終章 2 正体

「は? え?」

 動揺を隠せない稲水。

「稲水……おまえ、誰だ」

 まるで年端のいかない少女のような胸をさらしたハルを見て、稲水は見開いた目を、礼拝堂の床に落とされたボリューム満点のへと移した。

「あ? あ、はぁ? なんで?」

 声が裏返ってしまう稲水。

「稲水は、私がこの胸を嫌悪していることをよく知っていた。に埋もれたいだと? 私を愛してくれた稲水なら、絶対にいわないセリフだ」

「あの……いや、その……」

 しどろもどろの稲水。

「こたえろ、誰だ」

「な、なにをいう。俺だ、稲水だ。きっとヴァンプになったせいで記憶が──」

「ふん、どうやら捜す手間がはぶけたらしい。稲水志朗の兄、だな」

「…………」

「それともというべきかな?」

 こたえない稲水の背後から、その両腕を万力がしめつけるように幸嶋が押さえこんだ。

「吉田のダイイングメッセージの意味が今わかりました! あれは禾(カ)です、のぎへんです、吉田は水と書き残したかったのです!」

「なるほどな」

 薄い胸をしまい、チャイナボタンを留めつつうなずいたハルの前に立つ、ショックを顔いっぱいに広げるまひる。

「蛮夫X……あなたが、吉田の仇、なの?」

「そんなわけないだろ、まひるちゃん」

「気安くアタシの名を呼ぶな!」

 いいながらハルの後ろに隠れるまひる。

「やれやれ困った子だな」

「稲水志幸、悪あがきはやめろ」

 ハルの挑むような視線から目をそらし、稲水は小さくふふふと笑うが、やがてそれは大爆笑へと変わった。彼は大口を開けて笑いつづける。

「気でもふれたのか?」

 ハルの問いに、腹をよじらせながらこたえる稲水志幸。

「うふふ、はは! いやだってさ、古今東西、が決め手で犯人を特定した探偵がいる? いないよね! こりゃ笑えるよ! あはははは」

「いつまでも下品な声で笑ってるんじゃない!」

「──いいよ、わかったよ、ハル」

 ガシッと音を立てて右脚をフローリング床へと叩きつける稲水志幸。そしていとも簡単にヴァンプである幸嶋の腕を振りほどいてみせた。

「稲水志朗はどこだ」

 ハルの質問にはこたえず、志幸はマジックペンで描かれたような左目下のホクロを消した。

「さあてね。それより、乳の大きな女の胸はいつか垂れる。ハルの胸は十年後、百年後も変わらないよね? それはそれで悪くないと思うよ」

「稲水はどこだと聞いている!」

 胸ぐらにつかみかからんとするハルをバックステップで交わし、逆に素早く幸嶋の背後を取り、右手を首にまわす志幸。

「みなさんに比べて、蛮夫としてはまだ日が浅くてね。血でも吸われたら奴隷にされてしまう。ああ、蠱惑もなしで。近づかないでくださいね、この女を一瞬でバラバラに引き裂くよ」

