第1章 遭逢(そうほう) 1 稲水とヴァンプ

 月のない夜であった。

 稲水志朗いなみずしろうは三十歳近い年齢でありながらまともな職についていない。この日もバイト先である昔ながらの雑貨屋「近石商店」を出て、街灯のひとつも設置されておらず、田んぼと畑、雑木林しか周囲にはない田舎道を、赤サビだらけの自転車でゆったりと家路についていた。ボサボサの髪が風にゆれ、無精ひげが薄く浮いた頬。覇気のない目をしながら。家にもどっても彼には待っている人などいない。風呂に入って寝るだけ、急ぐ理由などどこにもないのである。

 今どきあまり見かけないタイヤの回転をエネルギー変換して発電するダイナモ式ライトのはなつ光は、彼の精気のなさを代弁するかのようにあまりにも弱々しく、そして静まり返った夜道の中にあってギュウンギュウンとうるさく鳴いている。車輪が小石でも踏んだらしく、「近石商店」の売れ残りを載せた前カゴの中で惣菜パンが飛びはね、クシャリと包装ビニールが音を立てた。

 そういえばと稲水は思った。今夜はやけに静かすぎると。日ごろガーガーとさわぎたてて騒々しいカエルの合唱も、コオロギやスズムシの鳴き声ですらなりをひそめているように彼には思えた。自転車を止めると一切の光が消えて完全なる闇につつまれる。

「ま、こんな日もあるか……」

 つぶやいた稲水はふたたびペダルにサンダル履きの足をかける。カエルやスズムシにだって休みたくなる日もあるに違いない、彼はそう考えて薄く笑った。数年間就職していた家電メーカーを退職して、彼が永遠の休日を選択したように。生きていくことも、死ぬこともできず東京から逃げだして、中国地方の田舎の村へと引きこもってしまったように。

 販売実績が生命線、競争が熾烈な営業職に就いていた彼からすればコンビニですらないご近所相手の雑貨屋でのアルバイトなど万年祝日と同義であった。しかも「近石商店」の経営者である子どものいない老夫婦は二十九歳の彼にも優しく、思いやりをもって接してくれた。むろん給金はすずめの涙であるが、こうして売れ残った食品や食材を毎日あたえてくれる。都心では考えられないほど安価な家賃の木造一軒家に住み、酒もタバコもやらず、身なりや髪型などには一切、興味のなくなった彼は、村で十分に生きていけた。生きている意義のようなものはとうになくしていたが。

「うん?」

 なにか物音が聞こえた。ストローで残り少ないジュースをすするような音。そして臭いがする。まるで血のような鉄分を帯びた生臭い悪臭が秋風に乗って漂ってくる。嫌な臭いだ。これは死を想起させる臭い。そして手入れがまったくといっていいくらいなされていないグネグネと折れ曲がった枝ばかりの雑木林の中に、ゆれるふたつの赤い光芒、それを稲水は見た。野良猫かなにかの目だろうか? しかし動物の目が光って見えるのはなんらかの光源に対して反射するからで、この暗闇の中にはそれに相当するものがあるとは思えなかった。

 稲水は、いつ切れてもおかしくない自転車の豆電球に備えて前カゴに載せてあったLED懐中電灯の灯りを林の内部へと向けた。

 ひっ!っと稲水は小さく声をあげていた。青白いライトの輪の中に下着姿の若い女がいたのだ。女は唇からヌラヌラとした粘性のある真っ赤な液体をしたたらせながら稲水を上目づかいに見た。その目が燃えるように赤い光をはなっているのだ。女の腕の中には、のどのあたりから鮮血をほとばしらせつつ、ぴくぴくと痙攣している青年、いや高校生くらいに見える少年が抱かれていた。女は少年の首筋に歯を立てて、生きたまま喰らっていたのだ。

