胸を張れる選択

「いまこそ、向き合う時なんじゃないでしょうか? まずは、自分の正直な気持ちと」


 顔を上げると、夢野さんはまっすぐに俺を見つめていた。


「奥さんと娘さんに会いたいのでしょう? であれば、取るべき行動はおのずと定まってくるはずです」

「二人は俺を恨んでいるに決まってる。会ってなんかくれるわけがない」


 俺は大きく首を振った。夢野さんは変わらず正面から俺を見据えている。


「そう断言するほど、ひどいことをしてしまったのですか?」

「……仕事にかまけて、長い間二人のことを見れていなかったんだよ。おかげで娘がいじめに苦しんでることにも気づかず、結局妻は愛想をつかして娘を連れて出て行った」


 ひどい父親だよ、と俺は最後に付け加えた。

 こうして過去を言葉にして振り返ると情けない気持ちがこみ上げてくる。夢の中では二人の顔がなかったが、現実では俺の方がよっぽど合わせる顔がない。


「だから、二人が俺に会いたいと思ってるはずがないんだ。それに離婚して縁も切れてる。いまさら、会いに行っても迷惑なだけだ」


 俺は項垂れながら言った。

 夢野さんはなにかを考えるように再び顎に手をやる。


「……奥さんと娘さんは、本当に坂木さんのことを恨んでいるのでしょうか?」


 夢野さんは首をかしげた。


「私には坂木さんが自分のことを許されない存在だと決めつけているようにも見えるのですが」

「知った風な口をきくな」


 再び頭に血が上り、俺は声を荒げていた。

 決めつけるも何も、俺のことが許せないから二人は出て行ったんだ。

 憤る俺を前に、夢野さんは穏やかな笑みを浮かべる。


「では、坂木さんの知っていることを教えてください」

「……は?」

「奥さんと娘さんのことです。お二人は本当に絶縁を望むほど、坂木さんを恨んでいるのでしょうか? 離れてしまったいまも憎悪を抱いているものなのでしょうか?」


 俺は返答に迷い、言葉が詰まった。

 恨まれていてもおかしくない。だけど同時にそうであってほしくないという気持ちもある。

 俺は結局、諦めているようでどこか心の中で二人とまた暮らせることを期待している。


「……仮に恨んでなかったとしても、きっともう俺のことなんか忘れて新しい人と生活を始めてる」

「きっと……ですか」


 夢野さんはその部分だけをゆっくり復唱した。


「なんだよ」

「お二人について、まだまだ知らないことがあるようですね」

「馬鹿にしてるのか?」

「そうではありません。無駄だと決めつけるのはまだ早いのではないかということです」


 ―――奥さんと娘さんも戻ってきてくれるかもね。

 ―――諦めるにはまだ早いんじゃないのかい?

 酒屋のばあさんに言われた言葉が頭に響く。

 なんだ。俺には、まだチャンスがあるというのか。いや、でも……。

 こんがらがった頭を抱えていると夢野さんが穏やかに言った。


「勇気を出して一歩踏み出してみてはどうでしょう。見られなかった夢のつづきは、その先にあると思いますよ」

「夢の、つづき?」


 俺は顔を上げ、夢野さんに目を向ける。

 後ろに見える窓ガラスは依然として雨に濡れているが、叩きつけるように振っていた勢いは治まり、いまはときおり吹く風に煽られた細かい水滴がちらつく程度だった。


「ええ。初めて来店された時、坂木さんは『夢なんてない』とおっしゃっていましたが、ずっとただひとつの夢を胸に秘めていたんですよ。『もう一度、家族と暮らしたい』という夢を。だから、ここに通い続けていたんでしょう?」

「……だが、俺がいまさら何かしたところで、どうにかなるものでも……」


 弱気な声を漏らすと、夢野さんは諭すように言う。


「どういう結果になるかは一歩踏み出してみないと分かりません。ただひとつ分かっているのは、五年前といまではなにもかもが違っているということです。周りの環境も坂木さんん自身も」

「なにもかもが違う……」


 俺はふと、ここ数日のことを思い返していた。

 酒の量を減らし、自炊や掃除などの家事に手を伸ばす自分の姿。そんなことができるなんて、思ってもみなかった。人に言わせれば、きっと取るに足らないほどの些細な変化だろう。だけど、この店に通い夢を見なければきっと起こらなかった変化だ。考えようによっては、この店を見つけて通い続けたことがこの五年間の中で一番の変化かもしれない。

 ―――あんた変わったね。

 また、酒屋のばあさんの言葉が思い出された。

 いまだったら、踏み出すことができるだろうか。


「どうするかは坂木さん次第です」


 夢野さんは静かに言った。そして一息吸ってから、今度は少し力強い声で言った。



「どうか、胸を張れる選択をしてください」



 はっとした。

 胸を張れる選択。その言葉がまるで電流のように頭から全身へと駆け巡った。

 そしてすぐに、頭の中にいままで見た夢の映像が浮かび上がった。二人の笑顔を思い出し、俺は自問する。また家族三人で暮らしたいのはなぜか? 単なる世間体? 許されて安心したいから? いや、違う。

 俺は、二人の幸せそうな笑顔が見たい。もう一度、家族として幸せな時間を共有したい。かけがえのない存在を今度こそそばで見守りたい。だけど一番の願いは、二人が、里美と美央が幸せであることだ。だからもしも……、もしも俺の存在が二人の幸せを遠ざけてしまうのなら、その時は……。


 傷つくのを恐れて逃げ回るのは、もうやめだ。

 やるべきことは決まった。

 いまだったら、踏み出せる。いや、いまこそ踏み出すときなのだ。

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