「このていどで私は死にません。春乃さま、どうか吉田の仇を──」

 グイと首を持ち上げられる幸嶋。

「あんたの胃液は強烈なようだ。かけられたらたまらないからね。嬢ちゃん、奇怪な声もダメだからね。へへへ」

 弟とは似て非なる下卑た笑顔を見せる兄。

「我らのこと、実によく調べ上げているようだな」

「まあね」

「よかろう。幸嶋、まひる、この男への手出しは一切許さん。それでいいな志幸」

「いいけど。それでどうするの、ハル」

「幸嶋をはなしてやれ。このふたりが私の命令に逆らうことはあり得ない。それから!」

「なんでしょう?」

「おまえごときが私をハルと呼ぶなど百年早いわ」

「ヘイヘイ。では一ノ宮さん、これでいいですか?」

 志幸が手をはなすとのど元を押さえた幸嶋は、その場に倒れふした。あわてて駆けより、彼女を助け起こすまひる。

「いつどうやって蛮夫となった。なぜ朝子を殺した。どうして稲水志朗にアリバイを作った。なぜ我々につきまとう! 吉田を殺した理由は! そして──」

「わかってるって。志朗はどこだだろ? ひとつひとつこたえるから少し待ってね」

「ああ」

 憮然としてうなずくハル。多数の質問事項を投げかけたのが自身なのだから仕方がない。

「まず俺が蛮夫になった理由からだね。これはまったくの偶然だった。なりたくてなったわけではありませんよ」

「余計な話はいい。端的に話せ」

「ハイハイ。では端的にいうと、朝子を犯そうとして襲ったときキスをしようとして、抵抗したあの女の唇を噛み切ってしまった。それで朝子の血を飲んでしまったからだな」

「はぁ? 弟の嫁を犯そうとした? しかしおまえにも茜という女房がいたはずだろう」

「そうなんだよ。茜もいい女だったけどさ、朝子は童顔のくせして別格に色香があった。俺は志朗がうらやましくて、ねたましくてたまらなかった。それで、ね」

「…………」

 あきれたように言葉をなくすハル。

「簡単に押し倒せると思ってたんだ。当時は蛮夫だの蛮婦が存在することすら知らなかったからね。朝子のぶっ飛んだ腕力にはあぜんとしたよ。そして唐突に意識を失い、次に目がさめた時には蛮夫になっていたってわけ」

「実にくだらん理由だな」

「そういわないでよ、俺には大問題だったんだから! 急に周囲の人間を喰いたくなるし、暴力と破壊衝動は抑えられなくなるし。俺は朝子を待ちぶせて根掘り葉掘り聞いたよ。なにが起こったんだ、どうなったんだ俺はってね。もちろんそのときはごく紳士的にたずねたさ。彼女の化け物っぷりは身に染みていたからね」

「それで?」

「それで俺も怪物になったのだと聞かされた。嘘だ嘘だと電柱を殴ったよ、だけどその裂けた拳があっという間にふさがるんだ。信じられなかった、本当に人間じゃなくなったんだってね。肩を落として見せた俺に朝子は教えてくれた、苦しいが長く人を喰わなくなれば人間にもどれると。

 そしてこうもいった、絶望してどうしても死にたくなったら炎の中で焼けるよりほかに方法はない、それ以外に蛮夫を殺すすべはないとね。それを聞いて俺はほくそ笑んだね、ならばその方法で朝子を殺せるじゃないかってさ。当然の報いだろ、俺を化け物にした張本人なんだから!」

「ふん、それは身勝手な理屈にすぎない。次、五人の浮気男どもを巻きこんだのはなぜだ」

「だって怖いじゃない! ひとりで殺しをしょいこむのは。いいだろう? どうせ連中は不倫なんかするゲス野郎なんだから」

「まあな。ゲス野郎たちのついでに、弟にまでアリバイを作ったのはどうしてだ。わざわざ九州にまで行かせて」

「ああ、それね。志朗には蠱惑がきかなくてビビった。あれはそうだな、朝子からの蠱惑に日々さらされていたせいで耐性というか免疫力がついていたんだろうな」

「そこについては私も同意見だ、それで?」

「志朗と俺は一卵性双生児だ。したがって指紋は違えどDNAは同じ、なにかあったとき、身代わりにさせられるのはあいつだけだ」

「身代わり?」

「だってそうでしょ? 人喰いになったんだよ、喰ってるところを誰かに見られたら警察に追われるんだよ。指名手配だよ。めんどくさいじゃない、そんなの。代わりにつかまってくれる身代わり、必要でしょ? だから鉄壁のアリバイを作ってやったんだよ。吸血で奴隷にして、黙って熊本へ行け、行って自身で場所を探して全裸になり、死なないていどにかげんして崖から落ちろ。そしてこのことはすべて忘れろ。そう命令したんだ」

「ふん、小賢こざかしい……朝子の五股、六股の不倫がマスコミに流出しなかったのもおまえのせいだな」

「ああ。蠱惑を使って実情を調べ、漏らしそうな記者や警察官を喰いまくってやった。なかなかに優秀だろ? 志朗や浮気男どもを面倒から守ってやったんだぜ」

 鼻高々で胸をそらせる志幸。

「確かに優れているらしい、鬼畜としてならな」

「鬼畜で結構。あのころになると蛮夫の力を得たことをもう喜びと感じていたからね。それから二年くらいしてあの蛮夫、彦佐に出会った」

「なに?」

「俺の特殊能力はさ、蛮夫を見分ける目と位置情報を特定できる脳にある。初めは怖かったからね、蛮夫。いつでも逃げられるように与えられた力なのかもね」

「彦佐とつるんでいたのか?」

「いや。あいつは殺しすぎ、やりすぎだとこの俺ですら思ったよ。けどね、なんとなく奴の後をつけて彦佐が喰いそこねたエサをいただくことにした。あいつ、報道を見てどこかで思ってたんじゃないかな、僕、そんなに人間を喰ったっけか、てね」

