本当に夢見た景色

 夜の十時を回ったところで寝る準備を始めた。

 明日からは先週と同様、早めに出社するつもりだから寝坊は避けないといけない。仕事のことを考えると多少は気が滅入るものの、今日はいつもよりずっと落ち着いている。


 シャワーを浴びて部屋に戻ると、自然と目が枕に吸い寄せられた。枕の下には、夢野さんからお礼として貰ったあの紙が置いてある。帰ってきてすぐに枕の下にセットしておいた。

 もちろん必要事項はすでに書いてある。夢野さんから「記入はお店でお願いします」と言われたので、その場でさっと済ませたのだ。時間は前回と同じで、今夜の十一時から明日の朝六時にしている。夢の内容は、ギタリストになること。今度はもう、迷うことはなかった。


 部屋の電気を消して、ベッドに横になった。

 前回は変に緊張して眠れるか不安になっていたのに、今夜はそういった目の冴えるような感覚はない。

 望んだ夢を見ることができるなんて非日常な体験も、同じ内容で二回目ともなれば緊張を生むこともないようだ。ただ僕の場合、それは単に慣れたということではなく、どういう夢になるか想像がついているからだろう。

 僕は目を瞑って、ゆっくりと呼吸しながら今日のことを思い返していた。夢野さん、肉屋の奥さん、良介君。彼らの顔と言葉が頭の中に浮かんでくる。

 暗闇の中、自分の頬が緩んでいるのが分かった。ほぐれた気持ちのまま、意識が遠のいていく。こんなにも穏やかな入眠は、ずいぶんと久しぶりな気がした。




 僕はマイクの前でアコースティックギターを肩にかけて立っていた。

 淡い橙色のスポットライトで照らされたステージは、いつかのときに見た夢と比べてずいぶんと小さかった。目の前の客席も同様で、ざっと見渡してみた限りその数は五十にも満たないだろう。会場自体が小さいのだ。


 ステージにいるのは僕だけではなく、後ろにはギター、ベース、ドラム、そしてキーボードがそれぞれひとりずついて、僕が組んでいたバンドとはそもそも構成が違っていた。僕のイメージが追いついていないからか、顔はおぼろげでよく見えないけど、かつてのバンドメンバーではないことは確かだった。


 この夢の中ではある程度は自分の想い通りになる。

 僕は一呼吸置いてから、あの曲を弾き始めた。その瞬間、示し合わせたように各楽器の音が重なる。この曲をこのバンド構成で弾いたことはないけど、僕のイメージ通りの曲が生まれていた。


 イントロが終わり、僕は歌う。

 メロディと歌声が染みわたるように広がっていく。会場の規模が小さい分、前よりもずっと観客との距離が近く、強い一体感が生まれていた。観客は微笑んでいるように見えるけど、後ろのメンバーと同じでひとりひとりの顔は判別できない。だけど、その中でも三人だけは、表情がはっきりと見て取れた。

 夢野さん、肉屋の奥さん、良介君。観客の中に紛れるその三人の笑顔だけは、まるで輝いているみたいだった。


 彼らの笑顔が、気づかせてくれた。

 なぜギターを弾くのか。その答えを。


 僕は届けたいんだ。自分の想いを、大好きなギターに、音楽にのせて。

 この世界のどこかにいる、届けるべき人に届けたい。顔を知らないそんな誰かの、笑顔を作りたい。


 僕がギターを弾く理由はそれだった。


 プロになるのも大きい会場でワンマンライブをするのも、ギターをやる目的じゃない。

 ギターを弾き続けたその先につながっているものだ。そこにいつ辿り着けるかは分からないし、別に辿り着けなくたってかまわない。

 小さな会場でも、届けるべき人に届けば、笑顔を作れれば、それでいい。


 曲が終わる。

 拍手喝采とは違う穏やかな賞賛が鳴り響き、僕の身体を包んだ。観客の染み入るような笑顔が一面に広がっている。

 これこそが、僕が本当に夢見た景色だった。

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