第3章 死闘 9 嵐の中の攻防

 山梨県の山中。予報どおり大型で猛烈な台風二十一号が関東圏内に直撃した夜。コンクリートの壁に囲まれながらもサッシガラスの取付がなされていない建築途上のまま放棄された五階建て建造物、その天井の高い最上階にハルはすっくと立っている。   当然、風雨は屋内にも吹きこみ、ちぎれた枝葉が飛び交う。バタバタとブルーシートかなにかが翻る音とともに、古い樹木が倒れ斜面や崖がくずれたらしき地鳴りのような轟音までもが響いてくる。

 なびく雨よけのフードをかけてもなお目に飛びこんでくる雨粒。古い建築現場に残された錆びたビスやナットが勢いづいてバラバラとハルの全身を叩く。剥がれたコンクリートのかけらが頬をかすめる。しかし彼女は動じない。そしてレインコートの裾をはためかせ、午前0時を、彦佐の到着を待っている。今夜、大正時代から連綿とつづいたしがらみにピリオドを打つために。

 数日前、吉田とともにこの地を訪れ、各所に設置したガソリンエンジンの発電機につながれたLEDランプがハルの立ち姿を鮮明にあぶり出す。その瞳に暗い光が灯った。窓部分の開口から激しい嵐に巻かれるようにきりもみしつつ、黒い影が侵入してきたのだ。影は吹きすさぶ風などものともせずに力強くハルの眼前へと降りたった。

「嵐の中に敢然とひとり立つ美貌の女。いいねぇ、絵になるよ、お晴さん」

「勝負だ、彦佐」

 ハルはレインコートを脱ぎ捨てる。たちまち風に飛ばされ、消えていくコート。

「いやはや、そんな恰好で来たの? お晴さん、ここ、海でもないのにおかしいな」

「ふん、おまえごときを相手に、ずぶ濡れになるのは片腹痛いのでな」

 リンと燃える目を彦佐へと向けたハルが着ていたのはグレイのウェットスーツ、そしてハルはロングの黒髪を素早くまとめ、ダイビングフードを頭からすっぽりとかぶった。

「あはっ! 身体のラインがくっきりだ。頭が丸坊主みたいなのはいただけないけど。でも相変わらずの美人さんだねぇ。僕を誘ってる?」

「くだらん」

「そして相変わらず、妙なプライドだけは高いんだねぇ。ここには僕たちしかいないのに。それ、誰に見せたいの? あ、稲水さん? 真実を見たら引くよ、きっと」

「黙れ! そんなことよりも彦佐よ……」

「はい。なんでしょう?」

「梅毒で死にかけていたおまえを生かしたのは、私のあやまちだった。自然にまかせて死なすべきだった。すまん、彦佐」

 頭を垂れるハル。深く、深く。そんな彼女を笑いとばす彦佐。

「そこ? 謝ってほしいのは僕を百年も眠らせ、封印していたことでしょ! お晴さんは百年間に何人喰った? たったの百人でしょ。僕なら何千、何万て人間を喰えたんだ! 本当なら史上最強のヴァンプの称号を与えられるべき者は僕だった!」

「そんな称号になんの意味がある?」

「僕にはあるんだよ。いつまでもお晴さんのヒモではいたくなかった。お晴さんを超えたかった! こんな僕にだって意地はあるんだ」

「…………」

「この一年でだいぶ追いついたけどね」

 上目づかいで、舌なめずりをする彦佐。ハルは──。

「前は十五分で片をつけた。今回は五分だ、かかってこい、彦佐」

「幕下に対する、横綱のぶつかり稽古ってあんばいかい。ふふ、どうしょうもなく上から目線だね!」

 風を巻いてハルに襲いかかる彦佐。右から左から、上から下からハンマーを振り回すごとき拳の連打。さらには歯をむいての噛みつき、飛び蹴り、ひざ蹴り、まわし蹴りと多彩な攻撃を仕かける彦佐。しかしハルは顔色ひとつ変えることなく、そのすべてを見切り、紙一重でよけ、それどころかそのひとつひとつの殴打、蹴撃技にカウンターを合わせはじめ、次第に彦佐の美しい顔が血に染まり、折られた鼻は横向きにひしゃげていた。ハルのストレートパンチが胸元へめりこみ、吹き飛ばされた彦佐は打ちっぱなしのコンクリート壁に激突、暴風のせいで運ばれてきた枯れ葉や泥まみれの土間に転がされた。

