厄日

 今日は放課後に図書委員の仕事があってすんなりと帰ることができなかった。仕事といっても本の貸出、返却の受付の当番というだけでたいしたものではないけど、拘束時間が決まっているのがもどかしい。下校時間からの三十分間、わたしは壁掛け時計をチラチラと見ながら、時折訪れる人の対応をしていた。

 みんなもう部活に行ったり帰ったりしたのか、教室に戻ると誰もいなかった。わたしもさっさと帰ろう。そう思って、自分の机で鞄の中を整理していると教室の扉が開いた。見覚えのあるユニフォームが目に入る。


「あれ? 天野。まだ帰ってなかったんだ」


 森田君が驚いた様子で教室の中に入ってくる。


「うん。委員会の仕事があって。森田君は部活じゃないの?」

「いまちょうど休憩時間なんだ。で、宿題になってたテキスト置き忘れたのに気づいて取りに来たところ」

「そうなんだ」


 わたしは適当に相槌をしながら、チラッと森田君の机を見た。引き出しの中にはたくさんの教科書やノートが置きっぱなしになっている。みんなが置き勉って呼んでるやつだ。森田君はこんなことしてるからテストの点数がいまいちなんじゃないだろうか。

 わたしはため息交じりに忙しく手を動かした。鞄を肩にかけて、足早に教室の扉に向かう。


「なぁ、天野」


 後ろからの声にわたしはしぶしぶ足を止めて振り返った。


「……なに?」

「いや、その、こうやって二人で話すのって久しぶりだったから、もうちょっと話せないかなと思って……」


 別にわたしには話したいことなんてない。

 さすがに面と向かって言えなかったけど、それが本心だった。いまはなによりも早く帰って、あのお店に行きたい。それに、森田君と二人でいるところを誰かに見られたくない。


「ごめん。急いでるから」


 そう言って歩き出すと、森田君は「あのさ……!」と話を続けて引き留めにかかった。わたしはそれを分かった上で、聞こえないふりをして足を動かした。


「天野って俺のこと嫌いなのか? 恨んでるのか?」

「……は?」


 わたしは思わず足を止めて、森田君を睨みつけた。いきなりなにを言い出しているんだろう。

 森田君はだじろぎながら口を開く。


「小学校の頃からいままで天野が周りと馴染めてないのって俺のせいなんだろ? だから、俺のこと恨んでるんじゃないかって――」

「馬鹿じゃないの?」


 わたしはかぶせるようにして吐き捨てた。そして、再び廊下へと足を進める。

 もうこの人と話すことなんてなにもない。

 わたしはずんずんと足を進める。だけど、扉を目の前にしたところで足が止まった。後ろから腕を引っぱられて引き留められた。森田君がわたしの左腕を握っていた。


「ちょっと待ってくれ。話を聞いてくれよ」

「わたしには話すことなんてないっ」


 必死に腕を振っても森田君の手は剥がれない。わたしよりも大きな手がヘビのように絡みついてくる。ふと、今朝の夢が思い出された。同じ男の人でも、どうしてこんなにも違うんだろう。

 振り切ろうと身をよじっていると、廊下に人影が見えた。三人の女子が教室に近づいて来る。そのメンバーは全員、同じクラスのよく目立つグループの人達だった。全身の血が一気に下がる。まずい。この状況を見られるわけにはいかない。

 わたしは焦りからさらに激しく腕を振る。それでも腕は解放されず、むしろ離すまいとしているのか腕にかかる圧迫感はより強くなっている。


「い、痛っ」


 グッと押し込まれた指の圧力が骨に響いて、わたしは顔をしかめた。その反応に動揺したのか、絡みついていた手が緩む。


「離してっ!」


 わたしはその瞬間を逃さず、もう一度腕を大きく振った。絡みついていた手が離れ、わたしは一目散に扉へと走った。廊下に出ると、横目にあの三人の女子が映った。立ち止まってわたしと教室の中の森田君を交互に見ている。きっとなにか勘ぐっているのだろう。もしかしたら手遅れなのかもしれないけど、いまは一刻も早くこの場を離れるしかない。

 わたしは彼女達に背を向けるようにして正面玄関へと走った。一瞬、視界の端にいた森田君が泣き出しそうな顔をしていたように見えたのは、きっと気のせいのはずだ。



 校門を出てからも、わたしは逃げるように走った。すぐに息が切れてペースが落ちても、立ち止まることはしなかった。背中に受ける校舎の気配が消えるまで、わたしは早足で距離を取り続けた。


