第1章 遭逢(そうほう) 3 江戸の女

 あらためて女はどっかりと座布団へ腰を落としてペットボトルのお茶に口をつけた。稲水がたずねる。

「それで?」

「なにが?」

「とぼけないでくれ。妻を、朝子を殺した犯人をどうやって捜すんだ」

「そうくな。あわてる乞食はもらいが少ないということわざもある」

「最近じゃあまり使われないことわざだけどな」

「ポリコレ的な意味でか? ならばいいかえよう。急いてはことを──」

「いいたいことはわかった。どうしたらいいんだ? いいんですか?」

 女は居ずまいを正し、稲水と正対した。

「まずは私の存在を認め、信じろ。まずはそこからだ。私と組みたいのならな」

「信じる……」

「私は人の生き血と肉をすすらなければ生きていけないヴァンプだ。人間ではない」

「だったら、どうして俺の血肉をすすらない」

「おまえ、人を殺したことないだろ?」

「あたり前だ」

「そういう人間はうまくないんだよ」

「はぁ?」

「私の好物は人殺しの血肉。残念ながら稲水の血ではもの足りない。それに今日、おまえも見ていたとおり姦物の生き血を飲み、肉を喰らうことができた。あと一年は生きのびられる。この一年は調査期間だ。来年の今ごろまでに、人の皮をかぶった外道を見つけて喰えればそれでいい。朝子を殺した犯人ならば私を満足させてくれるだろう」

「一年に一度、殺人者を喰い殺しているってことなのか?」

「そのとおり。今でいう江戸時代でヴァンプになりたてのころは、闇雲に人を喰らってまわったものだが善人の血はうまくない、吐き気すらおぼえるということにやがて気づいた。稲水にとってのアルコールと同じだ」

「江戸時代?」

「まるっきり信じられないって顔してるな」

「いや……そんなことは」

 この女、ヴァンプが人を喰らい、宙を飛行していたことも事実である。

「いいだろう。論より証拠だ。もう一度、見せてやる」

 女は立ち上り、濡れ縁の向こう、引き違いのガラス窓の外に見えている雑草だらけの庭を指さした。稲水が見ると暗がりの中に、なにやら小型の獣らしき物がいる。

「はい?」

 目をこらすと、それはエサを求めて現れたらしい一羽の野ウサギのようであった。

「最後のチャンスだと思え。自分の目で見たもの、耳で聞いたものを信じられない愚か者とは組めない」

「…………」

「見ていろ」

 稲水の眼前をうず巻くような白い一陣の風が通りすぎた。なんだ?と思う間もなく女が、薄茶色をした野ウサギの両耳をつかんだ右手をさし上げて見せた。目をみはる稲水。あの風は女の白いワンピースだったのだ。彼女は一瞬で庭へ出て、ウサギをつかんでもどってきたとでもいうのだろうか? しかも窓ガラスは閉じられていた。そういえば、と稲水は思った。初めてこの女と出くわしたときも、瞬時に口をふさがれ、首を絞められた。とても人間わざとは思えない素早さであった。これがヴァンプの力なのか。

「あんた……ガラス窓を通り抜けたのか?」

 うめくような声でたずねる稲水。

「まさか。そんな真似はできない。ちゃんと窓を開けて、また閉めたよ。見てなかったのか?」

「見えなかった。早すぎて」

 急所である耳をつかまれた野ウサギは、ぷるぷると震えながら小さく前脚を動かしている。

「だったら、今度はちゃんと見ておけ」

「な、なにをする気だ」

「動物の血はあまり好みじゃないんだが……」

「え? ま、待て、よせ! やめろ!」

 くわっと口を開いた女は野ウサギの首に嚙みついた。鮮血が飛び散り、稲水の顔に振りかかる。じゅるじゅると音を立ててウサギの血を吸う女。彼女の白いワンピースが真っ赤に染められていく。これは雑木林の中で見た幻術とも取れる殺人ショーの再現だった。稲水は声も出せず腰がくだけたように背後へ倒れこみ、ちゃぶ台をひっくり返した。

 ──ボトリ。鈍い音とともに野ウサギの首が畳の上に転がり落ちた。喰いちぎられたのだ。

「なにをビクついている? 牛や豚ほどの頻度ではないにしても、たまには人間だってウサギ料理を食うだろ?」

 口から血をしたたらせた女が、ガチガチと歯を鳴らしている稲水を見下ろす。震えながらも稲水は、映画やドラマで見るように噛みつく時だけ犬歯が鋭くとがったりはしないのだな。部屋の掃除が大変だ、畳の目に入った血は落ちるのかな。などと、どこかでこの惨劇を客観視していた。

「…………」

「稲水、ちゃんと見ていろ」

 女に首のない背中の皮をつかまれている野ウサギの死体から、さらさらと塩のような砂のような粉末状の粒が落ちていた。ばくんと音がして野ウサギは砂の塊と化して女の手の中で壊れ、畳の上で四散した。部屋中に飛んでいた赤い血液もすべて、白色の砂となって広がっていた。

「だから服を着たままの食事は好かないんだ」

 女は口元の砂を払い、ついでにワンピースをバタバタとはたいた。稲水は砂が入ったせいなのか、涙目になって女を見あげていた。

 ──蛮なる女、蛮婦。女の名はヴァンプ。

「稲水、シャワーを借りたいんだが。いいか?」

 何事もなかったかのように笑顔でいいはなつヴァンプ。稲水は黙って風呂場の方を指さす。ヴァンプはうなずくと、やっぱ動物の血はうまくないな、などとつぶやきながら部屋からでていった。かつては野ウサギであった砂山に手をさし入れてみた稲水の耳に、シャワーの流れでる水音が聞こえてきた。

                             (つづく)

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