第1章 遭逢(そうほう) 6 一ノ宮春乃

 夫が農協に勤めているという若妻の古民家を後にした稲水とハルは、ふたたび誰かから借り受けているというハイブリッド車に乗りこんだ。

 別れ際ハルは彼女に対し、私たちふたりのことは顔もふくめてすべて忘れろ。なにもなかったのだ、日常生活へ直ちにもどれ。そう命令することを忘れなかった。ただしハルは、竜彦に対してはなにもしなかった。しばらくの間、母子の会話に齟齬そごが生まれるかもしれないが、知ったことかと彼女は笑った。

「さて東京へゴーだ。稲水、車を出せ」

 ああ、と答えて稲水はエンジンをかける。

「ハル、飛べるのに車なんかいらないんじゃないか?」

「おまえをかかえて飛べってか? 今夜のニュース番組で特集が組まれるぞ。美しき天使降臨ってな」

「天使ね……ま、そりゃそうだな」

「目立つからな。ヴァンプもめったに空は飛ばない。昨日みたいな誰にも見られない田舎の山道なら別だが」

 助手席にどっかりと腰を沈めたハルの言葉に、車を走らせながら納得する稲水。だから東京の蛮夫も飛ばなかったのだろうと。

「ハル、ヴァンプというのは大勢いるのか?」

「数はそれなりにいるよ」

「そうなのか。じゃあ東京で殺人を繰り返す蛮夫もそのひとりと考えていいのか?」

「ああ。下劣な野郎だがな」

「だったら、かなりの人間が殺されているんだろうね。砂になるから見つかっていないだけで」

「大抵の場合、失踪あつかいだろう。ああ、そうだ。去年死んだ、往年の大女優がいただろ? 芸名はなんといったっけな。百二歳で死んだ」

「姫川さおりじゃないか」

「そうだ。あの女優も蛮婦だよ」

「ええ! だって死んだじゃないか!」

「あの女は人を喰うことをやめたんだよ。昔は顔見知りだった」

「マジで!」

「ああ、あいつの蠱惑は凄まじいものだった。だから大衆の心を魅了して、大女優へと上りつめたんだ」

「ヴァンプは人にもどれるのか?」

「その気になればな。ただし人肉を喰えない禁断症状は酷いものらしい。ドラッグやアルコール、セックス依存者になり果てて野たれ死にするのがオチだ。それでもあの女は女優の道を選んだんだ」

「強い人だったんだな。ハルは人にもどりたくはないのか」

「冗談じゃない。年老いて死ぬなどまっぴらだ」

「なるほど……」

「当然だ」

「どうやってハルはヴァンプになったんだ? ああ、いいたくなかったんだよな。ごめん」

「いつか気が向いたら話してやる。黙って運転しろ」

「わかったよ」

 八百屋お七がどうとかいっていたよな?と稲水は考えながら、しばし無言で運転をつづけた。


「ところで俺、そんなに金ないぞ。朝子の保険金だって、もう底をついているし」

「なにをいっているんだ? 朝めしに、あんなにうまいサンマを無料で食った男が」

「どういう意味だ」

「金なんかありあまってる人間は大勢いる。そんなやつからもらえばいいだろ? 無論、強奪なんて野卑な真似はしない。くださいなと頼んで、ありがたくいただくんだ。問題ない」

「確かに……」

 ハルはそうやって三百五十年以上、生きてきたのであろう。人間の常識からすれば立派な詐欺行為にあたるに違いないが、ヴァンプを人の良識にあてはめることは不可能であろう。ハルが人の生き血を喰らうのは生きるためであって、人が牛や豚を食べる行為となんら変わらないように……稲水は、そんなことをぼんやりと考えながら車を走らせていた。

「稲水、東京まであとどのくらいだ?」

 そろそろカーブだらけであった山道から解放され、ビルなどは少ないものの平坦な市街地へと出ていた。稲水はカーナビの到着予定時刻を確認してみる。

「八時間くらいかな」

「かかるな。高速に入ったら、どこかのドライブインに着けろ。運転を代わるから」

「優しいな」

「ふん。一年間はバディだといった。早々におまえがつぶれたら私が困る」

「わかった。助かる」

「それから稲水」

「なんだ?」

「私と組むつもりなら髪と身なりを整えろ。今のおまえと一緒に歩くのはちょっと勘弁だ。東京に着いたら、まずはそこからはじめるぞ」

「だけどさ……」

 タイムリミットは一年しかない。そんなことに時間をかけている場合だろうかと稲水は思う。

「何度もいわせるな。ヴァンプは安物を好まない! 車からほっぽりだすぞ!」

「優しいな……」


 ──数時間後。日がとっぷりと暮れ落ちたころ、一度運転を交代したハルからふたたび引きついだ稲水が走らせる車は、ようやく東京都内の首都高速道路へと入った。

 ハルの指示で『霞が関料金所』から一般道へと下りたところでバリケードが道を封鎖しており、防護盾やヘルメットを装備した警察官数名がバラバラと現れた。ものものしい雰囲気に驚きながら急ブレーキ気味でスピードを落とす稲水。

「な、なんだ?」

「あわてるな稲水。ただの検問だ」

 こうした状況にはなれているらしく、おもしろくもなさそうにつぶやくハル。免許証を提示し、後部トランクの開示を求められたが、ハルは逆らうことなく笑顔で対応してみせた。