 恐慌のあまり尻もちをついた稲水はまた悲鳴を上げかけたが、風を巻いて女が襲いかかってきた。そして彼の口と鼻を血まみれの左手でふさぎ、右手を首にかけた。

 ──殺される。稲水は本能的に首にかけられた手のひらを振りほどこうともがくも、女の握力は尋常ではないほど強く、その指先が気管にめりこんでいる。呼吸もままならず稲水の意識は朦朧もうろうとしはじめた。

「静かにしていていろ。スズムシやカエルを見習ってな」

 女が耳元でささやいた。破裂しそうな顔面に血管が浮きだし、あえいでいた彼は、知らぬ間にあふれていた涙をぬぐうこともできず、ただただ懸命にうなずく。

「食事のじゃまをするな。いいたいことがあるなら後で聞いてやる」

 稲水から両手を離したスポーツタイプのブラとパンツのみを身に着けた女は、長い黒髪をはらりと落として立ちあがり、引きつったように全身の筋肉を震わせている少年の血肉にふたたび喰らいついた。静けさの中でじゅるじゅるという吸引音、ぐちゃぐちゃといった咀嚼音そしゃくおんだけが稲水の鼓膜にとどいてくる。呼吸困難による一時的なチアノーゼでぼんやりとした頭の中に浮かんだのは蛮夫バンプ。この一年、都内で暴れまわっているという蛮夫。食人鬼、そして猟奇殺人犯……。

「ちっ!」女が舌打ちして、口中に残る血液を淡のように吐きだした。「死にやがった」

 女は死体となった少年に興味を失なったらしく、その体をぞんざいに投げだした。

 ──どうやらこの食人女は活け造りがお好みのようだ。ようやく涙をふいた稲水は、そんな場違いなことを思い、くくくと笑みを噛み殺した。

「なにがおかしい?」

 目ざとく稲水を見すえた女が、スイッチが入ったまま転がっていた懐中電灯を手にして光を向けてきた。まぶしさでかざした手の先に立つ、唇を真紅に染めた女は、背筋がゾクリとするほどに美しい。

「なにがおかしいのかと聞いている」

 目の前に谷間の見えないスポーツブラに包まれた豊満な乳房が迫る。女が前かがみにしゃがみ、稲水の顔をのぞきこんできたのだ。

「……なに、大したことではない」

 しわがれた声でこたえる稲水。

「大したことないのなら話せよ」

 稲水のあごを片手でグイと持ち上げた女の目から赤い光が消えた。懐中電灯の反射ではない、自らの眼力で光を発していたのだ。特異体質を持つ狂った食人鬼か。彼がふっと小さく鼻を鳴らすと、女はその頬をバシリと叩き今度はぼさぼさとのびた稲水の髪をつかんで頭を左右にゆさぶった上で顔面を、少年の血液が広がるじめじめとした地面へと叩きつけた。

「……痛いな」

 顔をあげた稲水がつぶやくと、女はあきれたような笑みを浮かべた。

「恐怖で頭のネジがゆるんだか? それとも精薄者なのか?」

「どちらも差別的な発言だな。この人殺し……」

「ほう」

 女は目を丸くして自身のあごに手をあて、しけじけと稲水を見た。

「俺も……喰うんだろ? 殺すんだろ?」

「どうするかな?」

「殺さないのなら、今すぐ警察へ通報する」

 稲水は震えるおぼつかない手で、ズボンのポケットからスマホを取り出した。

「通報?」

「そうだ。狂った殺人鬼め」

「ふうん」女は軽い前蹴りで稲水の手の中にあったスマホをポーンとはじくと、見もせずに片手でキャッチした。「大した正義感だ、それだけはほめてやる。だが通報しても無駄だよ。私はなんの罪で告発されるんだ? あんたへの暴力行為? それとも逆レイプ罪?」

