俺の理想
八月十四日。
俺は昼飯を済ませてから店へと足を運んでいた。
数日前までは照り付ける太陽で自然と汗が噴き出る暑さだったが、今日の空は一面雲に覆われているおかげで気温が低く過ごしやすい。台風の影響なのは明らかだった。
朝のニュースによれば台風は予想通りの進路を通っており、今後も大きく外れることはない見通しだ。今日は雨の予報ではなかったが、一応財布と一緒に折り畳み傘をショルダーバッグに入れて出かけた。
今日は夢の内容をすでに決めている。そして、その内容はいままでと少し違う。内心どきどきしながら歩いていると、足が早まっていたのか、いつのまにか雑居ビルの前まで辿り着いていた。
店に入ると、夢野さんが奥のテーブルを布巾で拭いていた。鼻歌交じりだからかリズムに合わせるように手を動かしている。
俺が入って来たことに気づくと、「いらっしゃいませ」と首をひねって顔をこちらに向けた。
「あ、坂木さん。ようこそ」
夢野さんは姿勢を正して向き直った。
「ああ。また来たよ」
俺が言うと、「すっかり常連ですね」と笑いながら椅子を引いて手招きする。
それに従って腰を下ろすと、夢野さんは流れるように台所へと向かい、少ししてから麦茶を持って戻ってきた。もはや見慣れた光景だ。
俺は麦茶を一口飲んでから、夢野さんに「今日は二枚頼む」と指を二本立てた。
「かしこまりました」
夢野さんは棚から二枚の紙とペンを取り出し、テーブルに置いた。
俺は二枚の紙を引き寄せてさっそく書き進めていく。まずは、今日の分からだ。
夢の内容は、『家族で海水浴に行く』。
過去、ピクニックや水族館などいろんな場所に家族で足を運んできたが、実は海には行ったことがなかった。正確には行こうとしていたが、行くことができなかった。ちょうど計画していた日と台風の上陸が重なってしまって、あえなく断念したのだ。たしか、美央が小学二年生の時のことだ。
あの時は美央がわんわん泣いてなだめるのが大変だった。代わりに室内プールに行こうにも、かなり大きい台風だったせいで広い範囲が暴風雨となってしまい、出かけること自体が難しかった。困った末に家でスイカやかき氷を食べて夏らしさを満喫してもらうという作戦でなんとか乗り切った覚えがある。
今回はそのリベンジを夢の中で果たすつもりだ。
三日前に夢野さんに話を聞いたときからうっすら考えていた。完全な空想の世界を夢の中で作り出せるなら、俺の理想も思い描けるのではないか、と。
あまりに現実とかけ離れていると見ることが難しいみたいだが、俺の望みはあくまでも現実の範囲内だから問題はないはずだ。
まず一枚目を書き終えたところで夢野さんを呼ぶ。確認したいことがあった。
「なんでしょう?」
「二枚目の方なんだが、内容は書かずに持って帰りたいんだけど、大丈夫か?」
夢野さんは小首をかしげながら「と、申しますと?」と聞き返す。
「一枚目の夢を見られたかどうかで二枚目をどうするか決めたいんだよ。だから、全部の項目を埋めた状態じゃなくても持ち帰っていいのかと、後で内容を書いてもちゃんと効果があるのかを確認したいんだ」
夢野さんは顎に手を当てて考える仕草をとる。
「……そうですね。少なくとも名前を書いておいてもらえれば、残りは持ち帰ってからでも大丈夫です。効果にも特に影響はしません」
「そうか。ならよかった」
俺はほっと胸をなでおろす。ここで無理と言われたら、計画が破綻してしまうところだった。
言われた通りもう一枚にはひとまず名前だけを書き、二枚それぞれを四つ折りにしてバッグの中へしまった。
そして入れ替えるように財布を出して立ち上がり、六千円ちょうどを夢野さんに差し出した。夢野さんは頭を下げながら両手で大事そうに受け取ると、二つ折りにして袖の内側に仕舞った。
帰り際、会釈して外に出ると背中越しに「ありがとうございました」と聞こえてきた。見えなくても、夢野さんがお辞儀しているのが分かる。
いつも通りだと思いながら、階段を降りようとしたその時だった。
「どうぞ、お気を付けて」
いつもとは違う、付け加えられた言葉に思わず振り返る。
しかし、扉がちょうど閉じてしまい、中の様子を見ることは叶わなかった。
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