相応の現実
俺は中に入り早足で一段ずつ階段を上がっていく。急に走ったせいか脇腹と膝に痛みが走り、その不快感が苛立ちをさらに募らせる。
扉の前に立ち、軽く息を整えた。聞こえてくる雨音はしばらく止みそうになく、ときおり雷も轟いている。
俺はドアノブに手をかけると勢いよく扉を押し開けた。
部屋は外から光が入らないのと電気が点いていないこともあって、あの悪夢のように薄暗かった。シンと静まり返った空気が漂っていて一瞬誰もいないかと思ったが、腰まで伸びた長い髪の人物がひとり居た。
夢野さんは後ろで手を組みながら、ジッと窓から外を見下ろしている。
「おい……!」
思ったよりも低い声が出た。
乱暴な呼びかけに夢野さんはゆっくりと振り返る。
「坂木さんじゃないですか。どうかしましたか?」
二歩ほど歩み寄りながらいつもの笑ったような表情のまま穏やかな声で返してきた。それが余計に神経を逆なでする。
どうかしましたかじゃねぇよ。
「とぼけんな! あの紙のせいで悪夢を見たんだよ! お前の仕業だろ!?」
腹でふつふつと湧き上がっていた怒りが怒鳴り声となって外に出た。それでも夢野さんは顔色ひとつ変えず、「悪夢……」と呟きながら顎に手をやる。
「それは望んだ夢とは違うものを見たということですか?」
「そうだ。あんなのは俺が望んだものじゃない。そのはずなのに、枕の下の紙はきれいさっぱり無くなっていた。望んだ夢を見られるんじゃなかったのか? どうなってんだ?」
俺は一歩詰め寄って睨みつける。
しかし、夢野さんは動じず、体勢を崩さないまま顔だけを俺に向ける。
「失礼ですが、その悪夢とはどんな内容だったのでしょうか?」
「あ? 内容?」
「ええ、そうです」
夢野さんはジッと見つめてくる。
夢の内容はいままでのように鮮明に覚えていて、思い出すと背中にぞっと寒気を感じた。
「……化け物が出てきたんだよ。妻と娘の姿を願ったはずなのに、夢に出てきたのは二人の姿をした化け物だ。のっぺらぼうで、人間とは思えない低い声で、俺に襲いかかってきた」
整えたはずの息は声を荒げたことでまた大きく乱れた。
夢野さんは再び顎に手をやり、ふむと考える仕草をとる。
「すみませんが、もうひとつ質問を。坂木さんはその奥さんと娘さんとは顔を合わせているのでしょうか?」
まるで心臓を掴まれたみたいな痛みが走る。
しばらく黙っていると夢野さんは「どうなのでしょうか?」と迫ってきた。問い詰めようとしたつもりが、いつのまにか問い詰められている。居心地の悪さから思わず目を逸らしたが、夢野さんの細目は俺を捉えて離さなかった。
「会っていないんですね?」
「……五年前に離婚して以来な。それがなにか関係あるのか?」
「夢を見ることができなかった原因はそれじゃないですか? いくら夢と言っても、想像の埒外にあるものは見ることできませんから」
想像の埒外にあるもの。
その言葉が頭に引っ掛かる。
「どういう意味だ?」
「以前にも言いましたが、そもそも夢を見るのは睡眠中に脳が働いているからです。記憶の整理をしているとよく言われますが、それは裏を返せばその人の記憶にないものや想像し得ないものは、夢でも実現することはできないということです」
「…………」
「坂木さんはおっしゃっていましたね。夢を見るのも楽じゃないんだな、と。その通りです。夢を見ることは決して楽なことではありません。望む夢を見るということは、それ相応の現実と向き合うということですから」
俺はカッと頭に血が上って熱くなり、早足で間合いを詰めて夢野さんの胸ぐらをつかんだ。
「俺が現実から目を背けてるって、逃げてるって言いてえのか?」
「少なくとも、奥さんと娘さんの姿を見ることができなかったということは、二人と向き合っていないからでしょう」
俺はぐっと言葉を詰まらせる。
穏やかな口調に似合わない厳しい意見は胸に深く突き刺さった。図星だと、そう思ってしまった。実際、俺は五年もの間、二人の顔はおろか声すらも聞いていない。
「くそっ……」
俺は振り払うように掴んでいた胸ぐらから手を離した。
夢野さんはその勢いで多少よろけたものの、すぐに姿勢を正して顔色ひとつ変えずに乱れた襟元を直した。
「……なんとなく予感はありました。先日ご利用になられた時に一枚目の結果を見てから二枚目の内容を決めたいと、そう伺ったあの時。もしかしたら、想像の限界に挑もうとしているのかもしれない、と」
「…………」
「今回のことは坂木さんにとって受け入れがたいことかもしれません。ですが、それを受け入れてこそ……」
「…………せぇ」
「え?」
「うるせぇ……」
出てきた言葉は虚しく床へと零れ落ちた。
「分かってるんだよ。ずっと逃げてきたってことも、自分が悪いってことも。全部、分かってる……」
俺自身、なんとなく嫌な予感みたいなものは感じていた。
海水浴に行く夢を見ると決めた時は自然と二人の顔が浮かんできたのに、いまの二人の姿ははっきりと想像できなかったからだ。どうしても、すべてのピースを埋めることができなかった。二人が俺に笑顔を向けているところが、いまも思い描くことができない。
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