 あははと笑いながら、女はぬるりと稲水志朗の股間へと手を伸ばす。

「ふざけるな!」

「まあ見てなよ」

 女が喰い散らかした少年に目を移す。稲水は目を疑った。なんということか、少年の遺体が白色の砂で作られた山のように変貌し、さらさらとくずれ始めたのだ。

「な、な、な……」

 そしてあたりをおおっていた血だまりも砂塵と化して風に吹かれていく。稲水の顔に付着していた血液も、その一片までが白い砂粒と化していた。

 喰った後、その遺体が砂塵と化す。うわさには聞いていたが本当だったのだ。やっぱりこいつ、蛮夫だ。男だと新聞か雑誌で読んだ記憶が彼にはあったのだが、こいつは女。なんでこんな田舎の村に! 稲水の知る蛮夫は東京都内もしくは関東近県で跳梁跋扈ちょうりょうばっこする獣人であったはずだったからだ。

「死体もないのに殺人事件だなんてさわぎたてる気かい?」

 女は全身の砂をきれいに払い落すと、かたわらに置いてあった白のワンピースを着用した。これではどこからどう見ても黒のロングヘアーがよく似合う清楚なお嬢さんである。

「蛮夫……なのか」

 稲水は呆然としつつ死体のあった場所へ膝を着いて、地面に手をあてるが、湿った土の感触しか伝わってこない。

「蛮夫? あいつか。はん、あんな者と一緒にするな。おまえ、名前は?」

 女が聞いてきた。

「殺さないのか? 俺を喰わないのか?」

「おまえはまずそうだからな」

 ははは、と笑う女。

「名前を聞いてどうする?」

「どうもしない。ただ話しにくいから聞いただけだ。死にたくなければこたえろ」

「稲水……志朗」

「稲水? どこかで聞いた名だな」

「気のせいだろ」

 いつの間にかカエルやスズムシの鳴き声が聞こえている。雲間から月灯りがさしはじめ、まるで狂気の惨劇などなかったかのようであった。稲水にとっては、ただ田舎道で美しい黒髪の少女と遭逢そうほうしただけ。今やそんな状況となっていた。

「そうか。ところでなぜ笑った。頭がいかれてるのか?」

「……その自覚はある」

 地べたに膝をついたままの稲水を見おろし、また笑う女。

「なぜ笑った?」

「数年前に妻が殺された」

「ほう」

「夫婦そろって猟奇殺人犯に殺されるのかと思ったら妙におかしくなった」

「ふん。いい度胸をしてるな」

「そ、そんなんじゃない」

 稲水の全身に汗がしたたり、上下の歯がガチガチと鳴りやまない。恐怖のあまり変なテンションにおちいっていただけであろう。

「ひとつ教えておいてやる。砂になったあのガキこそが、稲水がいうところの猟奇殺人鬼だったのさ」

「なんだって?」

「おぼえているかな? 二年前に起こった『南関東連続幼女殺害事件』」

「おぼえてる……でも、まさか!」

 稲水にはその手の猟奇事件に無関心ではいられなかった時期がある。

「そう、そのまさかだ。あれはあのガキが十五のときに起こした事件なんだ。仮に捕まったとしても未成年だからな、死刑はおろか無期懲役にすらならない。五人も、しかも幼児を殺して遺体をバラバラに切り裂いてまわった男がさ、野ばなしになっていたんだよ。どう思う? 正義の味方の稲水志郎」

