第1章 遭逢(そうほう) 2 地獄の裁判官
「嘘だろ……」
ほうほうの体で自転車をこぎ、木造一軒家の自宅へと走る稲水の頭上をヴァンプは飛翔してついてきていた。やはり人間ではないのだという思いで彼は怖気あがった。肩で息をしながらこのまま逃げ切れないかとの考えもよぎるものの、おのれの体力低下を自覚している彼に選択肢はなかった。東京にいたころの彼は全力で自転車をこいだくらいでは息切れなどしなかった。まあ当然のことである。ろくろく食事もせず「近石商店」と自宅の往復以外はなにもしないし、どこへも行かないという生活を丸三年もつづけているのだから。
家にたどり着いた稲水の前にヴァンプがゆっくりと降下してきた。自転車の前カゴに載せられた惣菜パンやそのほかの食材、野菜や肉を手にするが、先ほど見せられた悪夢のせいで食品を見ただけで食欲どころか吐き気がした。
「驚いたようだな、稲水」
「そりゃ、そうですよ」
東京での蛮夫事件で犯人が空を飛んだなんて記事は目にした記憶はない。
「私は
「……ヒノエンマ?」
「まさか飛縁魔も知らないのか? 『絵本百物語』を見たことないのか? 脅かしがいのない男だな」
「魔女、とか?」
「魔女は近いな。しかしどちらかといえば妖怪変化だな」
「妖怪?」
「もともと日本人だから、西洋の魔女をイメージされてもこまる。早く家に上げろ」
「わかりましたよ……」
稲水は仕方なく玄関ドアを開けると、くわえタバコのヴァンプを招き入れる。
「稲水、これは知ってるだろ? 『八百屋お七』の物語。あれのモデルになったのがこの私だ」
「知りません」
「知らない? 嘘だろ? 歌舞伎や浄瑠璃の演目にあるだろが」
「歌舞伎も浄瑠璃も縁がなくて」
「西鶴の『好色五人女』は?」
「西鶴なら聞いたことあるけど、ポルノのタイトルですか?」
ヴァンプを名のる女は目を吊り上げてたたきにタバコを吐きすて、ギリギリと踏みつぶした。
「最近の人間はこんなことも知らないのか! 一般教養だろうが!」
「そのオシチが妖怪なんですか?」
「違う! 恋い慕う男に会いたい一心で自宅に火つけをして火あぶりの刑に処された哀れな少女がお七だ」
「放火で火あぶり?」
稲水は思う。いったいいつの時代の話をしているんだと。
「なんだよ、その目は?」
「いや……その、ヴァンプさんはなにを、食べるんです?」
「どうせろくなものがないんだろ? おまえが手にしている肉や惣菜でかまわない」
「しかし見事に殺風景な部屋だな」稲水が焼いた豚肉を食らいながら女は、書棚にならぶボロボロの書籍を指さして笑った。「全部マンガじゃないか。小説読め、クリスティとかクイーンの海外ミステリー、私は大好きだ。そうだ、歌舞伎や古典も学べ」
「マンガの方が楽なんで」
そういえば、ならんでいるコミックスは昭和の作家の物ばかりであった。
「手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄に水島新司、松本零士か……それも少年マンガばかりだ。子供か、おまえ」
「古いマンガ家をよく知ってますね」
「私とてマンガを全否定しているわけではない。ところでおまえ、永井豪のファンなのか?」
「はい、大好きです。ギャグも伝奇物も」
背表紙を見ると永井豪の作品が圧倒的に多かった。
「私もあのビュンビュンと走るような線は好きだったぞ」
「そう。わかるけど、マンガ談義はもういいですか?」
「ふん。つれない男だな。ところで飲みものをだせ、稲水」
女は唯一のインテリアともいえる仏壇の中に飾られた額入りの写真に目をとめた。稲水朝子、彼の妻の遺影である。ショートヘアがよく似合う、輝くような笑顔がそこにあった。隣の写真は稲水志朗の両親のものであろう。
「こんな物しかないですけど……」
稲水がささくれた畳の上に直接置かれたちゃぶ台へペットボトルの緑茶をだした。
「ビールくらいないのか?」
すり切れ、クッションがはみだしかけている座布団に腰をおろす稲水。
「酒は飲めないんですよ、俺」
「つれない上に、つまらん男だ」
あきれ顔の女。
「……妻が死んだあと、飲みすぎで血ヘドを吐いた。あれ以来、体がアルコールを受けつけなくなったんです」
「酔うこともできないのか? 哀れだな」
「まあ。それを食ったらでていってもらえませんか」
稲水がおそるおそるいうと女はあははと笑った。
「そうだ、思いだした。あの遺影の女とおまえのこと。稲水志朗……確か三年前の『足立区放火暴行殺人事件』、あれの被害者遺族だったよな? ずいぶんとやつれて面相が変わったようだがおぼえているぞ。その顔」
「…………」
「奥さんの死亡保険金が下りたことでさんざんマスコミに騒がれて、犯人にされかけたこともあったっけな」
「……黙れ」
押し殺した声でつぶやく稲水。
「未だに犯人は捕まっていないんだろ? 気の毒に」
「黙れってんだ!」
「どなってもちっとも怖くないぞ、稲水。それにヴァンプに対しての口のきき方には気をつけるんだな」
「あ、ああ……」
ちぢこまり、目をふせるしかない稲水。
「確か妻が強姦されたあげく焼き殺されたんだったな。マスコミにおもしろおかしく叩かれつづけたせいで職も失い、親兄弟にも塁をおよぼした。両親は、隣近所からも白い目で見られて買い物に出ることすらできなくなって衰弱死だっけ? まだウーバーイーツはなかったからな。で、兄夫婦は失踪して行方不明だったよな」
