったのだから。しかもまだ十七だった。現代なら更生少年院に送られるていどですむ罪状だろが?
わかってる。三百五十年以上も昔の話だ。もう時効でいいだろ? 悪かった、申しわけないことをしたと、今では思っているんだ。
「そうか、ならいい」
「稲水、頼むから私を彦佐と一緒にするな」
「しないよ、ハル」
それから私は両親や顔見知りの多い江戸をはなれて日本各地を流転した。大切に育ててくれた親を、悲しませるわけにはいかなかったから。
「ハルらしいな」
「ふん、そうか?」
で、どこへ行こうと寝床に困ることはなかったよ、この美貌のおかげでな。
「ははは、だろうな」
「うむ」
まあ半分冗談だが、ヴァンプの能力のひとつに蠱惑というものがあるのに気づいててな。その気になれば男でも女でもたぶらかすことなど造作もない。そうして人気のない場所へと村人を誘いだしては手当たりしだいに生き血をすすり喰い殺したものだ。なにしろ砂になって死体が残らないからな、神隠しにでもあったのだろうとどこの村人も考えてくれたようだ。
しかし食事を誰かに見られたこともあった。そして鬼女がでたとか、
稲水、おまえだってそう思うだろ? だが人はどんなに腹が立とうが、憎もうが恨もうが、一線を越えることはめったにしない。人は、人を殺さない。がんばって殺さないんだ。これは人の持つ美徳。えらいものだと思うよ、私は。
だが簡単に一線を越える者もいる。快楽や愉悦、ささいな金のために人を殺す者もいる。私をハメたあの女や役人みたいにな。
そして、そんな者は人ではない、私も人ではない、化け物だ。そして一線を越えた者も私と同類、化け物とみなす。いっただろ? 私は地獄の裁判官であると。
こうして私は年に一度、私の同類を裁くことに決めた。飛縁魔は別名、
第六天魔王に願い、業火に身を焼かれて誕生した私の名にふさわしいと思ったよ。私はこの世の悪党を裁くために生まれてきたのだと、おのれの使命を実感したのだ。
ただ飛縁魔は女の色香で男の身を滅ぼす九尾の狐が正体であるともいわれていてな。それがどうも気に入らない。
そんなとき、あれは一八一〇年ごろだったか、たまたま絵草子屋で見つけた『餓鬼絵巻』という本の中で蛮なる女、蛮婦という名を見つけたんだ。蛮婦は女でありながら色香に頼ることなく、数百人の武将と対峙しても互角にわたり合ったと伝えられる戦乱の世に現れた女怪なのだという。風のごとく野を駆け、力が強く米俵を片手で持ちあげることができたのだそうだ。
私はこれだ、とひざをたたいたね。蛮婦、いいじゃないかってな。
その後、明治の御代となり西洋の知識や技術の恩恵を受けるうちにヴァンパイアなる吸血鬼の存在を知った。西洋かぶれだと思われるのははなはだ心外だが、蛮婦よりヴァンプの方がより
ふふ、しかしおまえが楽し気に笑う顔は悪くないぞ。おおざっぱではあるが、まあこんなところかな? 私が語るヴァンプ生誕の記は──。
「ハル……ありがとう」
「なにがだ?」
「過去を、話してくれて」
はん! と稲水の胸から顔を上げるハル。
「こうなったんだし、いきがかり上、仕方あるまい。このキモオタ、ロリコン野郎が!」
「はは、俺、キモいか?」
「キモいな。だが嫌じゃない」ハルは、その少年のような薄い胸に稲水の頭を手繰りよせ、稲水の視界をふさいだ。「この乳は私にとってはコンプレックスにほかならない。もう見るな、見せない!……ああ! あのとき第六天魔王になんで私は願わなかった!? 乳も人なみにしてくれと!」
ハルの胸でふがふがとしながらも笑顔の稲水。
「初めてこの別荘にきたとき、俺、泣いただろ?」
「ああ、子どもみたいにピーピーと。情けない男だ」
「否定しない。だが、あてにしている、そういってくれて、俺は死ぬほど嬉しかった。あのときハルは俺を胸に抱きしめてくれた」
「そんなこともあったな」
「あのとき違和感を感じた、ハルの胸に」
「そうか……シリコンだとバレていたのか。ここへきた時点で」
「ああ」
「隠していたのがバカみたいじゃないか!」
舌打ちをするハル。
「でも、俺はきれいだと思うよ……俺からしたら、おっぱいが大きかろうと小さかろうと関係ない。ハルの胸であれば、それだけいい。俺は、大好きだ」
「ふん。ただで抱けたからだけだろ? Cカップの女が好きなんだろが!」
「……本当にそう思うのかよ、ハル!」
怒気をふくんだ稲水の真剣な瞳に、とまどうハルは、ふてくされたように目をそらす。
「ありがとうよ、稲水……嬉しいぞ」ポンポンと顔を上げた稲水の頭を何度も叩くハル。「だが、嫌いなものは仕方ない」
「あ、そうか! だから彦佐もハルの胸をさらさなかったのか!」
嵐の夜の対決のとき、彦佐がナイフで切り裂いたのは彼女の背中であった。
「おそらく。あいつは私のコンプレックスを知っていたからな」
「だけどさ、コンプレックスなんて、ハルらしくないだろ? つねに上から目線のくせして!」
「ふふふ。江戸、寛文の世で私が愛した男は別だったがな」
「あ? 初恋の男のこと?」
「まあな。あいつは私の美貌と、あの女の胸の大きさを天秤にかけていた。あの性悪武家女と……こんな胸で、子供に母乳をちゃんとあたえられるのか、あっちの方がいいか、そんなふうにな。私が刑場で焼かれたときも、おそらく冷静に見ていたことだろう。子孫を残せなければ女には存在価値のない、そんな時代だったんだ」
「…………」
言葉もない稲水。
「ああ、あれは昭和の初め、
「なにを?」
「こんなしょんべん臭いペッタンコのガキに俺は殺されたくない!──ってな。ふざけるな! 人殺しのくせして! はぁ? ふざけるな!」
「ペッタンコ……」
フゥーハッハハ! ハルは笑った。
「ああ、ああ! あんなことばかっりいわれつづけたら、セクシー女ふうに盛るしかないだろ? ペッタンコだと? 小さくても母乳はでるんだよ! 私、こう見えても女だからさ!」
(つづく)
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