第1章 遭逢(そうほう) 5 弱点と蠱惑(こわく)

 翌朝、稲水は日の昇りきらないうちに「近石商店」へしばらくバイトを休みたいとの旨を伝えに向かった。とっくに死んでいた実家の父親が亡くなったのだと嘘をついた。もはや商品の仕入れも販売も稲水頼りであった老夫婦は、必ず帰ってきてくれと涙ながらに送り出してくれた。

 こうして稲水は『足立区放火暴行殺人事件』の真相を突きとめるべく、岡山県の山奥から、二度ともどるまいと考えていたはずの東京へ、ふたたび帰る決意をかためたのだった。

 村の人々は老夫婦もふくめ、彼が殺人事件の嫌疑をかけられていたことに薄々は勘づいていたのだろうが、ふれてくる者はいなかった。若者が少ないことや、ただ単にトラブルを避けたかっただけであったのかもしれないが。なにひとつ刺激はなかったものの、稲水にとってはのどかで、実に平和な日々であったといえるだろう。

 彼には、ヴァンプという美しい魔物に魅入られたように安寧を捨てたという自覚があった。これでやっと死ねる。どこかでそんなふうに考えていたのかもしれない。


「ところで稲水、免許証は見つかったのか?」

「いや。けど、世話好きな刑事に勧められて再交付はした」

「なら、おまえが運転しろよな」

「わかった」

 稲水がハンドルを握り、陽光がさしはじめた小高い山を迂回する上り坂を疾駆しているのは最新のハイブリッド車。振動が少なく走行はあくまでも静かで、ウィンドウを開いていなければ、タバコをふかす助手席のハルとふたりでスィートルームにでもいるように感じられる。それほど優雅な走りをする極上の車両であった。

「ハルは金持ちなのか? 仕事は?」

「あ? 仕事なんてたるい真似しているわけないだろ」

「こんな高級車、どうやって手に入れたんだ?」

 稲水の問いにハルは笑顔で答えた。

「借りているだけだ。名義は私ではない」

「まさか盗難車?」

「バカいうな。殺しはするが、盗みなんてみすぼらしい真似はしない」

「ならどうやって手に入れたんだ?」

「ヴァンプの能力には蠱惑こわくと呼ばれるものがある」

「こわく?」

「蠱惑は人たらしだ」

「それはどういう?」

「早い話が誘惑だ。私は易々と人をたらしこめる」

「その力で車を?」

「いや、少しばかり気に入られたところで、新車をくれる物好きはいない」

「じゃあ、どうやって借りた?」

「蠱惑で身近に引きよせて、死なないていどにちょいと噛んで血を吸ってやると、その人間は一定期間、私の奴隷になるんだ。家一軒ともなればそいつの経済状態にもよるが、車くらいなら簡単に調達してくれる」

「奴隷? ハルはそんなことまでできるのか!」

 思わずハルを凝視する稲水。

「危ないな、前見ろ、前!」

 ハルは稲水の頭をつかんで前方を向けさせる。車線をはみだしたふたりの乗用車の脇を、クラクションを鳴らした小型の軽トラックがギリギリですれ違っていった。

「……すまん。けど、そんな能力があるなんては聞いてなかったぞ」

「そうか? だいたいこのくらいの力がなくて何百年も生き抜いてこられるわけがないだろ。少し考えればわかることだ」

「ヴァンプの能力なんて考えてもわかるか」

「そりゃそうだ。私が稲水に興味を持ったひとつの理由もそこにある」

「どういうことだ」

「稲水には蠱惑がきかなかった。おまえ、私を通報するとかぬかしたものな」

「そういえば。蠱惑がきかない人間もいるのか」

「体調や免疫、耐性にもよるらしいな」

「免疫?」

「アル中がいくら酒を飲んでも酔わないようなものだ」

「なんだ、それ」

 あははと笑う助手席のハルの横顔に、明るい日ざしが照りつけている。

「日がでてきたが太陽は平気なのか?」

「ドラキュラじゃないんだ、平気だよ。晴れた日の青空は清々しくて大好きだ」

「弱点はないのか?」

「──ないな。おそらくヴァンプは地上最強の生き物だろう。稲水、ためしに心臓へ銀の弾丸でも撃ち込んでみるか? それともニンニクや十字架をかざすか? ヴァンプは首を落とされても死なない。部位が生きていて取りつけることさえできれば、時間はかかるが再生できる」

