最悪の目覚め

 今日の朝は最悪の目覚めだった。

 最近のスッキリとした目覚めとは違う。目覚まし時計の音に無理やり起こされて眠い目をこすりながら不快のままに起床した。

 それに夢も最悪だった。昨日の森田君やお母さんとのやり取りが支離滅裂に場面転換しながら流れてきたのだ。昨日は家に帰ってから部屋にこもって寝る直前までアニメを観たのに、不快な記憶は消えるどころか夢にまで浸食してきた。夢野さんのお店に行けていればという思いが、不快感にさらに拍車をかける。

 わたしは時計に目をやった。いつもより早い時間だけど、昨日が遅刻寸前だったからさすがに今日は余裕をもたせないといけない。わたしはため息をつきながら、けだるい身体を無理やり動かして一階へと向かった。


 いつもより早めに家を出ると、わたしは商店街を避けて隣にある大通りへと向かった。お母さんの言う学校が指定する通学路だ。いつまた出くわすとも知れないから、しばらくはこのルートを使わざるを得ない。この道は遠回りなんだよな、と胸の内で愚痴をこぼしながら、重い足を前に出す。

 空を見上げると、一面にねずみ色の厚い雲が張っていた。午後から雨が降る予報らしいけど、重たい雲を見ているといまにも雨がこぼれてきそうな気配がある。ニュースを見たお母さんが傘を持って行けとしつこく言うから、折り畳み傘は鞄に入れてある。出番がなければいいと思うけど、なんとなくその願いは叶わない気がした。



 学校に着いて下駄箱で靴を履き替えていると、もうすでに違和感があった。時折、粘りつくような視線を感じるのだ。わたしのことを窺うような気持ち悪い視線。最初は気のせいかもと思ったそれは下駄箱から教室に向かうにつれてどんどん強くなっていった。

 嫌な予感を覚えながら教室に入ると一層空気が変わるのを感じた。いつもの弛緩した空気が、わたしが入った途端にピリッと張り詰めて重たい空気になった。同時に、ここに来るまでに感じたまとわりつく視線を一気に受けた。

 わたしはなるべく平静を装いながら自分の席へと向かい、誰とも視線を合わせないように文庫本を開いた。構わないでくれという、わたしのせめてもの抵抗だった。一応効果はあったようで、いま教室にいる人達が絡んでくることはない。ただ視界の外で、わたしのことをチラチラと盗み見しながらコソコソと話しているのは分かった。


「はぁ……」


 文庫本に目を落としながら、わたしは大きくため息をついた。

 学校に着いた時から薄々気づいていたけど、どうやら昨日の森田君との一件はすでに多くの人に知られてしまっているようだった。森田君が広めるわけないから、きっと現場を見ていたあの女子三人組が広めたのだろう。スマホを使えば一晩で情報を拡散させるのは難しくない。目立つグループだから交友関係も広いだろうし、本当に厄介な人達に目をつけられたなと思った。

 当の本人達は、いつも時間ギリギリに来るからまだいない。森田君も部活の朝練のはずだから、来るのはもう少し後だろう。面倒なことになるのはきっとこれからだ。そう思うと、朝から落ち込んでいた気分がさらに沈んでいく。

 いま読んでいるのはスガッチが出演しているアニメの原作となったライトノベルで、わたしの大好きな作品のひとつだ。そのはずなのに、まったく物語に浸ることができなかった。



 ホームルームの時間が近づくごとに教室には人が増えていき、それに反比例するようにわたしの居心地は悪くなっていった。ひそひそ話も人数が増えればわたしの耳に届くくらいに大きくなってくる。そんな中、複数の甲高い声が廊下から響いてきて、教室全体の意識がそっちへと移った。

 ついに、あの三人組が教室に入ってきた。周りの目を一切気にせず、昨日の話題について大声で話している。リーダー格の香田さんと取り巻きの相沢さんに米田さん。

 彼女達が入ってきたことで、教室の空気はもう一段階張り詰めたような気がした。寒気を覚えたのは、きっと今日が曇りで冷えているからではない。話の出所というだけでなくても、もともと学年でも目立つ存在な上に森田君と仲の良い彼女達は自然と周りから気を遣われる。それを証明するみたいに、内緒話に花を咲かせていた人達もいまは声を潜めている。