「本当なのか?」

「もちろん。しかし、いかれているわりには冷静だな。本当におかしな男だ」

「証拠は、あるのか?」

「一年かけて調査した。間違いない」

「証拠があるのかと聞いているんだ!」

「うるさいな。大声だすなよ」

「警察が二年かけて見つけられなかった犯人をどうやって捜した?」

「捜査線上には上がっていた。でも確証が得られなかったようだ。未成年の犯行ともなれば警察も取り扱いが慎重になるからな」

「あんたは確証を得たってのか?」

「仕方ない、見せてやるよ」

「なにを?」

 女は稲水の額に手をあてた。すると音声つきのビジュアルが濁流のごとく稲水の脳内になだれこんできた。


 中学生くらいの雨ガッパを着た少年が、縛られておびえた目をした五歳児ていどの幼女を前にして自身のペニスをもてあそんでいた。はあはあとあえぐような息づかいのみが聞こえる。幼女の口はタオルを詰めこまれた上、ガムテープでふさがれているので声を上げることもかなわない。場所は薄暗い廃屋の中。そして少年はステンレス製の出刃包丁の刃を幼女の首にあてると、マグロの解体ショーでもするように背の部分をどんどんと何回も叩いた。幼女は生きながらにして首を落とされたのだ。大量の血液が少年のカッパにはねかかった。血のシャワーを浴びながら少年は射精していた。恍惚の表情を浮かべつつ。切断された幼女の顔に降りかかるおびただしい量の精液……。


「うわぁあ! やめろ! こんなもの見せるな! 見たくない──」

 稲水が悲鳴をあげると、先ほどと同様、すぐさま女に口をふさがれた。

「落ちつけ。いちいちうるさい男だな」

 小刻みに震えている稲水は、この震えが恐怖からくるものなのか、やり場のない憎悪、怒りのせいなのか、自身でもわからなかった。

「見たくない……」

 泣きながら女の手のひらの中で唇を動かす稲水。

「しかし、これが現実。人を殺してはずかしめて、エクスタシーを得る人間がこの世の中には確実にいる。そして、そんな野郎に限って……男とは限らないがな、自分の身だけはかわいいと見える。そしてのうのうとなにくわぬ顔で一般人をよそおって生きていやがるんだ。おまえの知らないところでな」

 そうなのであろう。そんなやつもいるのであろう。稲水は誰よりもそれを知っている。

「……もういい。大声はださない」

「幼女が辱められるところ、あと四人分、見るかい?」

 稲水はブルブルと首を横に振った。

「どうなってる? 今のはなんなんだ?」

「私にしかつかむことのできない確たる証拠だよ」

「証拠? しかしこんなもの法廷じゃ通用しない。あのガキを有罪にはできない」

「当然だな」

「だから、あのガキを殺した?」

 女は紙巻タバコを取りだして火をつけた。細く煙を吐きだした彼女を、一見楚々とした見た目にはそぐわないなと稲水は心のどこかで思っていた。

「……やはり蛮夫、いや女だから蛮婦か」

「だから稲水、あんなやからと一緒にするな。ふふ、久々に名のるかな」

「え?」

「──我が名はヴァンプ。永遠の時のしとねによりそい、地獄で裁きをくだす者」

「…………」

 なにをいってやがるこの女、と思うも口には出せない稲水。

「どうだ、悪くない口上だろ? バンプよりヴァンプの方がいかしてるしな」

 知るかと心で突っこむ稲水。それよりも、殺す気がないのであれば早く解放してくれと願うばかりであった。なんとか怒らせずにこの場を切り抜ける方法はないものだろうかと。 

「ヴァンプ、さん、ですか」

「ああ。そう名のって久しい。昔、『餓鬼絵巻』という本の中で見つけた。飢えた鬼女、蛮婦。蛮なる女、人の生き血をすするなり。あの一節が気にいってな。私にふさわしい名だと思った。まあ、のちに西洋から入ってきたヴァンパイアという単語にインスパイアされて名のりを変えたんだが」

「……東京で頻発している獣人殺人事件、本当にヴァンプさんじゃないのか」

「あれは私ではない。何度もいわせるな。蛮夫よりこちらは上品なのだ」

「殺人に上品も下品もあるのか」

「稲水、おまえ不遜ふそんな男だな。犯罪者とはいえ、人を喰った私にそんな口をきくとは」

「殺したければひと思いに殺せ」

「死ぬことが怖くないのか?」

「怖いさ。怖いに決まってるだろ」

「おまえの家は近いのか?」

「は?」

「案内しろ」

「はい?」

 なんの冗談なのだ!

「食事のじゃまをしてくれた罰だ。なにか食わせろ」

「な、なにかって?」

 こんな化け物に食わせる飯など稲水には思いもよらない。しかし断る勇気など今の彼にあるはずもなかった。

                                 (つづく)

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