 森田君のことを恨んではいない。森田君はなにも悪くないことは分かっている。確かに事の発端は森田君がモテ始めたことかもしれないけど、その責任を押し付けるのはあまりにも酷な話だ。それに、もし森田君がここまでモテなかったとしても、わたしは結局周りと距離を置いていたはずだ。

 小学四年生あたりから、わたしは周りの話やテンションについていけなくなっていた。学校に内緒で持ってきた雑誌を片手にみんなオシャレや恋愛の話に夢中になっていたけど、わたしはどうしても興味が持てなかった。でもあからさまにそんな態度を取るわけにもいかず、愛想笑いをして無難にやり過ごして、最後はそれにすら息苦しさを感じていた。だから森田君の存在がなかったとしても、わたしは結局自ら離れる道を選んでいたと思う。


 ズキッと痛みが走り、左腕をさすった。掴まれていたときに感じた鈍い痛みだった。頭には、去り際の一瞬に見た悲愴な顔が浮かぶ。

 わたしは大きくかぶりを振り、浮かんだ映像を切り離そうとペースを速めた。



 商店街の北口の前まで来て、わたしは一息ついた。ここに来るまで、ずいぶん遠くて時間がかかった気がする。頭も身体も、いままでにない疲労感で鉛のように重い。

 わたしは重い身体を引きずるようにあの雑居ビルを目指した。とにかく、いまの自分には癒しが必要だ。あのお店で、夢野さんと話をして、夢を見られるあの紙が欲しい。わたしにとって心休まる場所はあのお店と夢の中しかない。

 相変わらず人通りの少ない商店街をまっすぐに進む。中間のあたりまで来て、雑居ビルが見えた。自然と早足になり、入口の方に向かう。その時だった。


「千沙?」


 後ろから声をかけられた。聞き馴染みのある声に、わたしは震えながら振り返った。


「お、お母さん?」


 聞き間違いではなかった。いつもの仕事用のスーツに身を包んだお母さんが、仁王立ちになりながら細くした目をわたしに向けている。


「あなた、どうしてこんなところにいるのよ」

「お母さんこそ、どうして? 仕事は?」


 お母さんの責めるような口調にたじろぎながらも、わたしは最大の疑問をぶつけた。


「今日は早上がりだったのよ。歯医者に行くからいつもより早く帰るって、朝に言ったじゃない」


 朝の記憶を探ってみたけど全然覚えがなかった。遅刻寸前で急いでいたから聞き逃してしまったのだろう。


「あなたこそ、どうしてここいるの? ここは学校が指定する通学路じゃないでしょ」

「そ、それは……」


 お母さんの言う通り、学校からはこの商店街を通らないように言われている。実際、それを守っている人の方が少ないけど、そんな言い訳はお母さんには通用しない。

 わたしが答えあぐねていると、お母さんは大きくため息をついた。


「もういいわ。とにかく、明日からはちゃんと指定された通学路を使うのよ。分かった?」

「……はい」

「さぁ、帰るわよ」


 お母さんはわたしを追い抜き、付いて来るよう誘導した。わたしはしぶしぶその背中を追う。遠くなっていく雑居ビルをわたしは後ろ髪を引かれる思いで時折振り返って見つめた。

 お母さんはいつもそうだ。いつも頭ごなしに、あれはダメこれはダメと否定する。いまの通学路の話もそうだし、お父さんから譲ってもらったあのポータブルテレビも初めは禁じられた。だから当然、スマホも買ってもらえない。いまどきの中学生なら持っている人の方が多いだろうに、中学生にはまだ早いとか勉強の邪魔になるとか言って、持たせてもらえない。スマホがあれば、スガッチが出演しているアニメのゲームアプリで遊んだり、SNSでスガッチをフォローしたりして毎日がもっと楽しくなるのに。スマホを持っても、ポータブルテレビのようにちゃんと自制して使うのに、お母さんは信じてくれない。お母さんはわたしのことをなにも分かっていない。


 商店街を抜けてしまうと、あの雑居ビルは完全に見えなくなってしまった。わたしは少し後ろを歩きながら、お母さんの雑談に適当な相槌を打つ。

 今日はなんて一日だろう。委員会の仕事ですぐに帰れないし、そのせいで森田君には絡まれるし、やっとの思いでお店に着いたと思ったらお母さんと出くわすし。思い出すだけで大きなため息が漏れる。間違いなく、今日は厄日だ。

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