「ご協力ありがとうございます」

 なんのトラブルもなく、警察官の誘導でゆるゆると車を出す稲水は生きた心地がしなかった。凶悪犯罪者限定とはいえ、平然と殺人を犯すヴァンプが同乗者なのだから。

「それにしても稲水、免許の更新くらいきちんとしろよ! 失効間近じゃないか」

「できないんだよ。住所変更もしてないし」

 そうなのだ。免許から本人確認のため、住所を警察本部らしきところへ照会しようとした警官を蠱惑で止めたのがハルであった。そこまでしなくてもいいわよね、と。

「ズボラな男だな」

「いいだろ? どうせあと一年の命なんだから」

「まあな」


 その後の道もやけに順調なものであった。ナビの到着予定時刻よりも一時間近く早かった。夕刻の都内は車であふれかえっているというのが稲水の印象であったのだが。

 ハルはカーナビにスマホの画面をうつすと電話をかけた。

「私だ。いつもの部屋を頼む。今日はふたりで泊まる」

『お部屋は二部屋ご用意しますか』

 ナビから聞こえる相手の声に、驚いたような顔をしている稲水。

「いや、ひと部屋でいい」そういってハルは通話を終えた。

「すごいな」

「なにが?」

「ナビとスマホが連動できるなんて。さすがは高級車だ」

「なにをいってるんだ? ハンズフリー通話など常識だろ?」

「ここ何年も自転車しか乗ってなかったから」

「まるで浦島太郎だな」

「ところでどこへ電話したんだ?」

「ホテルニュー帝円だ」

「超一流ホテルじゃないか?」

「ああ。明治時代からこっち、東京にくる場合は常宿じょうやどとしている」

「明治? そんな昔からあるホテルなのか」

「ああ、財閥や華族なんてものが昔はあったからな。セレブ御用達だ」

「すごいな。いつもただで泊まるのか?」

「まさか。金払いがいいから、この時間からでも部屋を取ってもらえるんだ。ホテルにとって私は上客だぞ。場所は知っているな」

「有名だからな。泊まったことはないけど」

「だろうな。稲水のしょぼくれた身なりでは、私と一緒でなければ入れないぞ」

「なるほどね」

「今夜は早く寝て、明日はショッピングだ。稲水、楽しみだろ?」

「……まあね」

 遊びにきたわけではない、そういいかけた稲水だったが、ここでほうりだされたらたまらないので言葉をつつしんだ。あと一年はハルのご機嫌うかがいか……稲水の心はすっかり重くなった。

 東京都千代田区、ホテルニュー帝円のメインエントランスへ車を横着けすると、若いベルボーイがやってきてファッショナブルなサングラスをかけたハルのキャリーバッグと、稲水のボロボロにすり切れたリュックとスポーツバッグを後部トランクからおろし、なれた手つきで運んでいった。

「一ノ宮さま、お待ちしておりました」

 年配のベルボーイがうやうやしく頭を下げると、ハルは当然のようにスマートキーを彼にわたしてにっこりとほほ笑む。稲水は気圧されたように立ちすくみ、得体の知れない居たたまれなさにさいなまれ、今にも逃げだしてしまいたい気分であった。


「ここでは一ノ宮春乃いちのみやはるのを名乗っている。したがって兄のおまえは一ノ宮志朗だ」

 ハルは一ノ宮春乃名義の普通自動車免許証を見せた。偽造であることは間違いないが、よくできていて本物と見分けがつかない。しかもゴールド免許であった。

「わ、わかったがなんでひと部屋なんだ?」

「金はあるが無限にあるわけではない。ふた部屋も取れるか」

「なるほど……」

 いうまでもなく一泊十万はくだらなそうな最高級スィートルームである。家具や調度品、カーテンの生地にいたるまで一級品で、なおかつ広々とした部屋であった。そして大きめな窓から見わたせる夜景も極上である。

「なにをオドオドしている。早くすわれ」

 ハルはゆったりとしたソファーに腰をしずめて足を組み、タバコの煙をくゆらせている。

「禁煙じゃないのか?」

「喫煙もできないホテルなど三流の印だ。稲水も自分の部屋だと思え。ここを根城にして朝子殺しの犯人を捜索していくのだから。そうだ先に携帯番号を交換しておこう」

「ハルの番号は?」

「090―××××―××××だ。鳴らせ」稲水がコールするとハルのスマホが鳴動する。「登録しておくな」

「ああ」稲水も革張りのソファーに腰を落とす。「ただ、ハル。ダブルベッドなのはどうかと思うけど……」

「広いんだ。問題あるまい?」

「そうだけど」

「欲求を抑えきれなくなる前に相談しろ。気分によっては受けいれてやるから。なあ、相棒よ」

 そういってハルは立ちあがり、料理のメニューをさし出す。

「腹がへってきた。ルームサービスに注文しておいてくれ。私の顔をつぶすようなショボい料理は頼むなよ」

「肉と魚、どっちがいい?」

「まかせる。それから料理に合わせたワインもな。私は湯につかってくる」

「まかされてもな……」

「注文が終わったらバスルームをのぞいてもいいぞ」

「のぞかないよ」

「ふふん。私に欲情したくせに」

 バスローブを手にしたハルは豊満な胸をそらし、笑いながら浴室へと消えた。

「……冗談じゃない」

 自身にいい聞かせるように稲水はつぶやいた。そして十分に吟味した上でルームサービスに電話をかけた。

                               (つづく)

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