「口ほどにもないな、彦佐」

「あはは。やるなぁ、お晴さん。だけど顔はやめてよ」

 血液まじりの唾を吐き、うふふと笑う彦佐。その鼻はすでに再生をはじめ、元のまっすぐな鼻梁を取りもどしつつある。蛮夫の細胞修復能力を知らないはずのないハルではあったが、この回復速度にはいささか驚きを隠せない。彦佐はやはり相当に進化しているようだ。

「顔は僕の唯一の美点なんだからさ」

「ならばその見目うるわしき首、三条河原にさらしてくれるわ!」

「たとえが古いよ、お婆さんみたい。ねぇ、お晴さん」

 泣き笑いのような瞳をゆらし、壁を蹴り、宙を駆け、牙をむいて首に噛みつこうとするハルの目の前に、彦佐はスマホのディスプレイを突きつけた。

「なに?」

 一瞬たじろぎ、後ずさるハルに、笑みを浮かべつつ彦佐がいった。

「この建物の屋上からのライブ中継だよ」

「おまえ!」スマホに映されている映像は暴風雨の中、ミノ虫のように縛られ、建築用小型クレーンの先端に吊られ、ゆれ動く稲水の姿であった。そして三人の大柄な男たちが風雨に耐えながらクレーンの鉄骨上で稲水の命綱とも取れるナイロン製ロープにナイフを突きつけていた。「卑怯な!」

「おやおやお晴さん、それはないよ。この雨音や風の鳴る音がどれだけ僕を苦しめているのかわかる? さっきから頭痛がひどいんだよ、イライライライラするんだよ! ま、こうなることはわかってたんだけどね。わかっていて台風直撃のこの日の決闘に僕は応じたんだ。これでハンディなしといったところでしょ?」

「おのれ……」

「ここ五階建てだったよね? 落ちたら間違いなく死ぬだろうな、稲水さん」

「…………」

「ちなみにこの男たちは血を吸って奴隷にしてあるから。僕の命令ひとつでいつでもロープを切るよ。どうする、お晴さん?」

「クソが!」

「ああ、そうだ稲水さんに約束してたんだ。お晴さんが切り裂かれながら犯される姿を見せるってさ」彦佐はスマホに指令を伝えた。「もう少し下して。ちょうど五階の窓あたりまで。早くね」

 屋上クレーン上では男たちが縛ったロープをゆるめ、拘束された稲水の身体を少しずつ下げている。

「稲水!」

 雨風に打たれるのもかまわず窓際から身を乗りだすハル。その五、六メートル先に縛られた稲水が風雨にもみくちゃにされつつ下りてくる。稲水は必死の形相でなにかを叫んでいた。しかしクレーンの先端から吊られた稲水の声は暴風雨にかき消され、とどかない。

「よう、もうちょい、もう少し下して。はい、ストップ。いい感じだ。君たち、そのままロープを鉄骨に縛らず持っていろ。疲れても離すんじゃないよ、人ひとりの命がかかってるんだからね。うふふ……でもこの雨だし、スルリとすっぽ抜けるかもね。それ以前に朽ちたクレーンが倒れるかも。どうしよう」

「…………」

 たかだか五、六メートル先。しかし五、六メートル先。この暴風の中ではヴァンプの飛翔能力をもってしても真っ直ぐ一直線に飛べるとは限らない。ハルは歯ぎしりした。

「お晴さん、イチかバチか窓から飛び立って稲水さんを救うかい? お晴さんのスピードなら助けられる可能性はあるよね。でも失敗したら……ピュウ! 終わりだね」

 その時、聞き苦しい男の悲鳴が轟いた。窓辺に立つハルの前を縦断する黒い塊。スマホの映像を見る彦佐は手を叩いて高笑いする。稲水ではない。どうやらクレーン上のひとりが猛烈な強風に飛ばされ落下したようだ。

