第一章 ギタリスト 14

このアコースティックギターは僕が大学生の頃に、貯めていたお小遣いやお年玉とバイト代をかき集めて買ったものだ。それまでは中田から借りていたけど、弾いているうちに自分のものが欲しくなって、バンドメンバーと一緒に地元の楽器屋を見に行った。四人で活動していたときはエレキギターをメインで使っていたけど、中田と二人になってからは路上ライブをしていたから、アコースティックギターもよく使っていた。あの最後の路上ライブでも、使っていたのはこのギターだった。


「案外弾けるもんだな」


二年以上触っていなかったわりに指は思い通りに動いていた。コードを押さえる左手の指が少し痛むけど、しっかりと音は出ている。あらかたコードを試し弾きしたところで、僕はどかした段ボールのひとつを漁った。その中にはエレキギターで使うアンプやヘッドフォンの他、楽器屋で買った数冊のTAB譜と自分たちが作った曲の楽譜が入っていた。僕は楽譜の中からある一曲を抜き取ってベッドに広げ、再びギターを構えた。


その曲は中田と二人で活動していた時に作った曲だ。作詞、作曲のすべてを僕が担当した。世間的に見れば箸にも棒にも掛からなかった曲だけど、僕はこの曲が自分たちの作ってきた曲の中で一番好きだった。

自分が作った曲で愛着があるというだけじゃなくて、自分の伝えたいメッセージをうまく表現できたと、個人的には思っている自信作だった。結果が出ているわけじゃないから説得力はないけど。


楽譜を見て思い出しながらゆっくり弾いていると、ローテーブルの上のスマホが鳴った。会社のスマホに電話がかかってきたのだ。一気に現実へと引き戻されて、さっきまで気にならなかった雨音が着信音と混じりながら耳に届いてくる。

どうせ小野さんからだろうとスマホを手に取ると画面には案の定、小野さんの名前があった。たしか小野さんは金曜に何件か地方のお客さんのところへ出張に行っていたから、電話の内容はおそらくそれに関わる話だ。無視したい気持ちを堪え、僕は嫌々ながらに画面をスワイプした。


「もしもし……」


「出るの遅かったけど、なに? 忙しかった?」


「ええ、まぁ……」


「あ、そう。まぁいいや、月曜なんだけどさ」


小野さんは構わずに自分の要件を話そうとしてきた。微塵も悪びれる様子がないことに苛立ちを覚える。

いい加減、こっちの事情も考えてくれないだろうか。どうせ概算でもいいから見積書を作ってくれとかそういう話だろうけど、僕の方も余裕がないし、なによりいまは休日で完全にプライベートな時間のはずなんだけど……。


「あれ? 反応ないけど、聞こえてる?」


「はい、聞こえてます。……もしかして、見積りですか?」


「そうそう。金曜に行ったお客の見積もり急ぎで作ってほしくてさ。概算でもいいから早めに知りたいって言うから、月曜か遅くとも火曜の朝までに頼むわ」


やっぱり……。

僕は頭を抱えた。

膨れ上がったタスクやストレスがヘドロのように堆積し、そして腐臭を放つように暗い感情が湧き出てくる。


この内容、伝えるのは月曜の朝一でもよかったんじゃないのか。そうすればいまこんな不快な思いをすることもなかった。いやそもそもなんで僕の予定を把握していない癖に僕に手伝わせる前提でお客さんと話をしているんだ。それにそのお客さんは小野さんの担当で僕はまったく関わっていないじゃないか。結局は僕に雑用を押し付けて自分が楽をしたいだけじゃないか。そもそも――


「おい、西田?」


鋭い声でハッと我に返る。

無意識に呼吸を止めていたのか、息が上がっていた。


「もしもし? 聞こえてんなら返事しろって」


「は、はい……すみません……」


「……なに? もしかして忙しい? できない?」


電話越しにいつもと違う様子を悟ったのか、小野さんが問いかけてきた。

でも、気を遣うような優しい口調ではない。尖った言い方で有無を言わせない凄みがあった。

こんな聞き方されたら、できないなんて言えない。


「いえ、大丈夫です……」


「あっそ。じゃ、頼むわ」


ブツッと一方的に通話が切れた。雨音が虚しく部屋に響き渡る。

頭が重い。胸がまるで痙攣しているみたいにざわついている。


僕はすぐにスマホの電源を切って、目に付かないように鞄の中に放った。そしてギターを構え直し、さっきよりも数段速く、大きな音でギターをかき鳴らした。

周りの音のすべてをかき消すように。自分の内に巣食ったすべてを吐き出すように。


不思議だった。

ずっと見えないように仕舞い込んでいたギターに、こんなにもかじりつくことになるなんて。


就職して一人暮らしをすると決まった時、僕はギターをはじめ楽譜やアンプなどバンド活動に関するものはいっさいこの部屋に持ち込まないつもりだった。どうせ弾かないと思っていたし、負の遺産のような感覚だったからそばに置いておきたくなかったのだ。

だけど、両親が絶対に持っていけと言って譲らなかった。お前の持ち物なんだから全部持っていけ、と。

もっともな言い分だと思う反面、疑問だった。なぜ、両親はあんなにもかたくなに置いていくことを拒んだのか。



分からない。


分からない、分からない、分からない。

過去も。未来も。なにもかも。

自分がどうしたいのかも。どうするべきなのかも。


仕事は嫌だ。じゃあ辞めるか? 他に行くアテはあるのか? こんな僕を受け入れてくれるところがあるのか?

辞めて次はなにをするんだ? ギターか? 結果が出なかったのにまたやるのか? モノにならなかったらどう生活するんだ?


なんでギターのことが頭から離れないんだ? あんな夢を見たからか? まだ諦めきれていないのか?

両親の反対を振り切ってでも全部置いてくればよかったのか? いっそのこと捨ててしまえばよかったのか? そうすればいまさら迷うことなんてなかったのか?



頭を振り、身体を揺らし、僕はわめくようにギターを弾いた。

残りの楽譜もすべて取り出して、手当たり次第に弾いた。

日が暮れるまで、指の皮がめくれて血がにじむまで、弾いて弾いて、弾き続けた。

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