「嘘だろ!」

「ふふ……いや、そういえばあるな、弱点」

「なんだ?」

「弱点なんて知ってどうする?」

「契約履行の前に喰われてはたまらないからな」

「うたぐり深い男は嫌われるぞ……ところで稲水、朝子が殺された足立区の工場跡は今どうなっているんだ?」

「確か、取り壊されたはずだ。凄惨な事件のあった場所だし、平地にされていたと思うが三年も前の話だ、今はどうなっているかわからない」

「でかい跡地だったんだろ? 案外、ホームセンターとかになってるかもな」

「そうだな」

「では、行っても残っていないな」

「なにが?」

「殺された朝子が強い恐怖心と死にたくないという生存本能を残していれば、あるいは一発で犯人を特定できたかもしれない」

「あ……それって殺された人の思い、残留思念が見えるってことか?」

「見える場合もあるってだけだ。完全な能力とはいえない」

「殺した側からも見えるのか?」

「ああ、それは見える。人を殺して平静でいられる奴は独特のオーラをはなつからな。人を殺して平気とはいえないまでも、逃げおおそうとする卑怯な逃亡者にしてもしかりだ。稲水にも見せただろ? 南関東から親戚を頼って岡山県に逃げてきたあのクソガキのイメージを」

「あんなもの、見たくなかったけどな」

「そうか? 見たくなったらいつでもいえ。私の頭には人の死にざまが何百年分もつまっているからな。ヘタなスプラッタームービーよりおもしろいぞ」

「遠慮しとく……ただ、おかしくないか?」

「なにが?」

「あれがあのガキの視点なら、どうして本人がエクスタシーに達したときの表情なんかが見えたんだ?」

「夢と同じだ」

「夢?」

「ああ。寝ているときに見る夢の中で、自分自身を客観視しているような場合はないか? たとえば誰かと一緒に河原を歩いている後姿とか」

「……あるかも」

「だろ? 私にはそんなふうにイメージが伝わるんだ」

 稲水はうまい具合にヴァンプの弱点についての話をはぐらかされてしまった。


 ふたりの間ではしばし無言状態がつづくも、ハイブリッド車は山間の上り坂を順調に疾走していく。

「……稲水、このあたりに民家はないか?」

「山を下るまでないんじゃないか。どうして?」

 ハルは顔を赤らめ、珍しく口ごもりつついった。

「トイレにいきたい」

「は? ははは! トイレ? ヴァンプがトイレ?」

「笑うな! 飲み食いしたら出す。当然の自然の摂理、生理現象だろうが!」

「あ、そうか。それがヴァンプの弱点か」

「黙れ!」

 稲水は、車を左車線に停車させて山側のガードレールの向こうの林を指さした。

「あのへんでしてこいよ」

「ヴァンプのプライドにかけて野ションなどできるか! いいから車を走らせろ!」

「もらしても知らないぞ」

「誰がもらすか!」


「稲水、止めろ!」

 ハルが怒鳴った。立ちならぶ樹々の間から、ひと昔前の豪農を思わせるような瓦屋根の古民家が一軒、見え隠れしている。広めな庭先で洗濯物を干している主婦らしき女性、飼い犬とボール遊びをしている五歳ていどの男の子がいた。

「まさしくポツンと一軒家だな」

 車を止めた稲水がつぶやく。

「先にいくぞ、稲水。もれそうだ!」

 ハルは風を切って跳ぶように駆けだした。いや跳ぶようにという表現は正確ではない。彼女は左右の足を動かしてはいなかった。大地を蹴ってはいなかった。文字通り、土煙や小石を巻きあげながら、宙を浮き、飛翔しているのだ。

飛縁魔ひのえんまか、もう信じるしかないな……」

 車から降りた稲水は頭髪をかきむしりつつ、彼女の後を追いかけた。


 唐突に自宅の庭に現れたハルに驚いた若い母親は、洗濯物の下着を落としかけて小さく声を上げた。男の子があわてて彼女の後ろへと隠れる。柴犬らしき犬が侵入者ハルに対し、盛んに吠えたてている。だがハルが一べつをくれると、柴犬は尻込みしたように首を垂れ、沈黙した。彼女が犯罪者少年の血肉を喰らう際、カエルや秋の虫が静まり返った、昨晩のように。

「どなたですか?」

 女性がおずおずと声をかけてきた。そして後から走ってくる稲水を目にとめると、あからさまに警戒心を示す表情を見せる。それはそうであろう。稲水の髪はボサボサで、顔には無精ひげも浮かんでいる。身なりも、薄汚れてはいないが、とても裕福そうには見えない。彼女は稲水のことを、美貌のハルを暴行目的で追ってきた変質者だとでも思ったのかもしれない。そして巻きこまれでもしたらかなわないと考えたのであろうか、男の子の手を引いて逃げようとした。が、目にも止まらぬ素早さでハルがまわりこみ、ニッコリとした微笑みを母子へと向け、こういった。