 周りの人達と同様、わたしもできればこの三人組とは関わりたくない。でもそんなことはお構いなしと、香田さんを先頭に三人がわたしの席へとまっすぐ向かってきた。


「ねぇ、天野さんだっけ? 昨日の放課後、良介君となに話してたの?」


 どくん、と心臓が大きく跳ねた。喉の奥が絞まり、息が苦しい。

 この三人の誰かから訊かれることを覚悟してなかったわけではない。だけど、身体は大きく拒否反応を示していた。


「別に、たいした話じゃないよ」


 わたしは顔を向けても極力目は合わせないようにした。より正確に言うなら、目を合わせることができなかった。


「へー、そうなんだ。天野さんまるで逃げるみたいに教室から出てきたから、普通じゃない感じがしたけどね」


 香田さんの鋭い視線がわたしを射抜いてくる。わたしは思わず顔を逸らした。蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かない。


「とにかく、なにもないから」


 わたしがそう言うのに、香田さんは、へー、と乾いた声で返してきた。

 重苦しい空気が教室全体に広がる。身じろぎする音すら気になるくらいの異様な静けさに包まれていた。

 どうしよう。どうすれば、この場を切り抜けられるんだろう。

 考えても答えは出ず、いつのまにか文庫本から離れた手が弱弱しく膝の上で拳を握っていた。


「天野さんって、たしか良介君と幼馴染なんだよね?」


 香田さんと取り巻きの二人は同じ小学校の出身ではないけど、わたしが森田君と幼馴染であることは当然知っている。


「いいよねー。幼馴染って立場を利用して独占し放題だもんね」


 香田さんがそう言うと、取り巻きの二人も「ほんとそれー」とはやし立てる。


「天野さんって大人しい顔して実はけっこう肉食系なんだねー」

「あの時だって、二人で密会するつもりだったんでしょー?」

「ごめんねー。邪魔しちゃってさー」


 矢継ぎ早に繰り出される嘲笑が、わんわんと耳に響く。聞き流せれば楽なのに、わたしの意思に反して放たれた言葉ひとつひとつが頭でこだまし、そのたびに心臓を握られるような痛みが走った。


 予鈴が鳴る。あと五分したら本鈴が鳴り、先生がやってきて朝読書が始まる。終わりが見えてきたことにほっとする気持ちと、まだあと五分あるという絶望が同居した妙な気分だった。

 わたしはギュッと拳を握り締める。そうやって身体に力を入れないと自分の形を保てない気がした。

 早く終わって。早く、終わって。早く……。


 そう願った瞬間、嵐が過ぎ去ったみたいに周りが静かになった。わたしの前で仁王立ちしていた三人が身体を半分後ろに向けている。不思議に思い、立ちはだかる彼女達の隙間を縫うようにして奥に目をやると、そこには森田君がいた。ちょうど朝練から戻ってきたらしい。


「なにしてるの?」


 いつもの温和な森田君とは打って変わった冷たい口調だった。鋭くした視線をまっすぐ香田さんへと向けている。こんな風に森田君が面と向かって誰かを威圧する様子はほとんど見たことがない。それは周りも同じだったようで、教室にいる全員が面を食らった顔をしていた。


「いや、別になにも……」


 香田さんはしどろもどろになりながら答える。「ね、ねぇ?」と取り巻きの二人にも同意を求め、二人は頷きながら愛想笑いを浮かべていた。

 森田君の登場で教室には一層気まずい空気が流れたが、ほどなくして先生が入ってきたことでその場は解散した。

 朝読書の十分間、わたしはひたすらに文庫本の文字を追った。それでもやっぱり、物語がわたしを癒すことはなかった。

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夢のつづきを見にいこう 羽藏ナキ @hakura_naki

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