 くくく、と身を揺らして笑う志幸。その姿を見て吐き気すらもよおすハル、幸嶋、まひる。

「そうそう、そんなとき一ノ宮春乃さん、あなたとも会ったんだよ。彦佐がやけに執着しているらしい女にね。俺には一発で蛮婦だとわかった。あれは渋谷の街だったかな。仰天したよ、あなたと一緒に歩いていた男が行方不明だった志朗だったから」

 稲水志朗の友人、加園が見た男こそが稲水志幸であったのだ。やはり兄弟は互いに互いを行方不明者だと考えていたようだ。

「あのときか、なるほど」

「そこでまた俺は志朗に嫉妬した。蛮婦とはいえ、なんていい女を連れてやがる! 今度こそ必ず奪ってみせる。そう誓ったんだ」

「ああ、そうかい。それで私ら周辺をウロチョロとしていたのか」

 ハルはデュポンのライターでタバコに火をつけた。

「そうさ。ガキのころから陰キャの志朗より俺の方が女にもてたし、バンドも組んでノリノリだった。スポーツもできたしね」

「そりゃなんの自慢だ」

「だが、ここ一番で最高の女、心に残るような宝物を手にしていたのはいつだって志朗だった! 俺はずっとくやしかったんだ」

「当然だ。稲水志朗は、おまえに比べりゃ、最高の男だからな」

「うるさい! なにがどう違うんだ! 同じ顔だろ!」

「ふん……おまえには一生わからん。だが稲水はおまえの妻、茜にあこがれていたようだったぞ。よかったじゃないか」

「知ってる。いい気分だったよ、あいつが朝子を連れてくるまではな……だから茜も殺したよ、喰ってやったよ。志朗へのあてつけにね」

「ふん、悪いがおまえの心の機微きびなどに興味はない。ラス二の質問だ、私が欲しかったのだろう? だったら私を襲えばいい、なぜ吉田を殺した!」

 憎しみをたぎらせるハルの剣幕に、一瞬ビクンと跳ねる稲水志幸。

「あー、俺は台風の晩のあなたたちと彦佐の対決を見ていたんだよ」

「見ていた? ずっとか?」

「まあね。あの雨風の中で決闘なんて正気の沙汰とは思えなかったけどね」

「あの嵐の夜、実の弟がボロボロにされていく様もおまえは見ていたんだな。ただ、せせら笑いながら」

「いけないかな? 実の弟だったのは過去の話で、捕食者とエサの関係にすぎないと思うけど」

「ふん、エサにジェラシーを感じるというのはおかしくないか?」

 唇をゆがめ、ごまかすように首をかたむける志幸。

「なんの話だっけ? そうそうどうして執事を殺したかだったよね。客観的に見て、あの大男は本気をだしているように思えなかったんだ。彦佐を真剣に殺しにかかってはいなかった。俺にはそう見えたんだ。風雨の影響かもしれなかったけど、ちょっと薄ら寒く感じたよ。キレたら実は一番怖いオッサンなのかもしれないってね」

「あながち間違った考察ではないな」

「いずれ一ノ宮さんには近づくつもりでいたからね。一番の脅威は排除しておくべきだと思ったんだ。真正面からぶつかれば、まず勝てないとふんでいたからさ」

「だ、だからって殺すことなかったじゃない!」

 奥歯をくいしばりすぎて、ふさがりかけた左頭蓋から血液をピューピュー噴き出しているまひる。その一見、滑稽こっけいにすら見える姿に爆笑した後、まひるにすごんで見せる志幸。