「心配ありませんわ。兄です」

 とたん、母子の表情から緊張の糸が断ち切られたかのように笑顔が浮かんだ。肩で息をしながら稲水は、これが蠱惑なのか? そう思った。

「突然すみません。妹が、その……」

 話を合わせた稲水がいいよどむと、ハルが言葉を引きついだ。

「おトイレを拝借したいのですが」

「あら、大変。でも……」

 いったんはゆるんだ母親の表情がふたたびかたくなる。こんな田舎の村でもお人好しばかりとは限らない。見ず知らずの男女を家に上げるという行為には抵抗があるのであろう。

「お母さん、トイレだって。こっちだよ!」

 一方、完全に蠱惑されたと思われる幼い男の子は、母親の前に進みでてハルの手を取った。その瞬間、ハルは男の子には見えない角度で母親の首に噛みついた。

「すみません、おトイレを……貸しなさい」

 ハルが命じると母親は、かしこまるように頭を下げた。

「竜彦、おトイレに、このお姉さんを連れていってあげて」

「うん。お姉さん、トイレ、こっちだよ」

 一瞬で洗脳され、ハルの奴隷となった母があたえてくれた役割を、嬉しそうにまっとうしようとする竜彦少年。

「ありがとう。竜彦君」ちゅっと口元の鮮血をすくい取り、舌なめずりしたハルは、手を引っ張る男の子の頭をなでながら、首筋に薄く血がにじむ母親にこう命令した。

「私も兄も朝食をすませていない。なんでもいいから用意なさい」

「すぐにしたくいたします。ご満足いただけるかは保障いたしかねますが」

 男の子の母親の変貌ぶりに、稲水は恐怖した。そして、こうも思った。この女ならぐずぐずとしている警察よりも早く、朝子を殺した犯人を見つけだすことが可能なのではないかと。


「しかし秋といえば、やはりサンマだな。脂がのっていて実にうまい。こんな山の中でも朝っぱらからサンマが食えるとは、日本の物流は大したものだ。くわえてこの大根おろし、生卵には感動だ!」

 稲水とハルは木製の古い座卓にだされた朝食をとっていた。ハルはご満悦のようである。

「確かにうまいが……ヴァンプは、犯罪者の生き血をすするだけでは生きていけないのか?」

「生きてはいける、ヴァンプは不死身だからな。生きてはいけるが、そればかりじゃつまらないさ、当然だろ? 私には人間だったころの記憶があるんだ。初ガツオのような縁起物に舌つづみをうった幼少期の思い出なんかはぬぐいきれない。食の喜びをなくしたら、生きる意味なんか半分になってしまうぞ。生きることは食うことと同義だ」

「なるほど」

 食事など腹にたまればなんでもいいと考えて暮らしていた、ここ最近の稲水にはあまりピンとこない意見であった。妻の朝子が生きていたころは、自身で調理もしていたし、外食にでる機会も多かった。朝子が料理を苦手としていたからだ。確かに三年前までは稲水にとっても、食事は楽しみのひとつだったのかもしれない。

「それに肉体の組成は人間とたいして変わらないんだ。ビタミンやミネラル、カルシウムなんかも接種しなければ弱ってしまう。たとえば、コンビニ弁当のようなお手軽な食品、化学調味料ばかりを口にしていたら力も半減するだろうよ」

「贅沢だな。今や化学調味料や添加物の入っていない食品なんてまれだろ」

「ヴァンプは安物を好まない。搭乗する車も最新型だ」

 ハルは味噌汁に口をつけながら豪快に笑う。ここでタクアンをかじっていた稲水が顔をしかめ、うっ、とうめき声とともに口元を押さえた。

「どうした?」

「いや、差し歯が取れた」

「ああ?」

 稲水が口に指を入れてレジン製の歯を取りだした。彼の右の前歯が抜けたのだ。ハルはバンバンと座卓の天板を叩きながら爆笑している。

「なんて間抜けづらだ! あははは!」

「笑ひすぎだほ」

 空気が抜けたような口調の稲水。

「仕方ないな。歯医者によるか?」

「いや、いいよ。よくあることだ、コンビニで瞬間接着剤を買う」

 彼は健康保険料も滞納をつづけている。医者になどとてもかかれないのだ。

「これは笑える。まるでプラモデルみたいな男だな」

                           (つづく)

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