聴きに行く
「晴れましたね」
夢野さんは後ろを振り返って言った。
気がつけば台風は過ぎ去り、窓からは日の光が入り込んでいた。薄暗かった部屋が少し眩しいくらいに明るく照らされている。肌寒さは消え、身体が暖かい陽気に包まれていた。
俺は一歩前に足を踏み出し、正面から夢野さんと向き合って頭を下げた。
「申し訳なかった。ひどい言いがかりをつけてしまって……」
頭を垂れる俺に夢野さんは「顔を上げてください」とやさしく言った。ゆっくり頭を上げると、夢野さんはやわらかい笑みを浮かべていた。
「奥さんと娘さんにも自分の正直な気持ちを伝えてあげてください。きっと届きますから」
「そうだな。世話になったよ。ありがとう」
俺はそう言ってもう一度頭を下げた。
踵を返して扉へと向かうと夢野さんは早歩きで先回りし、いつものように扉を開けた。
見慣れたやりとりについ笑みがこぼれ、つられるように夢野さんも口角を上げた。
「ありがとうございました」
夢野さんの声を背中に受けながら、俺は階段をゆっくりと下っていった。
ビルの出入り口まで来たところで、俺は足を止めてスマホを取り出しLINEを開いた。里美とのトーク画面を開くと会話は五年前に途切れていた。俺はメッセージの入力欄に文字を打っていく。慎重に言葉を選びながら、長くなりすぎないように簡潔に自分の思いを綴った。いままでの謝罪と会って話をしたいという旨。打ち終わった後も何度も内容を確認して、震える親指で送信ボタンを押した。メッセージが送られたことを確認すると、ふーっと深い息が漏れた。
俺はスマホを閉じてポケットに仕舞うと、一歩進んで外に出た。日陰と日向の境界線。ただそれを超えただけだが、その一歩がとても大きなものに感じられた。
ひとまず家に帰ろうと南口の方へ足を向けた瞬間、スマホが鳴り出した。電話だ。
誰からだ? もしかして……? いや、まさか……。
俺はポケットからスマホを取り出し、画面を見た。
「えっ……」
喉が詰まり変な声が漏れた。
足を止め、震える手で画面をスワイプし、恐る恐る「もしもし……」と電話に出た。
「わたし、里美だけど」
「あ、ああ」
画面に名前が出てきたから、それは分かっている。
電話がかかってきた瞬間、もしかしてと思ったが、まさか本当に里美からかかってくるとは思ってもみなかった。あまりの緊張に心臓がかつてないほど忙しなく動いている。
「メッセージ、ありがとう」
「あ、ああ」
混乱してさっきとまったく同じ返しになってしまったが、ひとまず送ったメッセージが届いていたことに安堵した。ブロックされたり連絡先が変わったりして、そもそも連絡がつかない可能性だって十分あったのだ。
「びっくりしたよ。画面見て変な声が出ちゃった」
里美は笑いながら言った。その明るい声に緊張がほぐれていく。
「全然連絡してなかったのに、いきなりメッセージ来たらそうなるよな」
俺が苦笑交じりに言うと、里美は「ああ、違うの」と否定した。
「連絡来るかなって思ってたら本当に来たから、それでびっくりしちゃって」
「え? どういうこと?」
なんで俺から連絡が来るかもしれないなんて思ってたんだ?
連絡しようと決めたのはついさっきのはずなのに。
「商店街の酒屋のおばあさんから聞いたの。近々あなたから連絡がくるかもって」
「酒屋のばあさん?」
なんで酒屋のばあさんが出てくるんだ?