「だからどうした? そんなに人の不幸が楽しいのか! この化け物!」
「化け物だと?」
女が眉間にたてじわをよせる。稲水はあわてて畳に手をついてへこへこと土下座した。
「すいません、すいません」
「いってから後悔するなら、初めからいわないことだ」
「ごめんなさい……」
「まあいい。勢いということもあるし、稲水の味わってきた苦痛と心象をかんがみれば、妻が殺された事件を他人にとやかくいわれたくないという気持ちは理解できる。くわえて私はまごうことなき化け物だ。おまえら人間からすればな」
「は、はあ」
「では、過去の書物に繰り返し書かれた、戒めと訓戒をはらんだ百鬼夜行もろくに知らない、マンガオタクの犯罪被害者遺族に教えてやろう」
「なにを、です」
「──私なら、稲水の妻を強姦した上で焼き殺した犯人を捜しだし、八つ裂きにすることができる」
「なん……だと?」
「どうせ一年以内にのうのうと世人にまぎれて暮らしている極刑級の悪党を見つけて血肉を喰らわなきゃならないんだ。だから犯人捜しに協力してやってもいいといっている」
「…………」
「なんの目的もなく、ただ一日、一日をやりすごすだけの人生なんだろ? 生きてはいるが死んでいる。おまえの目は腐っているよ、殺された奥さんに申しわけないとは思わないのか?」
「朝子に……申しわけないとしたら、それは彼女がいなくなった後も、それこそのうのうと生きることだ」
「奥さんの名は朝子か。かわいそうに、朝子は死に損だな」
「もう黙ってくれませんか」
「はいはい黙るよ、死んでいる人間には興味がない。もう消えるが、それでいいのか?」
「いいとは?」
「さっきは私に欲情しただろ? 襲いたくなったか?」
「な、な、なに!」
「気づかないとでも思っていたか? 稲水が私の胸元や脚をちらちらと見ていることに。どうやら奥さんが亡くなってから何年もしていないようだな。だが、恥ずかしいことではないぞ、私に欲情することは。私の下着姿は刺激的だったか?」
「…………」
「残念だったな。女をモノにするチャンスも、朝子の仇を討つチャンスまでみすみす手ばなして。あばよ、残念な男」
座布団から腰を上げた女は、稲水を一べつすると彼に背を向け、部屋のドアノブに手をかけた。
「待て、待ってくれ!」
あわてて立ち上った稲水は女の肩へ手をかけていた。
「気安くさわるな。もう遅い、抱かせてはやらない」
はじかれたように彼女から手を離した稲水は、おそるおそるといったふうに切り出した。
「あなたの体に少しでも欲情したのは本当だ、すみませんでした」
「そうかい。まあ、それはいい」
「いいんですか?」
「いいさ。おまえこそいいのか」
「あなたのいったとおり、もう何年も女にふれていない。俺、自信がない」
「ほう、正直だな」
「そんなことより朝子を殺した犯人を見つけられるというのは本当なんですか?」
「稲水、おまえしだいだ」
「俺しだい?」
「あたり前だ、おまえのやる気しだいだ。おまえの妻を殺した犯人は極刑には値しないから、私の
「なにいってる、死刑に決まってるだろ!」
「犯人は朝子ひとりしか殺していない。今どきの裁判じゃひとり殺しても死刑にはならないだろ? ほかにも殺しているのなら話は別だが」
「殺している……もうひとり」
「ほう。それは初耳だな」
「ニュースにもなっていない。知っていたのは俺だけだし、同情をかいたくなくて黙っていたから」
女は腕組みして首をひねるも、すぐにピンときたようである。
「朝子は妊娠していたのか?」
「ああ」
「なるほど。だけどどうしてその事実が報道されなかったんだ?」
「警察も見落としたんだろう。なにしろ二週目か三週目だったから。彼女はまだ、産婦人科にも行ってなかったし」
「ずいぶんと間抜けな監察医だったんだな」
「犯人は自分の体毛や精液から血液型やDNAが発覚することを恐れたからか、朝子の全身にガソリンを振りまいたあと、口や子宮、肛門を広げてガソリンを流しこんでから火をつけたんだそうだ。しかも酸欠で火が消えないよう体中が切り裂かれて、塩ビパイプがそこかしこに突っこまれていた形跡があったらしい。ほぼ埼玉県よりの広大な空き工場跡の中で焼かれたからな……火や煙の発見が遅れて、俺が見せられた朝子はほとんど黒焦げの消し炭だったよ」
「恐ろしく念入りで猟奇的だな。おまけにアナルまで犯されていたってことか……しかしそれなら検死官が受精卵に気づけなかった理由もうなずける」
「遺体の残骸からは生活反応が発見された。つまり……」
「生きたまま焼かれたってことか。まるで火あぶりの刑だな」
ヴァンプを名のる女も少なからずショックを受けたようで、片方の眉をぴくりと動かす。
「警察も検察もその事実だけは公表を見合わせた。模倣犯が現れる可能性があるからな。容疑者あつかいだった俺のアリバイが証明されたあと、警察から隠蔽してもいいかと聞かれて、俺はいいと答えた。朝子と同じような目にあう女性がいていいわけがない、そう考えたから。警察署長が直々に俺へ頭を下げに来たよ」
「まあわかった。確かに私向きの極刑に値する案件のようだ」
「なんの話しをしているんだ?」
「勘違いするなよ。私は食人鬼でも殺人鬼でもない。罪を犯した者へ制裁をくわえる、いわば地獄の裁判官だ」
「裁判官?」
サイコパスの間違いだろ? と稲水は思った。
(つづく)
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