「あらら、ひとり減った。ふたりだけでどこまで稲水さんの身体を支えられるかな? 君たち、僕が『いいよ』というまで死んでも稲水さんを離すなよ!」

「てめぇ……」

「さあ、ヴァンプとして格上のお晴さん、人間なんて何人死のうが関係ないよね。殺し合いつづけようか? ちなみにだけど、今のその立ち位置から一歩でも動いたら僕は『いいよ』というからね」

 スマホをポケットに入れた彦佐はワイヤレスマイクを片耳に装着、両腕をフリーにした状態で身動きできないハルに迫る。やわらかな笑顔でハルの顔面に一発、拳を叩きこむ彦佐。鼻血が流れる、左右の連打を受け、たちまち美しい顔をはらし、目の上や唇を切るハル。しかしハルは、足に根がはえたようにその場から微動だにしない。 彦佐はアッパーであごを突きあげ、ボディに、テンプルに、また顔面に打撃の応酬! 鼻骨もろっ骨も砕けたようだ。それでも動かなかった血だるまのハルはさすがに膝を落とし、たたらを踏みかけた。

「おほっ、口ほどにもない。お晴さん、動くの? いうよ、いっちゃうよ僕」

 屈辱に燃える目を上げるハル。その背後を指さす彦佐。

「あ、稲水さんがなにか懸命に叫んでる。お晴さんには聞こえないだろうから耳のいい僕が教えてあげるよ。ハル、戦え。殺せ。俺にかまうな、だそうだよ。稲水さん、死んでもいいみたい。でも死なれる前に約束を果たそうかな」

 彦佐は彼女の背後に回り、ウェットスーツ越しにその尻をなで、股間をまさぐる。正体を現した野獣をキッとにらむハル。

「おお怖い」彦佐はハルのダイビングフードを脱がせた。風にたなびく黒髪をつかみ上げ、細いうなじに舌をはわせる彦佐。「女はやはり髪が命、この方が艶っぽいよ……ほう、すごいすごい、もう顔のはれが引いてる。元の美人のお晴さんだ。犯しがいがあるなぁ」ハルの脇あたりをさぐると折れた骨がうごめき癒合ゆごうしはじめているのがわかる。その脇腹へサクリと細身のナイフを突き立てる彦佐。さすがのハルもこれにはうめき声をあげた。「ただ犯すのもつまらないから、この傷口にペニスを挿入してみようかな? たちまち回復するでしょ、ギュウギュウとしまるよね? 気持ちいいかもしれない」

 彦佐がナイフを抜くとハルの腹から血液が流れだした。

「よせ! この変態野郎!」

 初めて恐怖の表情を浮かべるハル。その目の輝きはすでに失われつつある。

「でも、そのまま傷がふさがったら抜けなくなるかも! どうなるんだろ? 細胞が融合しちゃうのかな? お晴さんと真の意味で合体するのかな? 楽しみなような……」

「やめろ、彦佐! ふざけるな!」

 今にもベソをかきそうな顔のハルに、すぅと目を細める彦佐。

「──冗談だよ」

 彦佐はハルの背中にナイフを立て、そのまま臀部にかけて切り裂いた。たまらず悲鳴のハル。血しぶきが暴風に巻かれ飛ばされていく。両断されたウェットスーツを上部からじわじわと左右に開いていく彦佐。血塗られた白い肌が少しずつ少しずつ露出されて──。

 突如として彦佐の頭が単管鉄パイプに殴打された! 二発、三発! 左右に首を振られ、血吹く彦佐。怒声を上げ、めくらめっぽうに鉄パイプを叩きつける、窓から飛びこんできた男の影!

「い、稲水!」

「どけ、ハル!」

「稲水!」

「下がってろ!」

 稲水は土間にくずれた彦佐の全身をところかまわず打つ、打つ、打つ!