「殺さなきゃ、俺が殺されるだろ? お嬢ちゃん」

「あんたなんか──」

 拳を振るいかけたまひるの頬を打ったのは、こめかみにビキビキと青筋を浮かせている幸嶋であった。

「春乃さまの指示にしたがいなさい、手出しはなりません」

 泣きながらうなずくまひる。

「いいね。使用人教育が行きとどいているらしい」

 唇を焼きそうなタバコを吐き捨てたハルは、乱暴に踏みつぶした。

「最後の質問だ。志幸、稲水志朗はどこだ」

「その前に一本、俺にもタバコをくれないか? 一ノ宮さん」

「てめぇ、なんのつもりだ」

「それを話したら彦佐みたいに焼き肉にする気なんだろ? はっはぁー、怖いよ」

「まずは稲水の保護を優先する」

「ほおお、愛されてるね志朗は。いいなぁ」手をさしだす志幸。バシンとタバコの箱をその胸に叩きつけるハル。「一本吸ったら話してあげる。火もくれよ」

「どうぞ」

 ポケットから出した百円ライターに火をつける幸嶋。

「どうも。俺にはデュポンじゃなくて、使い捨ての百円ライターかよ」

 くわえたタバコに火を灯し、うまそうに煙を吸いこむ志幸。

「よくお似合いでございます」

「そうかよ!」

 幸嶋の腹へと志幸がパンチを入れた。ぐぇえと胃の内容物を吐きだす幸嶋。

「あはは、自分の胃液で溶けちまいな。おばさん」

「てめぇ!」

 かまえるハル、そしてまひる。

「いいのかな? 志朗のゆくえ、知りたいんでしょ。まーだ吸い終わってないよ、俺」

「彦佐以上の外道らしい」

「お褒めの言葉をどうも」

 顔をよせて煙をハルに吹きかける志幸。

「吉田ぬきの女三人なら勝てるという目算でもあるのだろうな、愚かなおまえには」

「まあね、あんたらを倒しきれなかった彦佐なんてガキ、目じゃないね。そろそろ蛮夫初心者からは脱皮できたと思ってるよ」

「そうか。今日ここへ彦佐をおびきよせ、私にとどめをささせたのも、おまえの計画の一部か。なぜだ」

「質問が多いな。あれが最期じゃなかったっけ?」

「いいからこたえろ」

「あんななりで街や村に人を喰いに出ていかれたら蛮夫、いや一ノ宮さんが自称するヴァンプの恥、けがす行為じゃない? みっともないし気持ち悪いでしょ、髪の毛も両耳も片腕も片脚もない化け物なんて。ああ、コンプラ的にヤバいかな? こうした差別的な発言は。あははは」

 自身のジョークに爆笑している志幸を見て、なぜかハルは彦佐をおとしめられたような気がしてほえた!

「黙れ! 黙れ、黙れ、黙れ!」

「はぁ? 一ノ宮さんがこたえろっていったんでしょ、おかしくない?」

「クソが……」

 ぐうの音もでないハル。まあ、正論である。

「そうそう、我が名はヴァンプ! あの名のりいいよね。あなたを見ていて俺も蛮夫からヴァンプへと昇格したくなった。彦佐みたくただ人を喰い散らかすだけでいいのか、そう考えたわけ。俺もヴァンプを名のっていいよね?」

 フィルターが焦げるほどに燃えたタバコをピンと指先ではじく志幸。鋭角な目を彼に向けるハル。

「弟をどうした?」

「もうわかってるんでしょう、一ノ宮さん。俺は志朗になり代わろうとしていたんだよ」

「──だろうな。よくわかった」

 床へと目を落とすハル。

「さっきおばさんがいっていたダイイングメッセージの意味に志朗も気がついたんだ。お嬢ちゃんが気絶している間、現れた俺の顔を見てね。それでこともあろうに俺へくってかかってきやがった、全身ガタガタなくせしてさ。吉田さんをなぜ殺した! あんないい人をなぜ! とかなんとかぬかしてね。あの大男、人じゃないっての!」

 ははっ! 志幸は笑い転げて、腹をかかえていた。

「稲水……おまえ」

「ああ、そうそう。こんなこともほざいていたっけ……」

「なんだ? 稲水はなにをいった?」


「もし、ハルを狙うならお門違いだ。あの女は、一級品しか好まない」 

「だからなんだよ? 志朗」

「──あんたは、俺以上の三級品だ」


「そうか。やはりただのヘタレ男ではなかったんだな……稲水」

 唇を噛みしめるハル。

「あの、稲水さまはいったい!」

 悲痛な声で叫ぶまひるに、ハルはそっとささやいた。

「稲水はすでに生きていない。そう考えるのが自然だ。理にかなっている」

 はぁあ? と、口を押さえたまひる、そして幸嶋。彼女らにとって稲水志朗は、吉田ほどの家族ではないにしても、愛すべき友人であったのだ。

「一ノ宮さん、どうです? 志朗と同じ顔をした俺と組み──」

 悪鬼と化したハル! その拳が志幸をつらぬき、爪が問答無用に志幸を切り裂く! 

「うがぁあああ!」

 叫び、燃える瞳に涙をにじませ、ハルは怒りを爆発させた! たまらず階上へと飛び、逃げだす志幸、追うハル、追う幸嶋、追うまひる!

                            (つづく)

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