俺が混乱しているのを察して、里美は「実はね……」と話し始めた。
「三年前くらいからかな。わたし、酒屋のおばあさんと二、三ヶ月に一回くらいのペースで会って話してたの。最初はそっちにいる友達に会いに行ったときに、たまたま通りかかったから寄ってみただけだったんだけどね。二回目からは友達に会ったときは必ず寄って、あなたの話を聞いてた」
知らなかった。
三年も前から里美が定期的にこの町へ来ていたなんて。よく店でかち合わなかったなと思ったが、おそらくばあさんが俺の来る時間帯や頻度を里美に伝えていたのだろう。
なにより驚いたのは、里美が俺のことを気にかけてくれていたことだ。もう関わりたくないと思ってもおかしくないのに、わざわざ時間を作って俺の話を聞いていたなんて。きっとあのばあさんのことだから、俺のことなんてボロクソに語っていたとは思うが、それでも里美は三年もの間通い続けたのだ。
「それで、二日前に寄ったらあなたの様子が変わったってうれしそうに言ってて、もしかしたら連絡がくるかもねって話してたの」
「そうだったのか」
二日前のばあさんの意味深な態度や言葉に得心がいった。
まさか知らないうちにばあさんが俺と里美を繋ぎ合わせていたなんて。そんなそぶりは一切見せなかったのに。本当に食えないばあさんだ。
俺が苦笑交じりにため息をつくと、里美はそれまでとは打って変わって「ごめんなさい……」と沈んだ声を出した。
「連絡もしないで、探るようなマネして……。本当は伝えたいことがいろいろあったはずなのに、どう話せばいいか分からなくて。わたしから強引に別れを切り出したから余計に……」
「……いいんだ」
「あの時はとにかく美央のことで頭がいっぱいで、どうにかしなきゃってそればっかりで、あなたのことを支えることができなかった。それどころか責めるようなこと言っちゃって、わたし……」
「いいんだ」
里美の震える声を俺は遮った。
「俺の方こそごめんな。たくさん苦労をかけた」
「ううん、大丈夫。いまは生活も落ち着いてるし、美央も元気にしてる」
「そうか……」
よかった。美央が安心して暮らせていることに俺はただただ安堵した。
それから少しの間、お互い無言だった。
聞きたいこと、話したいことはたくさんある。ただ、それをどう伝えようかと自分の中で手探りに言葉を探していた。きっと里美も同じだった。
ただ、このままでは会話が終わってしまうと思い、俺は意を決して「あのさ……」と切り出した。
「会って、話せないかな?」
恐る恐る聞くと、里美は「うん……」と相槌を打って黙ってしまった。
俺の方もどう言葉を続ければいいか分からず、またしても沈黙が流れる。なにか言った方がいいかと考えていると、今度は里美が「あのさ……」と切り出した。
「九月の二週目の土曜日って空いてる?」
その日なら会えるということだろうか。俺は特に予定はなかったことを頭の中で確認した。
「ああ、大丈夫」
俺が答えると、里美は「よかった」とため息をついた。
「その日ね、美央のピアノのコンクールの日なの。だから、あなたにも聴きに来てほしくて」
ドクンと心臓が大きく鳴った。里美が続ける。
「あの子、すごい頑張ってるのよ。いまでもあなたが買ってくれたピアノを大切に使ってるの」
俺は息が止まった。在りし日の記憶が蘇る。
わたし、将来ピアノを弾く人になりたい。
小さい無垢な笑顔が俺を見つめ、さらに言葉を続ける。
わたしもっともっと上手になるから、そしたらピアノ聴かせてあげるね。
……そうか。あの時からいままで、ずっと続けてきたんだな。頑張ってきたんだな。
「聴きに行くよ……絶対」
少しだけ、声が震えた。
里美は「うん……」と短く答え、それから詳しい時間や場所はメッセージで伝えると言い、通話を終えた。
俺はスマホをポケットに仕舞い、鼻をすすってから歩き出した。
見渡してみると、台風が過ぎ去ったことで商店街はいつも通りの姿を取り戻していた。いくつもの店がシャッタ―を上げて、客を迎える態勢を整えている。酒屋も空いているだろうが、寄るのはやめておいた。次に顔を出すのは、三人一緒の時だ。
通りを抜ける途中、目の前にいつかの日に見た親子が見えた。小さな娘さんを真ん中にして両側から両親が手を繋いで仲良く歩いている。
俺はその眩しい光景から今度は目を逸らさずに、まっすぐ歩くことができた。
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第二章はこれにて完結です。
読んでいただきありがとうございました。
残り二章の予定です。よろしくお願いいたします。
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