「春乃さま、ご無事で」

 冷静な声でよろめくハルをささえたのは、執事の吉田であった。

「遅くなりましたぁ!」

 ハルに抱きついたのはメイドのまひる。裂かれたウェットスーツの背をなで、かしずいているのは、もちろん幸嶋である。

「裁縫セットをお持ちするのを忘れました。申し訳ございません」

「おまえたち……」

 うがぁあああ! 彦佐が稲水をはね飛ばした。高所作業用のローリングタワーが倒壊、下敷きになる稲水。鋼製の型枠足場はねのけ、稲水に襲いかかる彦佐。

「稲水!」

 声を張り上げるハル。

「稲水さま!」事情を飲みこめていないハルより素早く動いたのは吉田であった。その万力のような剛腕で彦佐のバックを取りはがいじめにし、痛そうに頭に手をあてる稲水を確認した。「春乃さま、稲水さまはご無事です!」

「そうか……」

 胸をなでおろすハル。一方、背後から身動きを封じられた彦佐が怒声を上げる。

「なんだよ、足軽ども! しばらく動くなと蠱惑したじゃないか!」

「彦佐さま、の概念とは? 数秒、数分、一時間ですか? 日本語は難しゅうございますね。明治、大正、昭和、平成……百年以上の時を生きる我々は時間の感覚にうとく、ますますわかりかねます。私にとってしばらくは、十五分二十八秒でございました」

「そんなバカな!」

「アタシは八十年くらいしか生きてないピチピチだから、もうちょっとかかったけどね」

 ポカリとまひるの頭を叩く幸嶋。

「お黙りなさい」

「そうかい。しばらくは僕にとって二、三時間のつもりだったんだがね……まあいいや」

 あきれながら小さく首を振った彦佐は、彼を背中から拘束していた吉田の右腕を肩から引っこ抜いた! 

 ボクン! ミシッ! 関節が外れ、筋肉繊維が引き裂かれる音が吉田の鼓膜を震わせた。しかしとっさになにが起こったのか理解できていない様子の彼はひと呼吸つくタイミングで悲鳴を上げ、血しぶきながらコマのように回転し、ドウと倒れた。

「吉田ぁあ!」

 叫びながら彦佐に襲いかかるハル。ふたりの素早い手数の応酬、時にスライディングでハルが転がされ、時に馬乗りにされた彦佐がめった打ちにされる一進一退の攻防。

「ぅきぃいいいいいいいいいいいいーっ!」

 突然、奇声をはっしたのはまひるであった。この暴風が渦巻く中でもかき消されることのない超音波とも取れる高音にいち早く反応したのが彦佐である。両耳を押さえて悶絶し、土間をのたうつ。もちろんこのチャンスを逃すハルではない! 吉田の仇とばかり、彦佐の肩を足で踏みつけ、その左腕をもぎ取った! ブシャーっと噴き出す血しぶき、そして悲鳴。

「あががが、こぉのクソガキが!」

 片腕を失った彦佐はのたうちながらハルを蹴とばすと、もはや普通の人間には聞き取れないような音域の発声をつづけているまひるの前に跳び、残る右腕で彼女の首を絞めた。

「うぐぅ」

 彦佐はその首をくびり取った! 転がり落ちる頭、くずれ落ちる首なしのまひる。笑いながらその首をハルへと投げつける彦佐。思わず両手でキャッチしたハルは静かにまひるの首を置くと、彦佐に怒りのソバットを見舞う。エレベーター用の開口から勢いよく落下した彦佐は、そのまま最下層、地下一階の床コンクリート面に叩きつけられるかと思われたが、開口をのぞきこんだハルの顔面につま先蹴りを叩きこんできた。下階から突き出していた赤錆色の鉄骨に片腕でぶら下がっていたのである。

 それどころではない、彦佐は反動をつけて両脚を、鼻血を流すハルの首にからみつける。そのままの勢いで彦佐もろともハルも開口部から転げ落ちた。

 とっさに宙へと飛び、彦佐を振りはらったハルであったが運が悪かった。たまたま同時に落下した鉄筋の束が上昇したハルの両目を直撃したのだ。

 ガン、ゴン、ガガン。そこかしこにぶつかりながらほどけ、落ちていくらしき鉄筋たち。その音を聞きながら浮かんでいるハルは舌打ちした、目が見えないのである。 網膜が再生するまでしばらくは視覚を奪われしまったのである。

 轟音をまき散らす台風の最中の対決が裏目に出たのかもしれない。聴覚もきかず、気配すらも感じることができないのだ。地下一階の床面に降りたったハルは懸命に目をこらす。LEDランプの照明も弱々しくしか届かぬ薄明りの中ではおぼろげにすら、なにも見えない。

