聴かせてください

 帰り道の途中、無意識にいつもの散歩コースの戻っていたようで、気づけば商店街の北口に来ていた。中はいつも通りほとんど人がいない。少し歩くと、左側にあの雑居ビルと張り紙が出てきて立ち止まった。改めて目にしても、やはりこの雑居ビルと店の存在には違和感を覚える。絶対にいままでこんな雑居ビルはなかったはずなのに。


 ―――ここは必要としている人の前に現れるものなんですよ。


 ふと、夢野さんの言葉が頭に浮かぶ。

 雑居ビルを見上げると、二階の窓のカーテンが空いていた。

 僕はゆっくり、雑居ビルの中へと足を運んだ。


 二階に上がり扉を開けると、夢野さんは正面のテーブルでコーヒーを飲んでいた。


「おや? 西田さんじゃないですか。いらっしゃいませ」


 夢野さんは立ち上がって一礼する。「どうも……」と言いながら、僕も軽く頭を下げた。


「どうぞ、こちらへ」


 前回と同じ手前側の椅子に手招きされ、僕は腰を下ろした。

 夢野さんは右側の台所へと向かっていく。おそらくコーヒーを淹れてくれるのだろう。


「一週間ぶりですね。前回書いた夢は無事に見られましたか?」


 夢野さんが台所越しに聞いてきた。


「ええ、一応……」

「びっくりしたでしょう? 普段見る夢と違ってリアル感がありますから」

「現実かと思うくらいでしたよ。それに、起きたら紙がなくなっていて、一体どうなっているんだって混乱しました」

「西田さんは本当にいい反応をくれますね」


 ふふふっと笑いながら夢野さんはコーヒーを運んできた。僕は「ありがとうございます」と一言添えて、ふうとカップに吹いてから口をつけた。香ばしい香りが鼻に抜けて心地よい。

 コーヒーの優しい温かみに癒されていると、夢野さんが向かいの席に腰かけながら言った。


「そう言えば、西田さんは前回ギタリストになる夢をご覧になったんですよね? その後はどうです? もう一度目指してみようとか、なにか心境に変化はありましたか?」


 核心をつく言葉に思わずむせる。

 咳き込んでいると視界の端で夢野さんが顔を覗かせていた。


「もしかして、私また変なこと言っちゃいましたか?」

「い、いえ……」


 僕は咳を鎮めながらも訊ねた。


「なんでそんなことを聞くんですか? 僕がギタリストを目指すとか」

「夢と現実は互いに影響し合っているものですから。現実が変われば見る夢も変わりますし、逆に偶然見た夢が現実を変えることだってあります。だから、西田さんもなにか変化があったかなと思いまして」


 変化、か。

 あったかと訊かれたら、あったと肯定せざるを得ない。

 あの夢を見てからずっとギターのことが頭から離れないのだから。


 僕はカップを片手に持ったまま、目を伏せていた。

 その姿をどう受け取ったのか、夢野さんはからっと明るい口調で言った。


「個人的には、西田さんはもう一度ギタリストを目指してみてもいいんじゃないかなと思います。文字通り夢見ていますし、くすぶっているようにも見えますから」


 あまりにも軽い物言いにムカッときて、思わずカップを持つ腕を勢いよく下した。

 カップとソーサーが大きな音を立ててぶつかり、中身のコーヒーは激しく波打ってあふれ出る。


「そんな簡単に言わないでください。才能もないのにそんな無謀な夢を見てもただ苦しいだけなんですから。潔く諦めて堅実に生きる方がよっぽど幸せですよ」


 いきどおる僕を前に、夢野さんは落ち着いた様子でコーヒーに口をつける。

 そして笑っているような表情はそのままに、今度は少し声のトーンを落として言った。


「たしかにそうかもしれません。でも、夢が現実を生きる活力を与えてくれることもあるでしょう。西田さんはギタリストを目指していた時、楽しいことはひとつもなかったのですか?」

「……でも、楽しいことばかりじゃない。辛いことや苦しいことだってたくさんあります。なにより、夢じゃ食べていけない。夢を見られるのなんて、結局は子供だけなんですよ」

「そんなことはありません。夢は子供でも大人でも、誰でも等しく見られるものです」


 僕は大きく首を振る。


「それは現実を見ていないだけです。現実はそんな甘いものじゃない。才能がなければ結果は出ないし、結果が出なければ見向きもされない。ただコケにされておしまいなんです」

「では、西田さんの望む結果とはなんですか?」

「え?」

「どういう結果が出れば、西田さんは夢を見られるのでしょうか?」


 唐突な問いかけに僕は固まった。

 どういう結果って……。

 それはもちろん……曲がヒットして、メジャーデビューして、大きい会場でワンマンライブして……。それから、もっと広い家に住んで、美味しいものもたくさん食べて……。

 数珠つなぎで浮かんでくるそれらの光景はあの夢のような鮮明さはなく、浮かんだ端からぼやけて消えていった。


 答えあぐねていると、夢野さんは立ち上がり、棚の方へ向かった。

 またあの紙とペンを取り出すのかと思いきや、夢野さんは棚の隣にあるクローゼットを開けた。


「それって……」


 僕は思わず立ち上がる。

 夢野さんがクローゼットから取り出したものは、ギターだった。ハードケースに入ったギター。


「なんで……」

「あれ? 先週ご来店いただいた時に言いませんでしたっけ? 私も一時期ギターを練習してたって」


 言われてみれば、そんなことを言っていた気がする。たしか、始めてみたもののFコードでつまづいてやめてしまったとか、そんな話だった。


 夢野さんはハードケースを床に置いて、中のギターを取り出した。アコースティックギターだった。そして両手で抱えて、僕の方へ差し出した。


「弾いてくれませんか?」

「え?」

「前に言ったじゃないですか。西田さんのギターが聴いてみたいって。聴かせてくれませんか?」

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