 ふたたび手さぐりのハルを彦佐の右腕が襲いかかった。だが、その襲撃を止めたのは幸嶋であった。幸嶋は口から黄色がかった液体をゲロゲロと吐しゃ、彦佐の背中に吹きかけた。するとその表皮が焼けただれたかのように侵食され、二度、三度とかけられたことでついには白い骨までが露出しはじめた。彼女の胃液は濃硫酸なみの強酸性を有していたのだ。

 辛抱たまらず声を上げた彦佐は片脚でジャンプ、オーバーヘッドキックの要領で幸嶋の脳天を蹴った。

「うぎぁ」

 意識が飛んだらしく、やみくもに胃酸をまき散らす幸嶋の背後から忍びより、彦佐はその背から腹部へと拳を撃ち抜いた。たちまちこぼれ落ちる大腸や小腸、様々な臓物。幸嶋は目をむいてその場へ昏倒する。

「幸嶋か!」

 彼女の時間かせぎのおかげで視力がもどりつつあったハルは小さな悲鳴を聞き、幸嶋が倒れたことを察知した。ハルは足元のなにかにつまずきかける。ぼやけた視界の中でもそれは認知できた。それは先ほど、もいだ彦佐の左腕。

「ふん、消えろ」

 ハルは彦佐の腕をおびただしく広がる幸嶋の胃液の中へと蹴りこんだ。たちまちのうちにブクブクと炎症を起こした左腕がピクピクと痙攣する。グシャリと踏みつぶし、グリグリと骨をくだき、雄叫びを上げるハル!

「彦佐、どこだ! 遊んでやるから来やがれ! うぐわぁ!」

 死角から突如として腕が伸び、ハルの細い首をつかんだ! 右腕のみでハルを吊るし上げる彦佐。くいこむ指先。

「ようやくつかまえた。とっととこうしていればよかったんだね、少し戯れがすぎたよ。これは反省すべき点だ。次に生かすよ、お晴さん」

「てめぇに次はねぇ!」

「おやおや、もう僕のものだよ、お晴さん。いくらはしっこくても、逃がさないからね」

「うぐぐ!」

 腕や足を振り、ジタバタと暴れるごとに絞まるハルの首。蛮夫、男の腕力に血の気が失せ、呼吸さえままならなくなる。

「しょせん女は女。お晴さん、早く意識をなくしな。もうじゃま者はいないし、さっきのつづきをしようよ」好色な笑みを浮かべる彦佐。「おおっと、お晴さん、もう逝きそうなの? もう少し遊んでよ」うつろな目をしたハルの首を引きよせ、頭突きをくらわせる彦佐。ぐぅとうめいた口からつつと血とよだれを垂れ流すハル。「おや、アクメかい? 敏感だ──はがぁ!」

 彦佐の後頭部を見舞う衝撃! 回転しながら飛んできた大ぶりの片口スパナが直撃したのだ。背後に目を向けた彦佐の顔面をかすめる錆びの浮いた1メートル大の鉄製バール。

「ハル! 起きろ!」ブンブンとバールを振って彦佐を襲う稲水が叫んだ。「ハル! ハルぅ!」

「ハルハル、ハルハル、うるさいよ、おじさん! いや、おじさんでもないか、今風にいうとアラサーかな。えらそうな講釈を垂れてたわりには暴力的だな」

 ハルを片手でぶら下げたまま、打撃を靴裏で受けとめ、そのままバールを弾き飛ばす彦佐。丸腰となった稲水は、かまわず彦佐に組みかかる。

「ハルを離せぇ!」

 稲水の声に呼応したように、薄く見開かれたハルの瞳に小さな鼓動のような光がトクンと灯る。

「誰が離すかい、お晴さんは僕のまさぐり物なんだからさ」

 腕に組みついた稲水の腹を蹴り上げ、さらに脇腹へとひざ蹴りを打ちこむ彦佐。バクンと肋骨の折れる音。涙を浮かべながら、懸命に激痛をこらえる稲水。

「なにいってっか、わかんねぇよ! 大正時代!」

「しつこいな。いいかげん、死のうか、の稲水さん」

                              (つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る